六. 庶幾
その日の深夜、浩然は寝室の前で不寝番に当たっていた一人の近衛武官を寝室の中へと呼び入れた。
「お前は、確か郭と言ったな」
寝台に腰掛けた寝衣姿の浩然は、目の前に立つ精悍で誠実そうな面立ちの近衛武官を見据えた。
「はっ、陛下。私は近衛武官副官を務めております、郭 俊豪で御座います」
暫く無言で、直立した凛々しい皇帝陛下直属の近衛武官の姿を眺めていた浩然だが、顔を郭から背けると小さく口を開いた。
「では、郭。皇帝として余が其方に命じる。……静麗を今すぐに皇都から連れ出し、故郷の地へと安全に連れ帰れ」
浩然の言葉を聞いた郭は暫く黙っていたが、その場で跪くと頭を垂れた。
「申し訳御座いませぬ、陛下。その御下命には、従えませぬ」
落ち着き払った静かな声を聞いた浩然は、振り返ると俊豪を睨み付けた。
「何故だ。お前は俺の近衛武官なのだろう? だったら、俺の命を聞け。俺の望みは静麗の幸せだ。俺は最愛の妻を手放す覚悟をしたんだ。お前達こそ、そんな俺のたった一つの願いぐらい、聞いてくれてもいいだろうっ」
皇帝陛下の広い寝室の中に浩然の声が響き渡る。
俊豪は跪き、下から寝台に腰掛ける浩然の顔を見上げる。
「確かに私は陛下の武官です。この命に代えても御身をお守りする事が我が勤め。されど、蒋殿を連れ出すことは出来かねます。たとえ貴方様からどのような誹りを受けようとも、今の御下命を受けることは出来ないので御座います」
浩然は俊豪の決意を秘めた目を見詰め返すと、悄然と俯いた。
「もう、いい。……下がれ」
俊豪は暫し逡巡する様子を見せたが、はっ、と応えると静かに寝室から退出していった。
暗闇に包まれた皇帝陛下の寝室から、浩然の押し殺した慟哭が微かに漏れ聞こえていた。
◇◇◇
翌日、浩然が卓の上一杯に広がった豪華な昼餉を、味気なく感じながら一人で食していると閻 明轩がやって来た。
閻は浩然に殴り飛ばされた後も、そんな事すら無かったかのように自然に振る舞っていた。
その厚顔さに浩然は苛立ちを募らせる。
―――よくも平然と俺の前に立てるものだ。朝廷の中でも、こいつ程傲慢な者は他に居ないだろう
そして今度は一体何をさせる積りかと、浩然は冷めた想いで閻から顔を背けた。
連日、朝廷の高級官吏達は浩然が住む 透輝宮 曙光殿にやって来ては浩然に様々な書類を見せて決済をさせる。
浩然にはそれらがどの様な物なのかも良く分からない。
しかしそんな浩然の戸惑いを無視し、官吏達は只管浩然に署名をさせ続ける。
本来は皇帝陛下の執務室がある天河殿で行われる政務なのだが、浩然は未だに曙光殿から出しては貰えなかった。
そして、そんな意味の分からない政務の合間には、皇家の歴史や、皇帝陛下としての立ち居振る舞いを学ばされ、特に言葉遣いは徹底して矯正をされる。
浩然は黙って立っていれば生まれながらの皇族の様な、気品溢れる美しい青年だ。
だが、口を開くと田舎の平民の青年である事が直ぐに知れてしまう。
唯でさえ、半分平民の血を引く皇帝陛下を担ぎ上げている寧波の朝廷としては、少しでも皇家の威厳を損なう行動を許容出来なかったのだ。
浩然は閻の存在を無視するように食事を続けていたが、閻の発した言葉に箸を取り落として驚愕を顕わにした。
「陛下。本日静麗殿と対面する時間が取れましたが、如何致しますか?」
閻の言葉に、箸を落とした事すら気付かずに浩然は立ち上がった。
「静麗と会えるのか!?」
「ええ。本日でしたら、少し時間の猶予が御座います故」
浩然の顔に久しぶりに笑顔が浮かぶ。
―――あぁ! 静麗は無事だったのだな!!
いくら朝廷の者達が丁重に持て成していると言っても、浩然自身が脅されて殿舎に閉じ込められている今、信用出来る筈も無かった。
だが、今日、その静麗と会えると言うのだ。
浩然の心に安堵が広がったが、同時に己の現状を思い出す。
再会した静麗に、何と言って話せばよいのか。
苦悩する浩然に追い打ちを掛ける言葉が告げられる。
「但し、静麗殿とお会いいただくには条件が御座います。七日後に控えた即位の儀と、皇后娘娘との御成婚を、貴方様の御意志で受けて頂く事で御座います」
「七日後……?」
早急に御子をと言われ続けていたが、実際の日程等は何も聞かされていなかった浩然は驚きに強張った。
「左様で御座います。天河殿で行われる即位の儀と同時に、皇后娘娘を冊立して頂き、その夜には初夜の儀も執り行って頂きます。……それらの儀式を陛下が御自身の意志で受け入れて頂けるのであれば、本日静麗殿との対面は叶いましょう。……ですが、この期に及んでもしそれを拒否成されるのであれば、此れまで寛容に扱って参りました静麗殿の待遇も、変えなければなりませぬこと、よくよくお考え下さいませ」
◇◇◇
昼餉の後、何時もの様に曙光殿で政務を執り行っていた浩然は、部屋の入口に閻が現れたのを見て、筆を置いた。
結局浩然には、閻や朝廷に逆らう事は最後まで出来なかった。
静麗を裏切り、他の女を娶って子を作らねば、静麗や祖父母の命さえも危ういという事は、此れまでの己に対する扱いからも十分すぎるほどに分かっていたからだ。
皇帝陛下と敬っている浩然に対してさえ、平然と脅してくるような朝廷が、唯の平民の少女を気遣ってくれる筈も無いだろう。
浩然が他の女を娶るのを渋る原因が静麗だと感じ、邪魔だと思われたらどうなるか等、考えるまでも無い事だ。
浩然には、もう、逃げ道は何処にも残されていなかった。
「お前達に全て従う。だから、静麗を故郷に帰してやってくれ。頼むから、手を出さないでくれ……」
朝廷に屈した浩然に、閻は穏やかに微笑み頷いた。
「では、参りましょうか。静麗殿も楽しみにお待ちになっている事でしょう」
◇◇◇
浩然と閻の他に官吏が一人、そして近衛武官が二人付き従い、浩然は半月以上の月日に渡り閉じ込められていた殿舎から外へと出た。
殿舎の外には皇帝陛下専用の豪華な輿が用意されていたが、浩然は首を横に振ってそれに乗る事を拒否した。
―――こんな偉そうな物に乗って、静麗に会いたくはない。これが最後の逢瀬になるかもしれないのに、最後に見た俺の姿が静麗を裏切る皇帝としての姿だなんて、そんなのはあんまりだろう!!
浩然が輿の横を通り過ぎると、閻は小さく苦笑を浮かべ、徒歩で先導を開始する。
殿舎を抜けて美しい回廊を暫く歩いていると、前方に大きな門構えが見えてくる。
そしてその立派な門からは、長く長く白壁が続き、広大な敷地をぐるりと囲んでいる事が分かった。
「あそこに、静麗が居るのか?」
小さく呟いた浩然の言葉を聞きとった閻が、後ろを振り向いて首肯した。
「はい。静麗殿には、此れまで彼方で御寛ぎ頂いておりました」
「あそこは、どの様な場所だ?」
閻はにこやかに微笑み、片手を大きく広げて先に見える荘厳な門を、その先にある建物群を指し示した。
「彼方は、陛下の御為に用意される後宮で御座います」
「何?」
驚きに眉を寄せる浩然に、閻は大きく頷いた。
「とは申しましても、未だ何方も入宮して居られませぬが。今、後宮内の殿舎に居られるのは、先帝陛下の御息女である公主殿下のみで御座います」
閻の説明を聞き、不快感に浩然は顔を顰めた。
―――俺の静麗を、寄りにもよって、後宮なんかに今まで隠していたのか。いずれ俺が相手をしなければいけない貴族の女達が住む、忌むべき場所だ。そんな場所に、俺の静麗を閉じ込めていたなんて―――
浩然は怒りを抑える為に、小さく何度も呼吸を繰り返した。




