九. 苦悩
明日には雅安を発つという日の午後、静麗は祖父の部屋を訪れた。
「御爺様、少しよろしいですか?」
部屋の戸を叩き、遠慮がちに声を掛ける。
直ぐに戸が開き祖父が静麗を中へと招いてくれる。
祖母は使用人達にあれこれと指示を出し、明日の準備に追われて、屋敷の中を動き回っている為に不在だ。
「どうした、静麗。旅の仕度は出来たのかい」
「はい、御爺様」
祖父の言葉に頷くと、静麗は部屋に入らせて頂いた。
浩然と静麗の二人が旅立つ事が決まってから数日、羅家は仕度に追われ、非常に慌ただしかった。
毎日、閻は羅家にやってきては、準備に忙しく動いていた。
その為、閻に忠告を受けたあの日の夕刻以降、閻と二人きりで話す機会は無く、静麗は煩悶とした気持ちを抱えていた。
反して、閻は変わらずに、柔和な顔で対応して、あの日の事など無かったかのようだ。
浩然は閻の事には一切触れずに、ただ、静麗は誰が反対しても連れていくと、皆に告げてくれた。
静麗も旅の準備や、両親への説明と多忙を極めた。
皇都まで浩然と一緒に行くことを両親に告げると、最初は反対をされた。
一年で役目を終えて戻ってくるのなら、静麗はここで待って居れば良いのではないかと。
両親に心配を掛けることに申し訳なく思いながらも、浩然と一緒に居たいのだと時間を費やして説得し、最後には雅安を離れる許しを得ることが出来た。
「静麗。何か話でもあるのかい」
「御爺様、教えてください」
静麗は祖父の前に跪いて頭を下げた。
「私は本当に皇都へ行っても良いのでしょうか?浩然はとても、尊いお役目を果たすために皇都へ参ります。でも、私は皇都では何も出来ない。それどころか、大事なお役目を果たす浩然の足手纏いにしかなれません……」
田舎町で生まれ育った静麗には、皇都や皇族が住まう皇宮は、遥か遠くの世界の話だ。
そんな場所に、浩然と共に訪れることに不安で一杯であった。
浩然の事は信頼している。
だが、皇都で皇族の籍を賜り、その仕事を果たす浩然の側に自分がいるという事が、想像も出来ないし、恐ろしく感じる。
かと言って、浩然をたった一人で送り出すことにも、不安と罪悪感を感じる。
何より、浩然と離れたくないと心は叫んでいる。
想いは千々に乱れて、何が正しいのかも分からなくなっていた。
「静麗、立ちなさい。こちらへおいで」
祖父は優しく静麗を立たせると、円卓を挟んだ向かいの椅子へと座らせた。
「静麗。お前はまだ若いのに、こんな羅家の事情に巻き込んで申し訳なく思っているよ。済まないね」
祖父が頭を下げたのを見た静麗は慌てた。
「御爺様、お止め下さい。御爺様が頭を下げられる事など何も御座いません」
「あぁ、しかし全てはわしの娘であった冬梅から始まったことだからね。……浩然にも重い責を負わせることになってしまい、可哀想なことをした」
「御爺様……」
祖父はふぅと溜息を吐くと、静麗を暖かな瞳で見つめた。
「今、この時に浩然の側に静麗が居てくれるのは、冬梅が力を貸してくれているのかもしれないな。……静麗、頼みがある。どうか、浩然の側に居て支えてやってくれ」
祖父は遠くを見るような眼差しで語った。
「……朝廷はわし等の手が届かん場所だ。若い浩然は正義感が強く、国の為に尽くそうとするだろう。だが、朝廷の官吏達はそんな浩然をどう扱うか予測がつかん。一年後に雅安へ返してくれれば良いが、一度皇族の籍に入れた者を直ぐに手放すかどうか……出来る事ならわし等も皇都に付いて行ってやりたい。しかし、成人した浩然に年老いたわし等が今更保護者として行くことも出来まい。……静麗、お前にはわし等の分も浩然を支え、役目を終えたら皇都からこの地に連れ帰って貰いたい。それを頼みたいのだ」
「御爺様、私……」
「これは、浩然の妻である静麗にしか出来ない事だ。頼めるか?」
静麗は祖父の瞳を一時見つめ、力強く頷いた。
「はい、御爺様。必ず浩然と、……夫と一緒に、ここに戻ってきます」
―――そうよ。私達はこの地で生まれ育ったんだもの。帰る場所はここしかないわ。たとえ、浩然が皇族になったとしても―――……
◇◇◇
祖父の部屋を辞した静麗は部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。
廊下から裏庭に、直接降りる事が出来る階段の前を通り過ぎようとしたとき、浩然が静麗を呼ぶ声が聞こえた。
声のした方を見ると、浩然が庭から此方に手を振っていた。
静麗は直ぐに階段を下りると浩然に近寄る。
「浩然、どうしたの」
「うん。今から母さんに、皇都へ行くことになった報告に行くんだけど、一緒に行ってくれないか」
それを聞いた静麗は頷いた。
「ええ、そうね。お義母様にもご挨拶してから行かなくちゃね」
静麗は差し出された浩然の手を握ると、義母の眠る墓の前まで並んで歩いた。
屋敷の中は明日の準備で慌ただしい雰囲気に包まれているが、裏庭にはその喧噪も届かない。
静かな小路を二人で手を繋いで歩く。
「静麗」
歩きながら浩然が、静かに話しかけてきた。
静麗は横に並ぶ、背の高い浩然の顔を見上げた。
「ごめんな。お前がずっと悩んでいるのは知っている。でも、俺はどうしても、一人で皇都へは行きたくないんだ」
静麗は浩然の顔を見ようとしたが、逆光になっていて、その表情を伺い見ることは出来なかった。
「国の為に尽くしたいという気持ちに嘘は無い。……でも、皇族に対しては今でも複雑な気持ちを持っている。皇帝陛下が居なければ、俺は生まれなかったんだけど、俺が生まれなければ母さんは領主の夫人として、幸せになれていたのかと思うと、母さんに申し訳ないとも思う」
浩然の言葉に驚き、静麗は歩みを止めた。
手を繋いでいた浩然もその足を止める事となり、静麗に向き直った。
「何を言っているの、浩然!お義母様はあんなに貴方の事を愛していたのに、……浩然にそんな風に思われているなんて知ったら、きっとお義母様は激怒されるわよ」
「あぁ、母さんなら確かに激怒して一発ぐらいは殴られそうだな」
小さく笑った浩然に、ほっとする静麗。
父親の分まで愛そうと努力し続けた、義母の愛情を疑っている訳ではないのだろうが、浩然の心の中には静麗には分からない複雑な思いがあるのだろう。
二人はまた前を向き歩き出した。
まだ新しい墓の前に着くと、膝を突き、頭を垂れる浩然。
直ぐに静麗も横に並び義母の墓に頭を下げる。
浩然は墓を見つめたままゆっくりと話し始めた。
「ともかく、俺は静麗と離れることは出来ないんだ。……だから、お前が皇都行きを不安に思っている事を知っていても、置いていくことだけは無理だ。静麗は皇都で嫌な思いをするかもしれないけど、俺が守るから。………だから、どうか俺と一緒に居てくれ。俺を支えて欲しい」
そう告げる浩然の横顔は、長い間共に過ごして来た静麗が初めて見る、不安を押し隠す子供の様な弱々しいものだった。
―――私だけじゃないわ。浩然もきっと不安なのよ……いいえ、浩然の方こそ重圧に耐えているのに。私が、―――妻である私が夫を支えられないなんて、駄目よ。御爺様とも約束したんだもの
「ええ。分かっているわ。無事に責務を果たしましょう。そして、一年後にはこの地に二人で戻ってきましょう」
「ああ、必ず」
義母の墓の前で二人は固く誓いを立てた。




