三. 憤怒
宗廟の入口前に膝を突き、万歳と叫ぶ人々の姿を、浩然は呆然と眺めた。
何が起こっているのかを、理解する事が出来なかった。
―――即位儀礼? 新皇帝陛下? 何の、事だ……? 誰に対して、言っているんだ?
此処に集う全ての人々が、己を一心に見詰めている事を知りながらも、浩然は後ずさり首を横に振った。
「何を、……待ってくれ。止めろ、……止めろっ!!」
浩然が声を張り上げると、其れまで万歳と叫び続けていた周りの人々の声が徐々に静まり、漸く止んだ。
宗廟には先程までの静けさが戻ってくる。
浩然はふらつきそうになる足を踏み出して前に進む。
「これは、……どういう事ですか? 皇帝とは、一体何の話です!?」
浩然の口から惑乱した声が漏れる。
「俺は、皇族になる事には了承しました。でも、一年後には静麗と一緒に雅安に帰る身です。 閻様もそう言って約束してくれた筈です! ―――今のは、……皇族になる為の手順では無かったのですか……?」
浩然は混乱したまま顔をめぐらせて、閻 明轩の姿を探した。
閻は祖父母や静麗達を盾に取り、浩然を脅して皇都へと連れてきた張本人だが、それは病の皇子殿下を助けて国政を円滑に回すためであった筈だ。
皇子殿下の病状が良くなり、即位すれば自分と静麗は故郷に戻れる筈だった。
それなのに、半分は平民の血を引く自分が皇帝陛下と呼ばれて平伏されるなど、一体何の冗談だ。
閻は、候丞相の後方で他の官吏達と同様に跪いて此方を見ていた。
しかし浩然と視線が合うと目を細め、穏やかな微笑みを浮かべて口を開いた。
「羅様を、新たな皇帝陛下として、この皇都へお連れする任を無事に果たせましたこと、私の生涯の誇りで御座います。そして帝位継承の儀、恙無く終えましたことを皇家の忠実な臣として、心よりお慶び申し上げます」
にこやかに微笑みながら平然とそう告げた閻の姿に、浩然は刹那無表情となった。
しかし次の瞬間、浩然の頭は怒りで赤く染め上げられ、腹の底から咆哮を迸らせた。
「閻――――――っ!!! お、前えぇ、……俺を、騙したのかぁ!!!」
獣のような叫びを上げた浩然は前へ飛び出すと、閻に向かい手を伸ばす。
しかし浩然の片手が閻の上衣を掴み、もう片方の手を振り上げたその時、後ろからその手を掴まれた。
「陛下っ! どうか、怒りをお静め下さいませっ! 尊い御身で人を殴るなど、貴方様の御手が傷つくかもしれませんっ」
そう叫びつつ、大柄な近衛武官が浩然を後ろから止めようとする。
浩然はその掴まれた手を振りほどこうとするが、鍛え抜かれた武人の手が離れる事は無い。
「離せっ、俺は陛下なんかじゃ無い! こいつは、俺を脅しただけでは無く、騙したのだぞ!! これを許せるものかっ」
浩然が叫びつつも閻に手を伸ばして尚も暴れるが、近衛武官はそんな浩然を容易く抑え込む。
どうやっても武官を振り切れないと分かった浩然は、肩で大きく息をしながら低く離せと武官に言った。
二十代半ばに見える大柄な近衛武官は、浩然の様子を慎重に確認すると、静かに手を離した。
浩然は離された手を擦りながら吐き捨てるように言った。
「こんな場所にはもう居られない」
浩然は視線を、閻からこの場で一番身分の高そうな候丞相へと移した。
「先に約束を破ったのはそっちだ。俺は皇帝などになる気は無い。俺と静麗は雅安に帰らせてもらいます」
そう言うと候丞相の前を通り過ぎようとする。
しかし直ぐに武官や官吏達がその行く手を塞ぎ、浩然は不快そうに顔を歪めた。
「どいてくれっ」
無理に通り抜けようとするが、何重にも囲まれて先へと進むことが出来ない。
浩然の苛立ちが募り、もう一度声を上げようとした時、閻が浩然の前に進み出てくる。
「陛下。静麗殿が今何方に居られるのか、貴方様は御存じなのでしょうか」
「―――何? どういう事だ?……静麗は別の場所で待っているんじゃないのか」
閻が含みを持たせた言い方で静麗の名を出した事で、怒りで頭に血が上っていた浩然は冷水を浴びせかけられたように固まった。
「静麗殿は我々にとっても大切なお方で御座います。当然、別の場所で丁重にお持て成しをさせて頂いております。……しかし、陛下が己の職務を投げ出し、雅安などという田舎町へ行くと仰られる原因が静麗殿に有るというのなら、我々の静麗殿に対する態度も残念ながら変えねばなりますまい。それに、田舎町に残して来られた陛下の祖父母殿も御高齢です。残り少ない人生を、穏やかにお過ごし頂きたく存じ上げますが、それも全て陛下の今後の行動如何によっては変わってくるのではないでしょうか」
浩然は、閻の言葉を歯を食いしばりながら聞くと、低い声を押し出した。
「俺を、また、脅すのか……?」
「おぉ、とんでもない事で御座います。この大国寧波の皇帝陛下を脅かす者など、この世に存在するはずが御座いません」
「だったら、少しは俺の言う事を聞いたらどうなんだ! 俺と妻は、雅安へ帰ると言っている」
閻は悲しそうに首を横に振った。
「なんと、悲しい事を仰せになるのでしょうか。貴方様の妻と呼ばれるお方は、此れから娶られる皇后娘娘であり、身分高い貴族の姫君達でありますのに。……やはり、田舎娘の処遇を少し考えねばならないのでしょうか?」
其れまで黙って二人のやり取りを聞いていた候丞相は、其処で少し眉を顰めると閻、と窘めるように声を掛けた。
「その話は、この様な場所でする事では……」
候丞相が閻に苦言を呈しているが、浩然にはその言葉はほぼ届いていなかった。
浩然は閻の余りにも理不尽で身勝手な言動に、我慢を重ねて来た理性が焼き切れる音を聞いた。
震える手を握り締めて拳を作ると、浩然は近衛武官達が止める間もなく閻の頬へと振り下ろし、殴り飛ばした。
閻は後ろに控えていた官吏達を巻き込みながら固い石床へと倒れこむ。
浩然は怒りの衝動に身を任せたまま閻に飛びかかると、その上に馬乗りになり、更に拳を振るおうとした。
しかし直ぐに近衛武官達にその手を取られ、閻から引き離される。
「ふざけるなっ!! 離せ、……離せっ、離せ――――――!!!!!!!」
普段は静寂に包まれた宗廟に、浩然の怒りに染まった叫びが響き渡った。




