二. 宗廟
身分の高い丞相達を跪かせたままでは話も出来ないと、浩然はまずは立つように促した。
候丞相や閻達官吏がその場で静かに立ち上がるのを確認した浩然は、そこで後ろの馬車を振り返った。
浩然の乗ってきた、皇族専用の豪華な馬車の後ろに続いていた筈の、静麗の乗った馬車はまだ到着していない。
首を傾げた浩然は閻や候丞相に問いかけた。
「静麗の……俺の妻が乗った馬車はまだ着いていないようですが……」
浩然の言葉を聞いた周りの官吏達の雰囲気が僅かに変わったことに浩然は気付いた。
―――何だ? 何か、様子が……
浩然が閻や候丞相の後方で控えている多数の官吏達に顔を向けて眉を寄せると、すかさず閻が前に出て来てその視線を遮った。
「羅様。先程馬車の中でご説明させて頂きましたように、羅様が皇宮にお入り頂く為には、これより直ぐに皇族籍にお戻り頂くための手続きや、儀式を執り行って頂かねばなりませぬ。その手続きは限られた者しか立ち入る事の出来ぬ場所で行われるもの。その為、静麗殿には別の場所にてお待ちいただくことになります」
浩然は閻の説明を聞くと、不満が零れそうになる口元を引き締めた。
―――だったら最初からそう説明をしておくべきだろう。何の説明も無しに俺と離された静麗が、不安に感じているかも知れない
腹立たしい思いのまま浩然は口を開いた。
「静麗を此処に呼ぶことは出来ないと?」
「はい。誠に申し訳御座いませぬが、まずは羅様が皇族籍にお戻りにならねば、其処から先の話を進める事は出来ないので御座います」
そう言って深く頭を下げる閻を暫し見つめた後、浩然は隣でこのやり取りを静かに見ていた候丞相に目を向けた。
候丞相は不思議な程に穏やかで透明感のある眼差しで浩然の姿を見詰めた後、閻と同じように深く頭を下げた。
周りの官吏達も同様に頭を下げるのを見た浩然は深く息を吐いた。
元々皇族籍を賜ることは雅安に居た頃から聞かされていた。
皇都へ辿り着き、朝廷の者達を前にして、今更抵抗する気など浩然には無い。
約束通り皇族籍を賜り、皇子殿下の体調が戻るまでは朝廷でその手助けをし、最長でも一年後には静麗と共に雅安へと帰るのだ。
それに祖父を敬愛している浩然には、祖父と同年代の候丞相達に何時までも頭を下げさせているのは非常に居心地が悪い。
「分かりました。皇宮に入るのに、先に皇族籍を賜るのが必要と言うのならそれに従います。手早く済ませましょう。……静麗も一人で心細い思いをしているでしょうし、早く迎えに行って上げないと……」
浩然が最後に小さく呟いた言葉を聞いた周りの者達は、申し訳なさそうな顔をして目を伏せた。
◇◇◇
浩然は馬車を降りたその場所から一番近い建物の中へと候丞相に導かれて入った。
白く輝く石材を贅沢に使われたその建物は、力強さと優美さを兼ね揃えていた。
中に足を踏み入れると人払いがされていたのか誰も居らず、静かで何処か厳かな空気が満ちていた。
浩然と候丞相、そして閻達官吏が二十人程と近衛武官が五名付き従い、他の者達は中に入ることはせずにその場で留まる様であった。
口を開く者は誰も居らず、静寂の中、石床の上を歩く沓音だけが響き渡る。
此処はどうやら普通の建物では無い様だと浩然は感じ取った。
人の気配が無い事の他にも、生活感や人の営みを感じる物が何も無かった。
「此処は、どの様な用途の建物なのですか」
浩然が前を歩く候丞相に問いかけると、候丞相は振り返り目を細めた。
「この先には皇族の祖先を祭る宗廟が御座います。普段は警護の者以外は無人で、許可無き者は入ることが出来ぬ尊い場所に御座います。其処で貴方様にはまず皇族となる為の儀式を、祖先に対して祭祀を行って頂きたくお願い申し上げます。それがお済になられましたら、貴方様は晴れて皇族として皇宮にお入り頂く事が叶うので御座います」
丁寧に説明してくれる候丞相に、浩然はそうですかと頷いて前を見据えた。
―――この先に、俺の父親や血の繋がった親族達が眠っているのか……
幼い頃は父が欲しくて堪らなかった。
友人達が父と母に挟まれて笑っている姿を見る度に、羨ましくて仕方がなかった。
祖父母や母は常に側に居てくれたが、父親というものに対する憧れは、幼い浩然の心の中に常にあった。
成長し、物事の分別がつくようになった頃、母から父親について聞かされたのだが、その時から父親というものに対する浩然の意識は少し変わった。
いくら血が繋がっていようとも、この国で一番尊い御位に就いているお方を父と思えるはずも無く、浩然の中で父親は死んだも同然となった。
だが、実際にその死を知らされると、幼い頃の父を欲していた心が思い出され、胸の奥が痛み、一目でも良いから会ってみたかったという想いが棘の様に心に残る。
浩然が様々な想いを抱きながら歩いている内に宗廟へと辿り着いた。
歴代の皇帝陛下も祀られているこの宗廟は、龍の彫刻が彫られた白い石材の壁と、光を弾く光沢のある赤い瓦屋根の、色彩の対比も美しい円形をした建物だった。
宗廟の入口にある数段の階段を上り、その先にある大きな両開きの扉を二人の官吏が恭しく開け放つ。
中の広さは百人も入れば一杯になる程度で、それ程大きくは無い。
宗廟の中は、明かり取り用の窓から差し込む僅かな光のみで薄暗く、冷たい空気が満ちている。
数名の官吏が静かに中へと進むと燭台に灯りを灯して回り、その後直ぐに外へと出て来る。
官吏が灯した燭台の、橙色の灯に照らし出された宗廟の中央、その奥に、棺が一つ安置されていた。
揺れる灯りに浮かび上がるその様子を静かに見守っていた候丞相は、尚書令と声を上げた。
一人の中年男性が一団の中から進み出てくる。
被っている冠や服装から、高位の身分に就いている事が分かる。
その男性の手には漆塗りの黒盆が捧げられ、黒盆の上には浩然には用途の分からぬ何かが乗せられていた。
尚書令の耳元で何かを命じた候丞相は、浩然を振り返ると恭しく頭を下げた。
「羅様。此れより儀礼を執り行いたく存じます。どうぞ、尚書令の言葉をお聞き下さいませ」
候丞相の言葉に浩然は一度目を瞑ると大きく深呼吸をした。
―――この手続きが終わったら、俺は、……田舎町で生まれ育ったこの俺が、皇族となるのか……
皇族とは、一体何なのだろうと考えながら、浩然は目を開けて候丞相の顔を見返した。
「分かりました」
浩然は候丞相に頷くと尚書令に視線を向けた。
尚書令は緊張した様子ではあったが、はっきりとした口調で儀式の内容を説明していく。
「では、まず貴方様お一人で宗廟の中にお入り頂きます。そして中心にある棺の前に跪き、次に此方の遺詔を……」
浩然は尚書令に言われるがまま、宗廟の中に足を踏み入れ、儀式を手順通りに粛々と進めてゆく。
―――この棺は、きっと先帝陛下の物なのだろうな……
候丞相達は浩然を皇族籍にする事が何よりも優先されると、詳しい事は教えてくれなかったが、きっとそうなのだろう。
しかし、疫病で亡くなった皇帝陛下の玉体は、直ぐに荼毘に付された筈だ。
―――この中には、彼の方の遺骨があるのか……?
父であった男性の棺を前にした浩然は、思っていた以上に冷静な自分の反応に内心苦笑をした。
もっと、感情的な何かを感じるのではないかと思っていたのだが、何も感じない。
自分とは関係の無い、まるで他人の墓を前にしている様だ。
―――俺が薄情なのか、それとも、やはり俺には父は最初から居なかったのか
尚書令や候丞相の指示に黙々と従い、儀式を進めながら考え事をしている内に、全ての手順を終えたようだ。
儀式の終了を告げる声に、浩然は立ち上がると振り返り、宗廟の入口を見た。
宗廟の入口の外に詰めかけている候丞相や閻、それに多くの官吏達がほっとした様に大きく息を吐く様子が、宗廟の中に一人居る浩然からは良く見えた。
浩然が見詰めるその先で、候丞相が感極まったように涙を流しながらその場で跪く。
その大仰な様子に、浩然は複雑な思いで苦笑を浮かべたが、周りの全ての人々が同じように跪いて叩頭礼をしてゆく姿に、苦笑さえも消える。
―――これで、……たった此れだけで、平民として生まれ育った俺は居なくなるのか……?
何処か虚しい思いを感じながらも、浩然が宗廟の外に向けて歩を進めようとした、その時―――
候丞相が頬に涙の後を残しながら顔を上げ、厳かな声を張り上げた。
「此処にっ、帝位継承の儀式であるっ、……即位儀礼が恙無く終了した事をご奏上奉ります! 新皇帝陛下の御即位を心よりお慶び申し上げます。―――新皇帝陛下、万歳!! 万歳!! 万歳っ!!!!!!!」
候丞相が朗々と言祝ぐ声に続き、官吏や武官達も跪いたまま目に涙を浮かべ、顔を高揚に紅く染めて、新皇帝陛下を讃える怒号の様な声を張り上げた。
浩然は歩を進めようとした足を止め、目を見開いて熱狂するように喜びを爆発させる人々を、―――ただ呆然と眺めた。




