一. 雅安領主
皇都から遠く離れた地である雅安の領主の屋敷に、その日一人の男性が訪ねてきた。
閻 明轩と名乗ったその男性と対面した領主は、一目閻を見るなりその男性が自分と同じ貴族に属する人間であると見抜いた。
そして皇都で官吏を勤めていると告げる閻に、領主は警戒の念を抱いた。
閻と領主の貴族としての家格はほぼ同じであったが、閻は皇都の高級官吏で、いずれはもっと高い地位に就く事だろう。
其れに反して、この辺境の町では唯一の貴族として君臨している領主一族だが、所詮は田舎貴族でしかない。
そんな自分の元へ、皇都の貴族である高級官吏が直々に訪ねてくるなど、今までに無かった事だ。
一体何事だと内心眉を顰める領主に、閻は思いもかけない事を話しだした。
「この地に羅家という商家があることは、勿論貴方は御存じでしょう?」
当然知っているに決まっている。
嘗て領主の地位を受け継ぐ前に、自分の妻にと望んだ女性の生家だ。
だが、なぜこの男性は今頃になって羅家の事を尋ねるのか、そして、領主と羅家の事を何処まで知っているのか。
領主は表情を変えずに素早く考えを巡らせながら閻に答えた。
「ええ。知っておりますよ。羅家は、嘗てはこの雅安一の商家でしたからね」
領主の返答を聞くと、閻は少し前のめりとなり重ねて尋ねてくる。
「では、羅家の御息女は、今もこの地に居られるのでしょうか?」
―――この男性の目的は冬梅? しかし、何故今頃……いや、待て。もしや先ごろ起こった皇都の疫病と何か関係が? もしそうなら狙いは冬梅では無いのか?
領主は平静を装った顔のまま閻を見返した。
領主とはいえ田舎で手に入る皇都の情報は少ない。
現時点では疫病が皇都で巻き起こったという事しか確かな情報は分かっていない。
―――とすれば狙いは、……冬梅の子か? 例え半分とはいえ皇家の血を受け継ぐ男子だ。利用価値もあるだろう
領主は内心を隠して沈痛な表情を作ると、閻に対して首を振った。
「残念ながら、羅家の一人娘であった女性は既にこの世を去っております」
領主の言葉に閻は一瞬表情を強張らせた。
しかし直ぐに表情を消し去り小さく呟いた。
「なんと、……では、……」
閻は目を細めて領主の顔を正面から凝視した。
「では、その女性の御子は、御子は今どうなされております」
冬梅に子がいる事が当然という口調で話す閻に、領主は何と応えるべきか逡巡した。
冬梅の子の事については、その父親が誰であるかを含めて真実を知っているものは僅か数名しか存在しない筈だった。
だが閻の確信を得ている口ぶりから、冬梅に子がいる事までは把握している事が察せられる。
何処までをこの男性が、そして朝廷が把握しているのかが分からない以上、迂闊な事は言えない。
だが、今この場で誤魔化すことは可能でも、羅家の事など町へ出れば直ぐに調べられるだろう。
領主は目を伏せて低く声を発した。
「……今もこの地に、羅家の屋敷に住んでいますよ」
「おおっ!」
閻はごくりと唾を飲み込んだ。
「では、御子は……御子の性別は……?」
領主は卓の下で手をぐっと握り締めた。
「…………男子です」
領主がそう告げた瞬間、閻は先程までの無表情が嘘のように、形容のしがたい表情を晒した。
歓喜の様でもあり、辛苦の様でもあり、領主が見たことのない表情を浮かべ、その後目を閉じ暫く動くことが無かった。
その後、閻は領主に羅家の屋敷の場所や、冬梅の生前の性格等、知りたい事を全て聞きだすと屋敷を後にした。
冬梅の子が男子であった事を聞いた閻は上機嫌ではあったが、その男子が先月婚姻したばかりだと聞くと眉を顰めて何事かを考えている様子だった。
領主は最後まで閻にどの様な理由によりこの地を訪れたのかを聞かなかった。
そして閻も羅家の事に関しては知りうる限りの事を聞いたが、領主と羅家の関係については一切触れる事が無かった。
領主は窓から遠ざかる皇都の官吏の後ろ姿を無言で見送った。
その日の夜遅く、屋敷の居間で一人領主は酒を飲んでいた。
そこに正妻が供も付けずにやって来た。
「貴方。皇都からお客人が来られたそうですわね」
領主は妻の顔を見詰めた。
冬梅を側室として迎えることが出来なかった後、領主は一人も妻を迎えることをしなかった。
冬梅が皇都から帰ってきた時の衝撃を今でも覚えている。
朝廷の役人や武官などに護衛されるでも無く、平民の商人に送られて帰ってきた愛おしい女性は、その身に子を宿していた。
自分の前に平伏し、謝罪の言葉を告げる冬梅の姿をただ呆然と見下ろしていた。
冬梅の前に膝を突き、その肩を揺さぶりながら、何故そのような事になったのか、相手は誰かを問い詰めたが、冬梅は答えなかった。
しかし、冬梅を預けていた親族の姫よりの手紙を渡された、若き日の領主は、素早く目を通して絶句した。
後宮内の事は例え親族とはいえ、不用意に漏らすことは出来ない。
その為、直接的な事は何も書かれておらず、かなりぼかした表現となっていたが察することは可能であった。
蒼褪めた顔で領主は冬梅の顔を見下ろした。
「父親は、……彼の方……である、のか……?」
喘ぐように聞いた領主の顔を正面から見詰め返した冬梅は、何も語らずにその場で深く頭を下げて床に額を押し付けた。
領主はよろけてその場に尻をついた。
もし、子の父が彼の方でさえなければ、生まれた子を里子に出し、何も無かった事として冬梅を側室として迎えることが出来たかも知れない。
だが、この国で最も尊い血筋を受け継ぐ子を孕んだ女性を、自分の一族に迎える事など、その様な危険な真似を次期領主の自分が出来る筈も無かった。
領主は己の唯一の妻を迎えると席を勧めた。
「あぁ、今頃になって、羅家の事を訪ねてきたよ」
そう言うと領主は杯に残っていた酒を一息に呷った。
正妻はそんな領主の姿を暫く見詰めた後に、酒が入った器を手に取り領主の杯に注いだ。
「貴方の御心には、まだあの女性が居る事は知っておりますわ。そして、貴方が平民の女性を望んだ事を後悔している事も。……でも、その女性が彼の方の御子を授かったのも、この地でお一人でお生みになったのも、貴方だけのせいでは御座いません。もうそろそろ、御自分の事をお許しになっては如何でしょう?」
領主は妻の言葉に杯の中の酒を眺めた。
―――違う。全ては私のせいだ。私が冬梅の事を諦めきれずに、側室として迎える為に後宮へと送りだしたからだ。私が冬梅を側室に望まなければ、平民と結ばれて今も幸せに暮らしていたかもしれないのだ。それに、冬梅の子の事も……あれ程愛おしいと思っていた女性の子を守るよりも、私はこの地の平安を選んだ。朝廷に冬梅の子を売ったも同然だ
項垂れる領主の手を正妻が優しく撫で擦る。
領主は酒で霞んだ瞳で妻の顔を眺めた。
長年連れ添い、美しかった妻も今では皺も増えて、穏やかに年を重ねて来たことが分かる。
愛情から欲したのは冬梅ただ一人だったが、だからといってこの妻の事を疎んでいた訳では無い。
むしろ貴族同士の結びつきの為の婚姻にしては仲睦まじく過ごして来た。
冬梅の事は心に刺さった棘の様に何時までも忘れることが出来なかったが、今の自分に必要なのは間違いなくこの正妻だった。
領主は立ち上がると妻を抱き寄せた。
妻はそんな領主の背を優しく撫でて顔をその肩に寄せた。
冬梅に続いてその息子までが皇族の、朝廷の横暴な権力に晒される事を知りながら、何も出来ない無力な自分を歯噛みして領主は妻の身体を強く抱き締めた。




