七. 旅路
浩然が幼馴染の静麗と婚姻してから、二十日が過ぎた日の早朝。
浩然達の住む屋敷の前には、数人の人々が立ち並んでいた。
皇都へ旅立つというのに、見送りは最低限の寂しいものであった。
屋敷の前には閻が皇都から乗って来た立派な馬車と、もう一台、荷馬車が止まり、既に浩然達の荷物も詰め込んだ後であった。
浩然は結局最後まで祖父母や静麗に閻から脅されている事を言わなかった。
否、言えなかった。
大切な人達に心配を掛けたくないという想いや、危険から遠ざけたいという想いは浩然の本心だ。
それに朝廷に逆らう事が出来ない以上、一年後に無事にこの地に帰ってくる為には、朝廷に従順に従い、閻が言う様に皇都で皇子殿下の手伝いをするしかないという、諦めの想いもあった。
だが、浩然自身でさえ気付かぬ心の根底には、皇家の血を引く自分の事を、何時の日か祖父母や静麗達が持て余し、疎まれるのではないかという恐れの想いが隠れていたのであった―――
旅装に身を包んだ浩然と静麗が、馬車の前に並び立ち、その斜め後ろには閻も立つ。
「御爺様、御婆様。では、俺達は皇都へ行って参ります。そして、お役目を立派に果たしたら、必ず戻ってきます」
「うむ。皇都は遥か遠い。道中気を付けてな。静麗の事もしっかりと守るのだぞ。そして、責務を果たしたのちは必ず戻っておいで」
「浩然、静麗。身体には気を付けてね。皇都に着いたら、手紙を頂戴ね。貴方達が帰ってくるのを待っているわ」
祖父母は、浩然と静麗をそれぞれ抱擁すると、閻に向き直った。
「閻殿。どうか、孫達を宜しくお願い致します。……そして、一年後には必ず浩然達を返して頂きたい」
「ええ。お約束致しましょう」
閻は祖父に晴れやかに応えると、浩然達を閻の乗る立派な馬車に促した。
静麗が浩然に手を引かれて馬車に乗り込むと、直ぐに閻も後に続いた。
御者が扉を恭しく閉め、暫くすると馬車はゴトリと音を立てて動き出した。
「静麗、大丈夫か」
浩然は不安そうな静麗に声を掛けて、その小さな手を握り締めた。
静麗はそれに頷きを返すと、馬車の小窓から屋敷を振り返る。
静麗の後ろから浩然も窓の外を覗き見た。
馬車が速度を上げるにつれ、遠く離れてゆく人々の姿が、屋敷が、徐々に小さくなり、やがて見えなくなった。
―――今から俺達は二人だ。閻様は皇家に忠誠を誓っていても、俺の味方とは限らない。俺がしっかりしないと
◇◇◇
雅安を旅立って数日、途中野宿をしながらも無事に隣町に辿り着いた。
鬱蒼と常緑樹が茂った山の中を通る、雅安から隣町へと続く街道が徐々に広くなり、木々もまばらになってきた。
視界が開けると、落ちてゆく夕日に重なる様に、遠くに隣町が見える。
夕餉の仕度の為か、家々の煙突からは煙が昇っていた。
その景色を目にして浩然はほっと息を吐いた。
浩然は何度かこの隣町まで来たことがあるが、此れが初めての旅となる静麗は緊張の為か、それとも馬車が体質に合わなかったのか、長時間の移動と酷い酔いに疲れ果てていた。
隣町が見えた事で浩然は安堵の息を吐き、ぐったりと自分に寄り掛かる静麗を心配そうに見詰めた。
「静麗、隣町が見えてきたよ。今日はきっとここで泊まる事になるから。やっと静麗を寝台でゆっくりと休ませてあげられるよ」
「あぁ、そうなの?嬉しい」
静麗が力なく笑い、浩然は眉を寄せて静麗の顔色を確かめた。
初日に比べて馬車の揺れにも慣れてきたようだが、まだ顔色は悪く、気分も悪そうだ。
―――女の静麗にはこの旅は酷だったのか? だが、母さんは俺を腹に宿したまま旅をしたと聞いた。……いや、あの豪快な母さんと静麗を比べるのは間違いか……
浩然が難しい顔をして静麗を労わっていると、その様子を見ていた閻が声を掛けてきた。
「女性である静麗殿には、馬車での旅は辛いものとなりましょう。今回は、数日で町へ泊まる事が出来ましたが、この先はこれよりも長い期間野宿となる行程もあります。もし、絶え難い様であれば、今ならばまだ引き返すことも出来ますよ」
―――っつ、!!
浩然は舌打ちをしそうになった。
今まさに自分が思っていた事を言われ、自分の迷いを閻に見透かされている気がした浩然は声を荒げた。
「閻様。以前にも言った様に、静麗は俺と一緒に皇都まで連れて行きます。これだけは、譲れない事だ。覚えておいてくれ」
浩然の咎める様な声に、閻は驚いた様に目を見開いた後、鷹揚に頷いた。
「承知しております、浩然様。ただ、私は女性に長旅はお辛いだろうと思って言ったまで。静麗殿が皇都へ行くことに対して反対など致しておりませぬよ」
「そうですか。だったら別にいいです」
浩然はじっと自分を見てくる閻の視線から逃れるように顔を背けると、静麗の背を優しく撫でた。
太陽が完全に落ちる寸前に町へ着くと、御者は直ぐに宿を取りに走る。
閻も用事があると言い、浩然にこの場で待つように伝えると、町の雑踏の中へと消えていった。
「はぁ、浩然ごめんなさい。浩然だって疲れているのに、ずっと凭れてしまって」
「俺は男だし、静麗よりもずっと頑丈に出来ているから心配するな。それより、気分はどうだ?」
「うん。大丈夫。馬車にも大分慣れてきたみたい。……あぁ~、でも揺れない地面ってなんてありがたいのかしら」
二人きりとなって安心したのか、静麗がしみじみと語った言葉に、浩然はぷはっと変な笑い声を上げた。
「何を当たり前の事を。もし、地面が揺れるならそれは地震だろ」
「酷いわ。酔わない浩然には私の気持ちは分からないのよ。本当に大変だったのよ」
口を尖らせて抗議する可愛い静麗を見た浩然は、暗くなった辺りを見回した。
そして誰も此方を見ていないのを確認すると、素早くその尖った唇に口付けを落とした。
「浩然っ、ここは外よ」
静麗が赤い顔をして、小声で浩然を窘める。
「大丈夫だよ。誰も俺達を見ていなかったから」
「そういう問題じゃないでしょう? 室内じゃないのよ! 浩然はもう少し慎みを身に着けた方がいいわ」
恥ずかしそうに上目遣いで見上げてくる静麗に、浩然はにやりと笑うとその耳元に顔を寄せた。
「分かったよ。こういう事は外じゃしない。これでいいだろ? ……静麗はもう少し積極的になってくれてもいいと思うよ」
静麗が更に顔を赤くして口を開こうとしたとき、御者と閻が二人を呼びに戻って来た。
今日の宿が決まったようだ。
◇◇◇
そうして浩然達の皇都への旅路は、順調とは言い難いが続いていった。
皇都までの道程では、何度か野宿することもあったが、幸い盗賊などに会うことも無く、平穏に進むことが出来た。
内陸にある田舎町の雅安で生まれ育った浩然達は、初めて訪れる土地の美しい景色に心を奪われ、各地域の風習の違いに戸惑った。
だが、牧歌的だった雅安から離れ、皇都へ近づくにつれ、徐々に疫病の爪痕がそこかしこで見られるようになった。
本来は国で一番栄え、煌びやかなはずの皇都に近づくにつれ、重苦しい様相を呈していく。
皇帝陛下、皇太子殿下の崩御に伴う、朝廷の政務の滞りが、各地に大きな悪影響を与えている事は直ぐに分かった。
浩然と静麗はそれらを走る馬車の中からただ無言で見ていた。
疫病は既に去り、今自分達が出来ることなど何も無いと分かっているからだ。
己の手を握り締め、この惨状をただ見ることしか出来なかった。
それに今の浩然は、何の力も無いただの平民の青年にしか過ぎない。
浩然がぎゅっと握り拳を作り、目を閉じた。
そんな浩然の手に、静麗がそっと自分の手を重ねてきた。
静麗の優しい手の温もりに、浩然のささくれだった気持ちが少し落ち着きを取り戻した。
◇◇◇
皇都周辺の村や町の様子を見て、口数も少なくなって数日が過ぎた頃、走る馬車の中で閻が明日にも皇都へ着くと話を切り出した。
浩然は小窓から外を眺めていたが、閻の言葉に振り向き、頷いた。
「俺たちは皇都に関しては全く分からない。閻様の指示に従いますよ」
「有難うございます。では、お休み頂いている間に私は皇城に戻り、浩然様達をお迎え出来るように場を整えておきましょう。本来ならば、直ぐにでも皇宮へ入って頂くべきなのですが、何分急な事でしたので準備にお時間を少々頂きたく」
「分かりました。閻様にお任せします」
「ええ。万事、この閻にお任せください」
閻はいつもの様に、にこやかに微笑み、応えた。
翌日の昼過ぎ、閻の言っていた通り皇都が見えてきた。
馬車という平民では乗る事が出来ない移動手段を持ってしても、辿り着くのに二十日ほどの時間を要した。
小高い丘の上で休憩をする事になり、馬車が止まると外に出た静麗は、遠くに見える皇都の威容に驚いていた。
静麗の後から降りた浩然もその光景に息を飲んだ。
広大な皇都をぐるりと囲む高い壁がここからでも良く見える。
壁の上部には立派な瓦屋根があり、眩しく光を弾いている。
街道の先にある、皇都を囲む壁の正面、中央には大きく開かれた門がある。
門自体が一つの大きな屋敷の様な構造物となっており、中には門衛達の姿が多数見える。
また、それらの奥には、遠く離れた場所に居る浩然達にも見えるほど、巨大な建物があった。
一体何層になっていたら、あれ程巨大な建物になるのだろうか。
少し離れた場所では閻が静麗に皇城の説明をしていた。
それらを聞くとはなしに聞いていた浩然だが、その胸中は複雑に波打っていた。
―――あれが、皇都。……母さんと彼の方が出会った場所。そして俺と血の繋がった多くの方々が住んでいた場所。……まさかその場所を、この目で見る日が来るだなんて思ってもいなかった
浩然は静かに皇都の威容を見続けた。
―――けど、あそこには……もう、俺の父親はいないんだな……
寂寥感に包まれていた浩然の手を温かな手が包み込む。
顔を横に向けると静麗が心配そうに浩然の顔を覗き込んでいた。
―――そうだ。俺にはもう両親はいないが、静麗がいる
浩然は静麗に優しい笑みを浮かべて妻の手を握り返した。
そうして皇都の中へと入った浩然達だが、皇帝陛下や、皇太子殿下を含む多くの皇族や、亡くなった町の住人達の喪に服すため、皇都はどこか色彩に欠け、暗く沈んで見えた。
そんな暗く沈んだ様相の皇都では観光を楽しむ気分になれるはずも無く、二人は閻に案内された皇都にある高級な宿から出ることもせず、二日程、旅路で疲れた身体を休めることに費やした。
皇都に着いて二日間、二人は誰にも邪魔されず、寄り添って静かに過ごしていた。
三日目の昼過ぎ、二人で宿の食堂で昼餉を食べ、部屋に戻り寛いでいた所で、とうとう閻が二人を迎えに来て、浩然達は皇城へと向かう事となるのだった。
第八章 終
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