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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第八章 ◆

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六. 苦悩

 


 浩然ハオランイェン 明轩ミンシュェン、そして祖父の話し合いは長く続いた。


 浩然達の前で始終穏やかに話しを進める閻は、正に皇都のやり手の官吏といった風格があった。

 その上閻は話が巧みで、どんな祖父の質問にもすらすらと答えて見せた。


 昨日、その祖父達を脅しの材料にしたなど、実際に耳にしていなければ到底信じられない程だった。



 話し合いは順調に進んだが、唯一閻が難色を示したのが静麗ジンリーの同行だった。


「皇都までは厳しい旅路です。特に今回は急を要するので、宿などに泊まるよりも野宿の方が多くなるかもしれません。その様な過酷な旅に、か弱き女性を連れて行くのは酷かと。皇都に留まる期間は最長でも一年です。ここは、奥方にはこの地でお待ちいただいた方が宜しいのではないでしょうか」


 そんな閻に対して浩然が反論するよりも先に祖父が声を上げた。


「いや、閻殿。浩然は成人こそしてはいるが、まだ十八の若者にすぎん。慣れぬ皇都で、皇族として暮らすのに支えとなる者は必要だろう。それに浩然は静麗と婚姻したばかりだ。そんな二人を一年も引き離すのは、そちらの方が酷というものだ」


 閻は祖父の反対の声にふむ、と顎に手を当てて暫く考えると、そうですな、と同意を示した。


 そのやり取りを緊張して見ていた浩然はほっと、肩から力を抜き、息を吐いた。







 その後、応接間に静麗と祖母を呼ぶと、祖父は三人の話し合いで決まった事を告げていく。


「浩然は三日後に雅安を発ち、皇都へと向かう事となった。皇都や朝廷の混乱が収まるまで、次期皇太子殿下である、皇子殿下の手助けをする為だ。それには、静麗も同行するように」

「はい。御爺様」


 静麗が神妙な表情で頷いて応える。


「そして、浩然は皇子殿下をお助けする為に、一時、皇族籍を賜ることとなる。但し、それは皇子殿下の体調が良くなり、即位なされるまでだ。遅くとも、一年後には皇子殿下は即位をなされ、その後、速やかに、浩然は雅安に帰して貰える。そうですな、閻殿」


 祖父は閻に対し、言葉を区切るように強く言い、確認する。


「ええ。そうなります」


 閻は牽制するような祖父の言葉にも、にこやかに応えた。

 祖父は苦い顔をしたが、それ以上は何も言葉を発することは無かった。





 その後、皇都までの旅路の順路や、その為にするべき準備の話等を五人で確認し、その日の話し合いは終りとなった。


 使用人達は夕餉の仕度などで忙しい為、静麗と二人で閻を見送る為に門戸まで向かう。

 三人で薄暗くなってきた中を歩き、馬車が待つ門の外に出たその時、閻が思い出したように声を上げた。


「おぉ、しまった。先程の部屋に手巾を忘れてきてしまったようです」


 今この場には浩然と静麗しか居ない。

 浩然は溜息を抑えて閻に顔を向けると言った。


「では、俺が取ってきましょう」

「いえ、浩然様のお手を煩わせるわけには」

「大丈夫です。直ぐに戻りますよ」


 浩然は遠慮する閻の言葉を制して、踵を返すと忘れものを取りに屋敷へ戻って行った。






 浩然が門戸の前に戻って来た時、静麗の顔が少し強張っている事に気付いた。

 直ぐにどうしたのかを問質したかったが、閻が見ている前では迂闊な事は言えない。


 浩然は平静を装って閻に忘れ物を手渡した。

 閻は浩然に恭しく拱手の礼をし、豪華な馬車に乗り込むと大通りの宿に向けて去っていった。


 その馬車が見えなくなると浩然は静麗に向き直った。


「静麗、どうかしたのか」


 浩然は腰を曲げて静麗の顔を覗き込んだ。

 静麗は俯いたまま何も答えない。


 浩然の心臓が嫌な音をたてる。


「……もしかして、閻様に何か言われた?」


 浩然は言い淀みながら静麗に問い掛けた。

 静麗は迷いながらも首を横に小さく振り、俯くと浩然に尋ねる。


「私、皇都へ行ってもいいのかしら」



 ―――あいつっ



 静麗の言葉を聞いた浩然は口を噛みしめた。


「閻様に何か言われたんだな。……いいに決まっているだろ。誰が反対しても、静麗は俺と一緒に行くんだ。それが皇都だろうと、国外だろうと。……婚儀の日に誓ったのを忘れたのか? 静麗は俺の唯一だ。俺達はずっと一緒だ」

「浩然……」


 言葉を重ねても不安そうな様子の静麗に、浩然は堪らなくなりその細い腕を引き寄せた。

 そして小柄な静麗の身体を己の身体で包み込む。


「静麗は絶対に一緒に連れて行く。嫌だと言っても聞かないからな」




 ―――静麗、不安にさせてごめん。でもどうか俺と一緒に皇都へ行ってくれ




「……うん、わかった。……一緒に行く」



 静麗は小さく頷くと浩然の肩に顔を寄せた。







 ―――どうか、俺を一人にしないでくれ……









 ◇◇◇





 浩然達は皇都へ旅立つ事が決まった日から、慌ただしい日々を過ごしていた。

 閻は毎日羅家にやってきては、準備に忙しく動いていた。


 浩然は自分が脅された事や、閻が静麗に対して言った言葉を聞きだし、より一層警戒して閻の動向を注視していたがその後は特に何かをしてくることは無かった。


 その間に静麗も、両親へと皇都へ行く事になった事情を説明をしていた。

 最初は心配して反対していた静麗の両親だが、娘の意志が固い事や、婚姻したばかりで一年も離れる事を不憫に感じたのか、最終的には同行を認めたのだった。






 浩然は庭に出て準備が進む様子を眺めながら、これで本当に良かったのかと急に不安に襲われた。


 祖父達には納得させるために国の為と言ったが、浩然の本音は少し違う。

 勿論祖国である寧波ニンブォを愛しているし、故郷であるこの地の事も大切だ。


 だが、浩然が一番大切なものは静麗であり、祖父母だ。

 そして静麗の両親や親戚、多くの友人達だ。



 ―――国が安定しているからこその、今の幸せだ。分かっている。……けど、何故俺がそんな物を背負わなくてはいけない?



 浩然は手をきつく握り締めるとその場に立ち尽した。



 ―――今まで十八年も音沙汰が無かった朝廷や皇族の為に、何故、俺が皇都まで行かなければいけない!



 誰にも言えない本音を心の中で叫んだ浩然は、ふぅと息を吐き出すと俯いた。



 ―――だが、朝廷に逆らう事なんて、俺達平民には出来ない。従順に従う事で穏便に済む話なら、それが正しいのだろう……けど、……



 浩然は、遠くに見えるまだ幼さの残る妻の姿を、目を細めて見詰めた。





 ◇◇◇





「静麗―――!」


 廊下を歩いていた静麗を庭から呼ぶと、静麗はきょろきょろと周りを見回して声の主を探した。

 そしてその目に浩然を映すと、ぱっと顔を輝かせて裏庭へと降りてきた。



「浩然、どうしたの」

「うん。今から母さんに、皇都へ行くことになった報告に行くんだけど、一緒に行ってくれないか」


 浩然の言葉を聞いた静麗は頷いた。


「ええ、そうね。お義母様にもご挨拶してから行かなくちゃね」


 浩然が手を差し伸べると静麗は直ぐに握ってきた。

 二人は屋敷の喧噪を離れて母の眠る墓の前まで手を繋いで歩いた。





「静麗」


 隣を歩く小柄な静麗の頭を上から見下ろすと、浩然は声を掛けた。


「ごめんな。お前がずっと悩んでいるのは知っている。でも、俺はどうしても、一人で皇都へは行きたくないんだ」


 背の低い静麗が浩然の顔を仰ぎ見る。

 だが浩然はそんな静麗の顔を正面から見返すことが出来ない。



 ―――俺の、静麗と離れたくないという我儘が、静麗を苦しめている。それに、……



「国の為に尽くしたいという気持ちに嘘は無い。……でも、皇族に対しては今でも複雑な気持ちを持っている。皇帝陛下が居なければ、俺は生まれなかったんだけど、俺が生まれなければ母さんは領主の夫人として、幸せになれていたのかと思うと、母さんに申し訳ないとも思う」



 母に対する申し訳なさと、皇族になるという事は、母を裏切る行為になるのではないかと、浩然は苦悩していた。


 突然父親の死を知らされてから今日まで、怒涛の如く事態の急変に押し流されてきた浩然は、纏まらない思考のまま話していたが、急に歩みを止めた静麗に気付くと足を止めて静麗に向き直った。


「何を言っているの、浩然! お義母様はあんなに貴方の事を愛していたのに、……浩然にそんな風に思われているなんて知ったら、きっとお義母様は激怒されるわよ」


 顔を赤く染めて怒る静麗に、浩然は苦笑を浮かべた。


「あぁ、母さんなら確かに激怒して一発ぐらいは殴られそうだな」


 笑みを浮かべた浩然の顔を確認した静麗はほっとした様に頷くと再び歩き出した。




 まだ新しい墓の前に着くと、浩然は膝を突き、頭を垂れた。

 静麗も同じ様に横に並ぶと母の墓に頭を下げている。


 浩然は墓を見つめたままゆっくりと話し始めた。


「ともかく、俺は静麗と離れることは出来ないんだ。……だから、お前が皇都行きを不安に思っている事を知っていても、置いていくことだけは無理だ。静麗は皇都で嫌な思いをするかもしれないけど、俺が守るから。………だから、どうか俺と一緒に居てくれ。俺を支えて欲しい」



 ―――結局、情けないが俺が静麗と離れる事に耐えられないだけの話だ……



 だが、そんな浩然の姿を見ても、静麗は変わる事の無い信頼を宿した瞳を向けてくる。


「ええ。分かっているわ。無事に責務を果たしましょう。そして、一年後にはこの地に二人で戻ってきましょう」

「ああ、必ず」




 愛する母の墓前で、二人は固い誓いを立てた。





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