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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第八章 ◆

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五. 不安

 


 イェンと共に皇都へ向かう事を約束した浩然ハオランは、明日また来ると告げる皇都からの使者を見送る為に屋敷の門戸まで出ていた。


「では、また明日お伺い致します。本日は突然の訪問をお許し下さり、有り難うございました」


 閻はにこやかな笑顔で挨拶をすると立派な馬車に乗り込み、大通りの方へ向かい去って行った。

 浩然はそれを何処か虚ろな表情で見送っていた。




「どうしたの? 顔色が悪いわ」


 何時の間にか隣に立っていた静麗ジンリーに声を掛けられた浩然は、のろのろと妻の小さな顔を見下ろした。


「静麗……」


 先程まではまるで悪夢の中にいる様だった。

 皇都からの使者ははっきりと言葉にする事は無かったが、暗に浩然を脅していたのだ。


 浩然は両腕で静麗を引き寄せると、強く抱き締めた。


「浩然、どうしたの? 閻様のお話し、良くない事だったの」

「いや、大丈夫。大丈夫だ。何も心配いらないよ。……御爺様達が戻ったら、その時に話すから」



 ―――そうだ、大丈夫だ。俺が静麗や御爺様達を守らないと



 浩然は安心させる様に笑顔を浮かべると、静麗の手を引き屋敷へと戻った。





 ◇◇◇





 その後、夜遅くに帰って来た祖父母や静麗に対して、浩然は脅された事実を除いた全てを報告した。


 自分達が脅しの材料にされた事を知ったら、きっと祖父母や静麗達は苦しむだろう。

 もしかしたら、自分達はいいから、浩然の望むようにしなさいと言うかもしれない。


 だが浩然は、敬愛する祖父母や愛する妻やその両親達を、僅かでも傷つけたくはなかった。

 自分が一年我慢する事で全てが上手く収まるのなら、きっとそうした方がいいのだろう。


 しかし、祖父母や静麗は浩然の気持ちを汲み取るのが上手い。

 下手な嘘では直ぐに見破られてしまう。

 浩然は、半分は本心を語ることで祖父母を納得させることに成功した。



 母や祖父母と同様に、平民として生きていくことが浩然の望みだが、寧波ニンブォの、そしてこの雅安ヤーアンの地の平安を望む心も本物だ。

 この穏やかな地が戦の騒乱に巻き込まれる事等、断じて許せない。


 一時とはいえ皇族の籍に入る事に抵抗は感じるが、今は仕方がないだろう。

 浩然は忸怩たる思いを飲み込んで、祖父母を説得していった。


 祖父母や静麗は皇帝陛下や皇太子殿下が同時に亡くなった事や、他国の動きに動揺していたが、浩然が根気強く説明し、説得すると最終的には浩然の意志を尊重してくれたのだった。





 ◇◇◇





 祖父母と別れた浩然は、夫婦の部屋へと戻り静麗と向き直った。


 静麗の結い上げられた長い黒髪には、既婚者の証である簪が二本差されている。

 この簪は浩然が贈った物で、婚姻の申し入れ時に一本、婚儀の席でもう一本渡した物だ。

 どちらも小振りながらも上品な品物で、静麗にとても良く似合っていた。


 そんな愛おしい妻が不安そうに浩然を見上げている。



「浩然、……皇都へ行くの?」

「静麗、ごめん。勝手に決めて。……でも、皇都へ行かせて欲しい。今、国が大変だと知って、それを自分が少しでも手助け出来ると分かっているのに、知らない振りはしたくないんだ。一時だけ、皇族の立場を賜ることになるけど、俺達の関係は何も変わらない。そう閻様は言っていたから、安心して欲しい」


 半ば自分に言い聞かせる様に浩然は静麗へと告げた。


「浩然、私は……どうしたらいい?」


「……静麗。出来れば、……俺と一緒に皇都へ行って欲しい」



 ―――朝廷が本気になったら、何をするのか想像がつかない。此処に置いて行く方が安全なのか。それとも連れていく方が安全なのか……



 そんな苦悩する浩然に気付くことなく、静麗はほっと息を吐いた。


「わかった。不安はあるけど、私は浩然を信じてるから、どこにでも一緒にいくわ」

「静麗、……ありがとう、静麗」



 ―――それに、俺達は婚姻したばかりだ。そんな時に一年も離れ離れになるだなんて、俺の方が耐えられない



 静麗が浩然と共に皇都へ行くことを承諾した事に、浩然は知らずに止めていた息を吐き出し安堵した。

 遥か遠い地である皇都へ行くことを拒まれ、一人で行く事にならずにすみ、浩然は肩の力を抜いた。



 そうすると、直ぐ横にある温かな身体が気になり、浩然の落ち着きが無くなる。


「静麗、その、いいか?」


 肩を抱き寄せてそっと聞くと、静麗は浩然へと身体を預けて寄り添ってきた。


「うん。いいよ、浩然」

「静麗、愛してるよ」



 ―――本当に、愛してる。俺の静麗―――





 ◇◇◇





 次の日の昼餉を終えた頃に閻は再び羅家を訪れた。

 この日は祖父母と仕事を休んだ浩然も閻の訪れを待っており、静麗も含む四人は使用人に案内されて応接間に入って来た閻を立って迎え入れた。


 浩然達が見守る中で祖父母が閻と挨拶を交わす。

 閻は今日も隙の無い完璧な装いで貴族然としており、嘗ては雅安一の豪商であった祖父とも対等に接していた。


「閻殿と仰ったか。もしや、貴方は貴族の位をお持ちでは御座いませんか」


 閻の身についた高貴な者特有の佇まいに、祖父が些か強張った表情で尋ねていた。


「ええ。確かに我家は貴族の位を賜っております」

「なんと……」


 絶句した祖父達は、慌ててその場で跪こうとしたが、それは閻によって遮られた。


「お止め下さい。貴族の位と言っても貴七品位の三男です。家督を継ぐでも無く、今はただの官吏をしております。それに……」


 閻は浩然に顔を向ける。


「本来、跪くべきは私の方です。前皇帝陛下の尊い血筋に在られる浩然様に対して、最大の敬意を払わねばなりません」


 そう言うと、浩然の前に膝を突こうとする。

 これに対して浩然は嫌そうな顔をすると、手で閻を制した。



 ―――昨日俺を脅したお人が、今度は俺に対して跪こうだなんて、どんな茶番だ



「それこそ、お止め下さい。俺はの方の血を受け継いでいるかもしれませんが、今はただの平民の浩然です。貴族の位をお持ちの閻様に傅かれるなど、分不相応だ」


 浩然は祖父母達の手前、閻に対する不快感を隠してそう言った。

 閻は少し困った様に笑うと、見守っていた祖父母や静麗の顔を見回した。


「では、こう致しましょう。今この時は、互いに畏まった態度を控える事と」

「ええ。それで構いません」



 ―――その方が、俺も助かるし、何よりも俺の大切な人達を危険な目に会わせない為にも、出来るだけ閻に合わせていた方がいいだろう



 浩然も頷いて了承を示した。



 その後、祖母と静麗は応接間を退出し、祖父と浩然の二人が閻と話し合いをすることとなった。


 浩然達はその後、夕刻までの長い時間を応接間から出ることなく、話し合いは続けられたのだった。





新機能の誤字報告。既に数件の報告を頂いております。

私の方では報告者がどなたか分からないので、この場で御礼を言わせて頂きます。

本当に助かっております。有り難うございました。


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