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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
序章
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一. 変事

 



「えっ、……今なんと」




 広大な敷地を誇る後宮の最奥。

 周りを鬱蒼と茂った樹木に囲まれた、どこか寂れた感のある小さな殿舎の一室で静麗ジンリーは茫然と呟いた。

 古びてはいるが品の良い長椅子に座り、暇を持て余して施していた刺繍を卓の上に置き、静麗の前に跪いている女官長に向き直る。





 静麗が住まう小さな殿舎、月長殿は後宮の中でも最奥に有り、皇帝陛下の住まう皇宮、透輝宮からは一番遠い。

 また、後宮内に無数に有る、他の側室達の住む宮や殿舎とも距離があり、人が訪れることは滅多にない、静かで寂しい場所であった。


 以前は殿舎の周りや、後宮内の見事な庭園を散策することもあった静麗だが、今は月長殿から出ることもほぼ無かった。

 静麗付のたった一人の侍女と、後宮の片隅でひっそりと暮らしている。

 そんな忘れ去られた側室である静麗の小さな殿舎に異変が起きたのは昼過ぎのことだ。




 ◇◇◇




 昼餉の後、静麗は侍女の芽衣ヤーイーと一緒にお茶を飲み、談笑しながら刺繍を施していた。


 静麗の髪は、この一年の間、一度も切られることが無かった為、以前に比べて随分と伸びて腰に届く程になっていたが、それは結上げられることも無く、首の横で一つに纏められているだけだった。

 その艶やかな黒髪が静麗の動きに合わせてさらりと肩から滑り落ち、窓から入っていた日の光を弾いて輝いて見えた。

 平凡な容姿をしている静麗の中で、唯一自慢に思えるのが、この豊かで美しい黒髪だった。

 だがその髪も、今は一つに縛っているだけで、簪一つ着けることもしていない。

 まだ少女と言ってもよい年齢の静麗だが、着飾ることに対して興味を失っていた。


 刺繍をしていた手を止めて、窓から入る心地よい風に目を細め、小さな裏庭を眺めていた時、静麗の住まう月長殿に女官長が訪ねてきた。

 多忙な女官長自らが赴いて来るなど何事かと静麗は驚くが、直ぐに芽衣に部屋に通してもらう。

 この月長殿にも応接の間はあるのだが、其処に置くべき高価な椅子や机等の調度品を整えられる程の余裕は静麗には無く、必然、人と会うときは普段過ごす居間に通ってもらうしかなかった。



 女官長はいつもの様に背筋を伸ばし、真っ直ぐに静麗のいる居間に入ってくると、その場で跪き側室に対する礼を恭しく行う。

 静麗は居心地悪い思いで礼を受け、どうしたのかと尋ねた。




 女官長とは随分久しぶりに会うが、変わらないなと思う。四十路を超えている筈だが、いつも決然たる態度で後宮内を纏めている女傑だ。

 静麗は初めて会った頃から女官長の鋭い眼差しが苦手だった。

 感情を表わすことのない目で見つめられると落ち着かない。


 女官長はその変わらぬ眼差しで静麗を真っ直ぐに見つめると、抑揚のない低い声で静麗に告げた。






「今宵、月長殿に皇帝陛下のお渡りが御座います。その御積りで夕刻までにはお迎えできるご準備を」






 静麗は女官長が何を言ったのか分からなかった。

 その為、無意識に小さく問い返していた。


「えっ、……今なんと」


 いや、女官長の言った言葉の意味は分かっている。

 ただ、何故?と一瞬で混乱に陥った。




「ど、うして……。え?」




 静麗は長椅子から立ち上がると女官長に詰め寄り、その腕を掴んだ。


「どうして、……なんで今更、だって、あの人はっ」


 激しく動揺し、腕をきつく掴んでくる静麗を女官長は冷静に見つめると、その顔を傍らに控えていた芽衣に向けた。


ジィァン貴人様は皇帝陛下のお渡りに感極まれているご様子。あなたが蒋貴人様の御準備をしっかりと整えなさい。……分かっていますね」


 芽衣にきつい一瞥を与えると有無を言わさずに命じる。


「はっ、はい!……承りました」


 びくりと小さく震えた芽衣が、女官長に深々と頭を下げ拱手礼をすると、女官長は一つ頷き、静麗に退出の挨拶を述べ、泰然とした足取りで部屋を辞した。


 静麗はそれを茫然と見送ることしか出来なかった。










「静麗様……」



 気遣う芽衣の声に、のろのろとそちらに顔を向ける。


「芽衣……ごめんなさい。少し、一人にしてくれる」

「静麗様、でも」

「大丈夫よ。少し落ち着いて考えたいの。芽衣を困らせるようなことは、しないわ」


 芽衣は迷ったようにしながらも頷く。


「では、夕刻前にお仕度に参ります。それまでは、誰も近づけさせません」

「ありがとう、芽衣」


 芽衣は眉を寄せ、辛そうな顔をすると頭を下げ、部屋から静かに退出した。

 一人になった静麗は長椅子に倒れこむように座ると溜息を吐いた。



 後宮に入れられてから、何度も皇帝陛下にお目通りを願い出ていたが、一度も叶う事が無かった。

 また、皇帝陛下も静麗が住まうこの殿舎に来たことは一度も無い。

 最後に皇帝陛下と言葉を交わしたのは一体、何時いつだろう。


「一年以上前かしら……」


 あれ程会いたいと願っていたのに、それが叶うと分かった今、喜びは無い。

 一年前ならきっと違っただろうが、今の静麗は、皇帝陛下と対面した時に、自分がどうなるのか分からず、恐れを抱いた。


 皇帝陛下の考えが全く分からない。



 ―――今まで自分には見向きもしなかったものを、どうして急に……



 皇帝陛下のお召しから逃げる事など出来ないのは分かっている。

 皇帝陛下を拒絶する不敬は自分だけの問題ではなく、自分に仕えてくれている芽衣や、静麗の両親、親族にも罪は及ぶ事になるだろう。


 ならば、今こそ皇帝陛下に真意を問いただそう。


 決意を固めた静麗は、夕刻前に芽衣がおずおずと部屋に入ってくるまで、皇帝陛下に会って何を言おうかと考え続けた。





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