午後八時(2)
古代ローマだったか、古代ギリシャだかわからないが、布一枚で体を覆っている服だ。女神と断言するには早いと思われるかもしれないが、頭の上に輪っかを浮かべ、背中に光る一対の羽に、神々しい杖まで持たれると、女神か少なくともそれの類だと思わざるを得ない。彼女はふわりと地面に降り立ち、一人一人顔を確認するように時間をかけて視線を移していく。俺の方を見た時に少し表情が緩んだように感じたが、すぐに表情を曇らせてつぶやく。
「これだけか」
明らかに落胆の色が含んだ声に、集められた人間は顔を見合わせる。
「思ったよりもはるかに少ない」
女神は杖を持っていない方の手を握り、額に当て、自分の世界に入ってぶつぶつと呟き始めてしまった。
「あの人が私たちを呼んだのかな?」
傍の早希が緊張した面持ちで裾をつかむ。伝わってきた緊張で、自分の心臓の鼓動が早くなっていることに気がついた。
女神が光源となり、辺りを照らしているが、振り返ると俺たちの影は暗闇とつながっている。その暗闇の向こうは何も見えず、おそらく、何もないのだろうとわかってしまった。俺たちはあおば公園から、謎の空間に飛ばされてしまったのだ。
振り返っている間に、女神の方から怒鳴る声がした。慌てて目を戻すと、金髪の少年が女神を問い詰めているようだ。しかし、早口の英語なので、何を言っているのかはわからない。不安が増したのか、早希の裾を掴む力が少し強くなる。
金髪の少年の怒鳴り声で、やっと俺たちの存在を思い出したのか、女神は顔を上げる。渋い顔をしていたが、女神は意を決したように口を開いた。
「失礼しました。皆さん、初めまして。私は、エナ。神と考えていただいて結構です」
裾を掴むのをやめ、ついには腕にしがみついてきた早希の唾を飲み込む音が聞こえる。ふと、そばの金髪の男を見ると、彼は、まっすぐにエナと名乗る女神を見ていた。
「まずは、お集まりいただき、ありがとうございます。念のため確認しますが、皆さんは、私の声を聞いてここにいらっしゃった方々で間違いありませんね?」
女神はちらりとこちらを見たが、すぐに視線を外す。皆一様に黙り、肯定とも否定とも取れない空気が流れる。
「話を進めます。結論からお話しします。皆さんに、世界を救って欲しいのです」
至極真面目な顔をして話す女神以外は、唖然とするか戸惑うかのどちらかの様子を見せた。
「どういうことなのか、順に説明していきます。もうご理解いただけるかと思いますが、この世には神がいます。最上位の神、全てをお造りになられた存在です。その神は、無数の世界をお創りになりました。多くの星、ということではありません。次元、世界線、パラレルワールド、異世界、言葉は固定しませんが、皆さんから見たそういったものが、実は数え切れないほどたくさんあるのです。そして、その一つ一つに必ず一人、私のような管理者がつくのです。管理者とは名ばかりで、干渉を許されていないのですがね」
呼吸がしづらい。なんども唾を飲み込み、息を吐いて、大きく吸い込む。そして、一言も聞き逃すまい、とまた息を止める。
「さて、ある時、とある世界で、強力な力を持った種族が誕生しました。その世界は魔法が存在する世界で、その種族は、我々神に連なる者が持つ力とは似て非なるものでありながら、神に匹敵する力を得たのです」
魔法の世界はあるらしい。妄想好きのクラスメートが聞いたら諸手を挙げて喜びそうな事実だ。
「我々管理者は、彼らを危惧しました。強大すぎる力を、神に連なる者以外が持っては危険である、と。我々は、神への進言を試みましたが叶わず、神のご意向は不透明のままでした。不干渉も解かれず、我々は手出しを許されなかったのです。やきもきしているうちに、その世界は滅びました」
オーマイガ、と呟いたのは、少し離れたところにいるハゲ頭の夫婦だった。女神の話に聞き入っていて、揃って呟いたことにすら気がついていない。
「正確には、生きているものがその種族以外にいなくなってしまったのです。しかし、我々は、それを見ていながら、どこかで高をくくっていました。いずれはその種族を滅ぼす存在が内外どちらかから生まれるだろう、と」
女神は顔に悔しさをにじませて声を震わせた。
「その考えは浅はかでした。彼らは、ある一個体の元、完璧な統率を見せ、自らの世界を破壊しました。そして、あろうことか、次元を渡り、違う世界に侵攻を始めたのです」
金髪の少年が再び糾弾にかかる。「TV program」という単語が混ざっていたところを見ると、まだドッキリを疑っているようだ。女神は毅然とした態度を保ちつつ、「先ほども申し上げたとおり、現実です。受け入れてください」と少し苛立ったように金髪の少年を一蹴する。
「話を続けます。お気づきかもしれませんが、彼らは、次の標的としてこの世界を狙っています。少し語弊がありますが、先日、隣の世界が終わりました」
女神は、またも悔しそうに唇をかんだ。
「これで、彼らに破壊された世界は452個です。もう、数え切れないほどの命が、彼らによって奪われているのです。どうか、お力をお貸しいただけませんか?」
戸惑った様子を見せる集められた人間たちは、お互いに顔を見合わせる。お力と言われても、大したお力など持ってはいない。他の人間は持っているのだろうか。自分は間違って呼ばれたのではないだろうか。そんな不安がありありと見てとれた。
巻き込まれた人間同士でコミュニケーションを取りたいところでもあるが、日本人と見える人間がいない。近い位置にアジア系の女性がいるが、間違いなく日本語ではない言葉を発していた。
「そういえば、皆さんの言語はバラバラなままでしたね。考えが至りませんでした、すみません」
女神は音もない提案をすくい上げ、持っていた杖を軽く振る。杖の先に付いている宝石が小さく青い光を一度だけ点滅させ、すぐに消える。
「そこのあなた」
名指しされ、心臓がひっくり返りそうになる。体が震えたのは、早希が驚いたからだけではない。
「自己紹介をしていただけませんか? もちろん、日本語で結構です」
「いや、自己紹介って言われても」
「お名前と好きな食べ物でも言っていただければ構いません」
「え、えっと、それじゃあ、田中一郎です」
好きな食べ物は、と言いかけたが、周りの様子がおかしいことに気がつく。こちらに注目しているのはともかく、揃って不思議そうな顔をしている。
「君、今、日本語で言ったのかい?」
すぐそばに立っていた金髪の男が、驚いた様子を見せながら話しかけてきた。それも、日本語で。
「ええ。日本語話せたんですね?」
話せるなら話せよ、と少し非難する目で見ると、男は首を振る。
「残念ながら、話せないよ。僕は、今も英語を話しているつもりなんだけど、君には日本語で聞こえているようだね?」
何言ってんだ、こいつ、と思う間もなく、女神が話を再開した。
「信じていただけましたか?」
「いや、信じるも何も、そいつが英語話せただけだろ?」
金髪の少年がまた喚き始めた。しかし、今度はおおよそ西洋人が話せるのか疑わしい、流暢な日本語で、だ。
「え、今、日本語で話した?」
早希も驚きを隠せていない。困惑は収まらないが、それを見た女神は満足そうに頷いた。
「お分りいただけたように、言語を統一しました。本人がもっとも聞きやすい言語に」
ここにきて、俺の心の秤の「ドッキリ」という秤皿が勢いよく空に舞い上がったのだった。