午後八時
セミの声がうるさい。夏の風物詩とは言え、近所迷惑だ。汗がにじみ出るような猛暑の中、街灯がなければ真っ暗の道を、セミの声をBGMにして歩くのは気が滅入る。
「待ってよ!」
靴紐を結び直す早希の声が後ろから追ってきた。振り返ると、こちらをチラチラ窺いながら、手を動かしている。
「どんくさいな」
「なんか言った!?」
セミの声をかいくぐるとは、思いの外通る声をしていたようだ。同年代より高めで、子供っぽいので良く思っていたのだが、思わぬ発見だ。
「その靴かわいいねって」
「なんか言った!?」
少し声を張って恥ずかしいセリフを言ったことを後悔した。
早希は何度も結び目を確認してから立ち上がって、小走りで駆け寄ってくる。「おまたせ」と横に並んで嬉しそうな顔をする。
やっぱり聞こえていたのだろうか。やたらに上機嫌な早希を不審に思いながら、連れ立って歩く。腕時計を見ると、指定された八時にはあと十分ほどあった。
早希と若菜部屋を出て行き、目の前が真っ暗になったあと、まず頭に浮かんだのは、停電だった。しかし、停電だけでは片付けられないことが思考を始めるよりも早く起こり、行動へと至らなかった。
「皆さん、こんにちは。今、あなたに起こっていることは現実です。夢ではありませんので、真剣に聞いてください。明日、夜の八時に最寄りの公園に来てください。これは、あなたたちの世界を救うためでもあるのです。どうか、お願いします」
落ち着き払っているかと思えば、少し慌てた様子を孕んだ声は、どこから耳に流れ込んだわけでもなく、頭に響いたとしか言いようがなかった。
誰しも、口の中だけで言葉を発することはあると思う。その感覚が、口の中で言葉が巡ることなく響くだけ、と言ったら少しはわかってくれるだろうか。
テレビを後ろから消されたように、頭の声はぶつりと途切れて、周囲を覆っていた暗闇もいつの間にか晴れていた。白昼夢にしては突飛だな、などと悠長に考えていると、家全体が急に揺れた。地震のようなお腹がぐにゃぐにゃするような横の揺れではなく、地面が一瞬で沈んで戻るような、言ってみればトランポリンのような縦の揺れだった。奇妙なことが起きてすぐだったので、さすがに体を起こすと、階下が騒がしくなってきていた。慌ててリビングに降りてみると、Tシャツとパンツ姿の早希がへたり込んでいて、それに母さんと若菜が寄り添っていた。
「うわっ!」
若菜が気がつき、すぐに俺と早希の間に立って腕を広げる。
「ちょ、何見てんの、お兄ちゃん! あっち行って!」
「ああ、えっと、悪い!」
慌てて早希に背を向け、立ち尽くす。背後で「大丈夫?」とか「とりあえず、服!」という声が聞こえる。バタバタと浴室のほうに駆けていく音を聞きながら、気持ちを落ち着ける。存在感を消すように動かないままでいると、背後から声をかけられた。
「ねえ」
早希の声にどきっとして、体がびくっとする。振り返らず、「どうした、大丈夫か?」と上擦った返事を返す。逡巡するような間があって、真面目な声で早希は言った。
「なんか受信しなかった?」
話し合った結果、受信したのは俺と早希だけで、母さんと若菜は怪訝な顔をするばかりだった。その晩、早希は俺の部屋で寝ることになった。母さんと若菜を説得していた時からわかっていたことだが、早希は少し興奮していた。
「全く同じ内容を、同じように聞いたのか」
「なんなのかな? ドッキリ、じゃないよね?」
今度はベッドに俺が座って、早希が床にいる状態だ。まさか、二人で同じ布団に入るわけにはいかない。
早希は、ちゃぶ台を片付けて敷いた布団の上で、右足を抱えて膝小僧を覗いている。声に驚いて、壁の角にぶつけたアザが気になるようだ。
「スケールがドッキリの枠を超えてるんだが」
「明日、行く?」
隠しきれていない期待の目を向けてくるが、首を横に振る。
「行かない。危ないかもしれない」
「なんか凄いことかもしれないよ?」
「宿題が残ってる」
「宿題で貴重な経験をふいにするの? 明後日の分は終わってるんでしょ?」
ほんの少し前に言っていたことと正反対で呆れる。
「俺は行かない。お前だって、そんな時間に出歩くわけにいかないだろ」
早希は少し頬を膨らませ、じっとこちらを不満げに睨んでくるが、相手にしない姿勢を前面に押し出す。15歳になったばかりの女子中学生を預かっている身だ。何かあったらでは遅い。
「じゃあ、いいよ。一人で行くから」
驚いて早希の方を見ると、すでにタオケットをかぶっていた。もう聞こえません、という意思表示の壁の早希に声を投げかける。
「おい、一人で行くなんてだめだぞ」
「私がどうしようと勝手だと思います。私のことに首突っ込みすぎ」
くぐもった声に呆れて二の句が継げない。もちろん、それだけではないが。
こうなってまうと、頑固な早希はテコでも動かない。おじさんが出張でいない今は、誰かに遠慮することもない。
今日、何度目かのため息をついて、盛り上がったタオルケットに念を押す。
「俺と一緒だ。いいな?」
タオルケットから顔を半分だけ覗かせた早希の目は少し申し訳なさそうに眉が上がっていた。
「約束?」
前言撤回で蹴飛ばしてやろうかと思ったが、抑えて頷いた。
今朝、早希は一度家に帰り、俺の方はというと、夏休みとして理想的にダラダラとした1日を送った。そして、7時半頃に塾に忘れ物をした、と難なく家を出ることに成功した。一方、早希の方はそうでもなかったようで、待ち合わせた空き地の前に息を切らしてやってきた。
「大丈夫か?」
「ごめん、ちょっと遅れたね」
「やめるか?」
「本気で言ってる?」
最後の抵抗も虚しく、早希が先立って歩き始め、今に至るわけだ。
声が指定した場所、最寄りの公園といえば、俺たちにとってはあおば公園だ。滑り台にブランコ、鉄棒に砂場、あとは雲梯がある平均的な大きさの公園だ。母さんが仕事から帰ってくるまで若菜とそこで遊んだのが懐かしい。
家から歩いて十分ほどかかるが、最寄りの公園は間違いなくそこだ。ただ、声の要求に応えられているのかと言えば、首をひねるばかりだ。
そもそも、「皆さん」という言葉を使ったことからわかる通り、呼び寄せようとしたのは俺と早希だけではないことは想像に難くない。その言葉があっての「最寄りの公園」という言葉は不自然だ。各々その条件に合う場所が異なり、人を集めようとしているのなら、頭が悪いとしか言いようがない。最寄りの公園が特定の公園、あおば公園になるような人間だけを抽出したという可能性もなくはないが、なんにせよ、不親切、不適切な言葉の使い方だ。実際、俺が不審に思っているのだから。
他にも気になることはある。テレパシーじみたあの声自体、気になるどころの騒ぎではないが、とにかく怪しさ満点だ。最悪、公園の外から覗くだけにする選択肢もある。
早希の言葉に生返事で思案を巡らせているうちに公園が見えてきた。公園を囲むように巡らされている花壇の上からそれとなく、中の様子を窺う。早希が「誰かいるね」と声をひそめ、警戒心を強めている。ぽつんぽつんと適当な距離を取り、人が点在している。声が聞こえた人間なのか、偶然に居合わせただけかは判然としないが、一人でいる人間が多い。歩くスピードを落としながら花壇に沿って歩き、入り口で立ち止まる。野次馬を装って少し様子を見たかったが、それを許してくれなかったのは、入り口近くにいた背の高い男だった。
「Excuse me?」
電灯に照らされた顔は、西洋人のものだった。フレンドリーでありながら、少し困ったようにも見える表情が、まるで日本人の俺たちに対して、計算し尽くしたように完璧で、逆に不自然さを感じる。
「うわ、英語だ」
「早希、わかるか?」
「わかんないよ。ぷ、ぷりーず、すろう。ぷりーず、すろう」
早希が拙い英語でコミュニケーションを図ろうとしたその時、数少ない明かりが消え、またあの暗闇がやってきた。腕時計に目をやると、八時にはまだ五分ほど早い。
辺りを見まわそうとしたその時、頭上に強い光が生まれたのを感じ、思わず見上げる。暗闇に突如として生まれ、舞い降りてきたのは、私は女神です、といわんばかりの格好をした女性だった。