午後八時前
日常は勝ち取るものだ。
親父はそう言い残して、家を出た。
その言葉と、蔑むような目を、今でも覚えている。
「そういうのはいいから、集中してください」
ヘッドボードを背もたれに足を伸ばす寺田早希は、雑誌から目を離しもしなかった。
「いいから聞いてくれ」
真面目な声音を出すと、早希は申し訳程度にこちらをチラリと見る。即座に顔を引き締めるが、むしろ不自然に強張ってしまい、早希は雑誌に視線を戻してしまった。
「その日常を勝ち取るために勉強してるんでしょ? 頑張って」
「家庭の問題まで持ち出したのに、冷めすぎだろ」
「表情作るのが下手なんだよね」
形だけの舌打ちをして、顔の力を抜く。早希はもう用はないと言わんばかりにくつろいでいる。視線を目の前の足の短い丸テーブルに戻す。夏期講習のテキストが憎たらしく広げられている。なんだかんだと話を避けられ、あろうことか、明後日からの夏期講習の予習をさせられているところだ。
「大体、なんだって来週の分までやらなきゃならないんだ。来週の分は来週でいいだろ」
「初日の予習の範囲は先週発表されました」
小さな独り言だったが、高級マイクばりに音を拾う性能の早希の耳を誤魔化すことはできなかった。
「だからなんだよ」
「初日は明後日です」
「存じておりますが?」
口を尖らせてはみるが、早希は全く意に介していない。
「まだ言いたいことがあればどうぞ続けて?」
分が悪すぎると判断し、抵抗を中止する。
「明日やろうと思ってたんだよ」
「やらない人の常套句だよ、それ」
時計を見ると、もう八時を回っていた。早希は、知らん顔で雑誌を眺めている。
「早希、もう八時だ。泊まっていくのか?」
一瞬体を震わせたが、すぐに持ち直して、ふんと鼻を鳴らす。
「そうやって逃げようとしてもダメ」
「逃げないって。あともう少しだし、宿題はやる。約束だ」
早希との間で約束という言葉は重い。この言葉を持ち出すことが、そこにおふざけは入っていないことの暗黙の了解になっている。それを理解している早希は、雑誌の向こうで目を泳がせ、唸る。
「宿題終わったら聞く」
「逃げるなって。なんの話か、わかってるんだろ?」
観念したように大きく息を吐き、「お父さん?」と確かめる。ご明察、おじさんに頼まれたのだ。
「恵理さんに連絡はしたのか?」
そばに置いてあったスマホを少し操作してぽいと放り投げてくる。「義母」からの不在着信が何件も表示されている。マナーモードにしていたのだろう、着信音が鳴った覚えはない。
「何をどう連絡したら、こんなに着信が入るんだ?」
細長い画面に入りきっていない着信履歴に、早希にも、恵理さんにも呆れてしまう。
「友達の家に泊まるって。あの人が何も知らないで電話してるだけ」
早希の実の母親、由美おばさんは、三年前に亡くなった。くも膜下出血で突然倒れ、そのまま息を引き取った。ごく当たり前にあった風景の中から、なくてはならなかったピースがすっぽりと抜け落ち、日常を日常と呼ぶことができなくなってしまった。俺でさえ、未だにあの笑顔がないことに違和感を覚えることがあるぐらいだ。早希の空虚感は計り知れない。明るく、優しく、いつでも心強かったおばさんを失ったその時、早希の日常は止まってしまい、今でもそのままなのだ。
おばさんが亡くなってしばらくは、早希とおじさんの二人の生活が続いた。早希も立ち直ろうとはしていたが、隙間を埋められていないのは明らかだった。そこでおじさんがとった行動が、再婚だった。早希には母親が必要とのことだったが、おじさん自身の精神的な意味でも必要なことだったのだろう。新たに早希の母親となった恵理さんは、悪い人ではなさそうだった。おじさんと愛し合っているのは見て取れたし、早希とコミュニケーションを取ろうと努力しているのも感じられた。ただ、おばさんに比べると少々ぶっきらぼうで、不器用な印象を持った。区切りをつけきれないことにそのギャップも相まって、未だに早希は彼女のことを母親扱いしておらず、他人扱い、もっと言えば異物扱いしている。
「ガキっぽいことするなよ」
「別に、夏休みなんだからいいじゃない。過保護なのよ」
嫌悪感を隠そうともせずに言い捨てる。ただ、その嫌悪感が早希に少しだけとはいえ生気を取り戻させているのは、なんとも皮肉なことだ。
「心配してるのがわからないのか?」
雑誌を持っている手に力が入るのが見える。その雑誌の後ろで、顔を歪ませて「苦しいのよ」と絞り出した言葉がいたたまれない。
「今日から、お父さん、帰ってこないの」
出張で、一週間も家を空けるそうだ。おじさんから聞いた時は、本当にタイミングの悪い、と思ったものだ。ただ、同時に良い機会だとは思ったのだ。
「おじさんに聞いたよ」そう言うと、早希は雑誌を床に叩きつける。
「じゃあ、わかるでしょ? 一週間もあの人と二人だけなのよ? 無理に決まってる」
悲壮感すら漂わせる表情に胸が締め付けられ、口が重くなる。
「とにかく、連絡はしとけ。心配するだろ?」
「お母さんだったら!」
まるで現実から目をそらすように足を抱えて太ももと胸の間に顔を隠す。早希がうつむくのは、涙があふれそうになるのを隠そうとするからだ。昔、おばさんが笑ってそう教えてくれた。
「お母さんだったら、今頃迎えに来てた」
早希がこんな時間まで居座るのは我が家と決まっていた。そして、おばさんが怒った顔を作って迎えに来てくれるのがお決まりだった。当時は遊びの時間が終わったという程度の感覚だったが、思い返すと、かけがえのない幸せな時間を目にしていたことを思い知らされる。
「もう、おばさんはいないよ」
はっきりと、自分に言い聞かせる意味も込めて早希にぶつける。固まって動かないように見えたが、ひゅっと早希が息を吸い込む音が聞こえると、心臓が重たい音を上げた。
時計の針の音だけが響き、重たい沈黙が降りる。言い訳か、それとも、説教でもしようとしたのか、自分でもわからないまま口を開こうとした矢先、ドアがノックされた。
「はい?」
ドアを開けて入ってきたのは、妹の若菜だった。
「早希ちゃん、お風呂わいたよ」
ぐいっと目元を拭い、「うん、ありがと」と言って早希はベッドを素早く降りる。部屋を出て行くのを見送らなかったが、早希の目が赤くなっているだろうことは想像に難くなかった。階段を降りていく音が終わったあたりで、若菜の鋭い声が飛んでくる。
「なんでそういう言い方しかできないわけ?」
「優しさだけで解決できる時じゃない」
「気持ちの整理がつく時間なんて、人それぞれでしょ。みんながみんな、お兄ちゃんと同じと思わないで」
「その時間はもう終わったって言ってるんだ」
呆れたように頭を振り、部屋を出ていこうとする若菜を呼び止める。
「待て、若菜」
若菜は露骨に嫌そうな顔をして「何?」と振り返る。
「お前が出る幕じゃない」
「いいから宿題やれば?」
バタンと乱暴にドアが閉まる。頭をボリボリと掻いて大きく息を吐く。
若菜が突っかかるようになったのは、最近のこと、中学に上がってからだ。早希のことだけじゃなく、母さんのことにまで口を出すようになってきた。母さんに無理をさせすぎだ、少しは協調性を持て、と。
十年前、親父が家を出ていってから、俺は母さんの尻を叩き続けた。悲しみに暮れる暇さえ与えずにパートで働かせ、家事をこなさせ、俺と若菜の面倒を見させた。辛かっただろう、苦しかっただろう。わかってはいたが、俺はそれを強いた。幼さを盾にして。
そうやって十年間どうにかこうにか回っていた我が家も、今はお互いの距離感を掴み損ねている。家族を守るため、という建前を掲げてきた俺のメッキが剥がれ始めたことが歪みを生んでいるのだ。このままではいけないことはわかってはいるが、この微妙かつ絶妙なバランスは、崩すにはまだ早い。今つつけば、取り返しのつかないことになる予感がある。ただ、父親まがいの兄を、家族の愛をすり替えることを、いつまで続ければいいのだろうか。そう思ってしまう自分もいた。
もう一度大きなため息をつき、ごろんと床に寝転がる。あの男の過去が、未だに俺たち家族に影を落としている。早希は、未だに止まった日常の中におばさんの影を探している。
「どうにかしなくちゃ、な」
呟くと、なんの前触れもなく、目の前が真っ暗になった。
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