孤独な英雄5
スリを働いた姉弟。リリーとルキはコロッセウムには似つかわしくない年齢と体格でコロッセウムをより大きい物に見せていた。
「お姉ちゃん怖いよ……」
弟のルキが姉のリリーに縋るように言う。
「大丈夫……大丈夫……お姉ちゃんが守ってあげるからね。だから安心して」
「うん……」
震える手足は治まらず、吹かれるラッパの音を心底恐れている様に見えた。
そんな事はお構い無しに、ラッパの音は宙を舞う。さも偉大そうに、壮大に。傍から見るしか出来ない僕は、その時ほど歓声が憎く感じたことは無い。
少年少女は走り出す。暑い暑い炎天下の中、少年少女は走り回る。壁に沿うようにグレンデルから逃げ回る。姉が手を引き、弟がそれにしがみつくように捕まり走り続ける。
「お、お姉ちゃん……く、苦しいよ……」
「ごめんね……ごめんね……だけど走って! お願いだから! お願いだから走って!」
涙目ながらに人間不信の姉はそう言った。本当は姉も限界が近いのを隠して、ここで弱音を見せてしまえばそれはきっと本当に終わりだと思って──。
「将太さん……あの子達……」
ココさんが僕に蒼白な顔を向けて訪ねてくる。知っている。知っているからこそ答えられない。
「どうして……どうしてここにいるの……」
その答えはあの子達に聞くまで分からないだろう。けれど、彼女達が望んでここに来たのでは無いことは分かっていた。でなければ、なんで彼女達はあんなにも必死に逃げているのだ。何故あそこまで生きる事に拘るのか。
──走って! 走って! 止まっちゃダメだ!
そう願えども、願えども、グレンデルとの距離は少しづつ縮まる。その距離が縮まる度に胸の奥の何かが締め付けられる。
それから姉弟に限界が来るはそう遠くは無かった。弟の足は限界に達しちょっとした段差でもつまづき出していた。
「うわっ!」
遂に時が来た。終わりの時が来た。
弟の方が転んでしまったのだ。
「ルキっ!」
再び立ち上がろうとするが時はもう遅かった。姉弟を覆い隠すようにグレンデルの大きな体が壁を作っていた。
「嫌だ……お姉ちゃん……怖いよ……」
「大丈夫……大丈夫よ……私が助けてあげる」
姉のリリーが弟の持っていた剣を取り、グレンデルに向かい合うがその手足は汗が滲み、カタカタと震えていた。そんな状態で戦える訳が無い。
「だめだ……逃げて……生きるのを諦めちゃ駄目だ……」
僕とココさんは持ち場を忘れ身を乗り出しながら届くはずのない気弱な言葉を投げかけていた。
「お母さん……ごめんね……私死んじゃうかも……ルキを一生守るって約束したのに……」
その瞳は涙の粒でしっとりと濡れ、地面にしとしと落ちていく。グレンデルはそれでも高く拳を振り上げた。
そんな時、僕は弟のルキの目を見てしまった。僕はあの目を知っている。だから怖かった。ルキがその行動を現実の物とした後の光景を考えると怖かった。
──駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!
知っている。知ってしまっている。あれは────自己犠牲の目だ。
拳が振り降りる瞬間、ルキが立ち上がり姉のリリーを突き飛ばした。拳の矛先はルキ一人になったのだ。あの時の姉の目は今でも忘れられない。絶望と羞恥と後悔をゴチャゴチャに混ぜ込んだようなあの顔を。
「ダメっ!」
ココさんの声がする。それと同じ時、僕も叫んでいた。
「駄目だぁぁぁぁぁぁぁっ!」
激しい砂埃と地響きの後、グレンデルの拳が壁を貫いていたのが分かる。
だが、観客の歓声もない。しかも観客の視線は姉弟にもグレンデルにも無かった。僕に────そう、全ての視線は僕に集まっていた。
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グレンデルの拳が高らかに私の目の前で上がる。その時に私は悟ってしまった。
──あぁ、私死ぬんだ……
今は亡き母との唯一の約束を私は守れない。もし、この苦境から脱してもルキは一人で生きていけるだろうか。私無しで幸せに生きていけるだろうか。
ルキを思うと、母を思うと涙が溢れて止まらない。悔しくて、苦しくて、どうしようない私を殺してやるたくなる。
「お母さん……ごめんね……私死んじゃうかも……ルキを一生守るって約束したのに……」
涙で視界が歪み、この世とのお別れが刻々と近づく。死にたくないなんて事が頭から離れてくれない。私はなんでここまで生に執着しているのだろう。
拳がゆっくりと私に近づく。死ぬ間際はゆっくりと感じるというのはほんとだったらしい。
そんな時、私の体が真横に吹き飛ばされた。吹き飛ばされた方向を見ると儚げに笑って私を見つめるルキがいた。あの時ほど恐怖を感じた事はない。汗が毛穴という毛穴から吹き出るのが分かり、後悔と自分自身への羞恥がぐるぐる頭から離れない。
──嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! なんで! なんでルキがそこに立ってるの!
ルキにだけは生きて欲しかった。願いはそれだけだった。それすらも叶えさせてくれないこの世界に嗚咽が走る。
「ぃ……や…………だ…………」
苦しい。喉が張り裂けそうで、大きな声で叫んだはずなのに声が掠れてしまう。
「お姉ちゃん……ありがとう」
「いやぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁあっ!」
砂埃と共にルキの姿が消えた。
「あ、あ、あ、あ、あ、ぁぁぁぁぁぁぁっ!」
喉が痛い。頭がくらくらして、まともに立てない。目から鼻から水が滴り落ちて、地面に水溜まりを作り出していた。
そんな事をお構い無しに、現実を突きつけようとゆっくりとゆっくりと砂埃が晴れていく。だが、そこには大きな拳の隣にルキの姿があった。小さな小さな体のルキが生きていた。
グレンデルの目には小さな青い幾何学的文様。それと同じ様に観客席に一人。青く幻想的な目をした人間がいた。
知っている。あの人を私は知っていた。
「どうして…………」
そこには昨日あった黒髪の男が立っていた。
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同時刻、コロッセウムの特等席。
「神の義眼……!やっと、やっと見つけたぞ!」
頑固な王様が青く光るその目を見つけると小さくほくそ笑みながら続ける。
「お前ら! あの目を何としてでも手に入れる! まずはアイツをコロシアムの壇上に連れてこい!」
王は後ろに控えていた兵士に目掛け指示を出した。
「いいのですか? 国王様?」
「構わん! いいから逃げられる前に引き抑えんか!」
「はっ!」
国王も嬉しそうだったが、本当に嬉しそうだったのは魔女の方だった。にこやかに、儚げに、満面の笑みを零す魔女はその名の通り、魔女というに相応しいものがあった。
「ふふっ、ふふふふふふふふふ! 本当に面白い子。こんなに楽しい思いをするのは本当に久しぶりね」
魔女は愉快そうに、楽しそうに笑みを零しながら続ける。
「さぁ、始めなさい。貴方の物語を」
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「将太さん……」
隣に座る美少女はどうしてと言わんばかりに口を開けて顔を驚愕に染める。
最初は何も考えず本能だった。気づいた時には使っていた。そんな感じだったけれどそのお陰で少しだけ、ほんの少しだけ思い出せた。僕の力の事、僕の目の事。
「思い出しちゃいました」
そう言って儚げに笑ってみせるとココさんの顔は覚悟を決めたように下を向き、喉を鳴らすと顔を上げるのと同時に優しい笑顔で笑い返した。
「はい、私は貴方を見守りますよ。孤独になんてさせませんよ」
そう柔らかく笑う。
そうやって気付くんだ。僕が誰かを傷つけていること。僕は誰かに支えられていること。
「ありがとうございます……僕も、僕も期待に応えます……」
「待ってますね……」
笑い合う。別れを察して笑い合う。
彼女が笑えば僕も笑い。僕が笑えば彼女も笑う。未だに他人行儀な二人だけれど、未だに敬語の二人だけれど、これが僕達の在り方なんだと思う。これが信頼の証なんだと思う。彼女がいるから僕がいて、僕がいるから彼女がいる。そんな他人行儀だけれど誰よりも近い存在。
「おい、お前! 国王がコロッセウムに来いと仰せだ。反抗するなら容赦はしない」
「分かりました」
僕は話しかけてきた重たい鎧を担いだ男性について行く。そうして壇上に降りるや、再び鎖に繋がれたグレンデルの前に連れてこさせられる。
コロッセウムにあれだけの大穴を開けた拳には僅かに血の跡が残っているがみえる。
『やぁ、反逆者』
土色の天蓋のある客席から男の声が聞こえ、それが国王のものだと気づくのに数分かかった。
『初めに貴様の名前を聞いておこう。貴様の名前は?』
「黒田将太です」
『黒田将太か。貧相な名前だ。まぁ、それはさておき、貴様は何故あのような行動を取った』
その問に関する答えがはっきりとは浮かばなかった。あやふやであったその答えを後ろで抱き合う姉弟をみて再確認する。
「僕は────」
僕はそう。他の誰でもないあの姉弟だったから助けたんだ。ほかの理由なんてない。
「僕はあの姉弟を知っていたからです」
『それだけか?』
驚いた声を上げた国王に迷わず『はい』と肯定の言葉を続ける。
『ふんっ、まぁいい、今や私の見ている娯楽に楯突いたのだ。後悔しておるだろう。故にもう一度チャンスをやろう。そこにある剣で姉弟を切れ。それでも尚、殺せぬと言うのなら貴様がグレンデルを倒して見せよ』
「分かりました」
僕は剣を取り、不器用ながらに剣を構えて相対する。
『矛先を間違えるなよ。少年』
「間違えません。私は元から決めていた事です!」
怒りと、憎悪を乗せ、土を噛み締め、高らかに殺意を持って矛先を向ける。
その矛先に皆が目を見開いた。あの姉弟でさえ目を見開き、観客達でさえ震え上がる程に。矛先の先には国王がいた。グレンデルでも無い。姉弟でも無い。国王に剣を向ける。
『き、貴様! 私をなんだと思っている! この反逆者が!』
「ふふふふふふ!お、お腹が痛い! もう本当に面白いわ貴方 」
国王の右隣、長い黒髪に真っ赤な唇。昨日出会った女性が腹を抱えて笑っていた。
「いいじゃない、国王。あの姉弟の代わりにあの子をコロッセウムに参加させたら。あの子だってそのつもりだし、貴方だってあんなモンスターにやられる所有者なんて要らないでしょ?」
『も、もちろん、そのつもりです!』
頑固な国王は、その矛先をまじまじと見つめながら僕に向かい高らかに宣言する。
『黒田将太いや、反逆者。お前があ奴らを助けたければ、私を倒したければこのコロシアムで生き残れ! 観客達よ! これより始まるは延長戦だ! 延長線だ!』
皆を巻き込み、皆を震撼させる。
震え上がる観客達は歓声を思うまま吐き出し、辺り一面を歓声で埋め尽くした。
『試合は明日の早朝より行う!』
再び、歓声が空を舞う。
「おい、お前! お前は明日の試合まで牢獄に入れる。付いてこい」
先程の鎧の男が次は牢屋に案内する。
暗い通路を奥へ奥へと進み、突き当りで鍵のついた扉が現れた。それを開けると下に続く階段が見え、その階段をまた一段一段降りていくとそこにはいくつもの牢屋が無数に続いている場所があった。
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「国王様、本当に良かったのです?」
金色の髪は綺麗に整えられ、凛とした顔立ちは好青年と呼ぶにふさわしいものがあった。そんな男が国王に疑問を呈していた。
「あぁ、気にするな。もうこうなってしまえばこちらの物、全ては決まった物語。アイツがどう足掻こうと変わらぬ物語だからな」
国王は頬にいやらしい笑みを浮かべる。待ちに待った所有者が自ら転げて来たのだから。
これは決まった物語。