孤独な英雄2
西日が紅く大地を包み込み、僕らに夜の訪れを予見させる。
ベッドが二つ並ぶように置かれ、それに沿うように明かりを誘い込む窓が綺麗に四角をかたどる。僕はそんな部屋の中心にある食卓に、向かい合うような形でノートをまじまじ見つめていた。
「────そう、そういう感じで文字を繋げていくんだよ」
僕が教えているのは文字。ササンドラちゃんは元は村出身らしく、学校が無く文字の読み書きが出来ないらしい。
「うん! 出来たー!」
「おおー! そうそう!」
彼女は紙切れに何度も、何度も、なぞるように文字を綴る。
「文字が書けるようになったらね! お兄ちゃんと離れてもお手紙出来るね!」
彼女は明るい笑身を浮かべながら物騒なことを呟く。
「そうだね……って、そろそろ時間だね。今日はここまで」
「はい! ありがとうございました!」
「じゃあ、また今度ね」
「うん、お兄ちゃんありがとう!」
僕とササンドラちゃんは立ち上がり、木目の濃い戸を開ける。
ササンドラちゃんの顔が西日に照らされ、純粋な黒髪がほのかに茶色く染まる。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「うん! お兄ちゃんまたね!」
ササンドラちゃんは笑顔で手を振りながら、奥へ奥へと進んでいく。見えなくなった頃を見計らい、僕は再び部屋に戻った。
「お疲れ様です。私が読み書き出来れば手伝えるのに……」
「気にしないで下さい! 僕みたいな欠落品にはやれる仕事があるだけで嬉しいから」
「そんな事ないです! 貴方は欠落品なんかじゃない! だって……だって貴方は……私を救ってくれたんですから……」
少し潤んだ瞳を向けて、今にも消えそうな声で、彼女はそう囁いた。
僕は不器用だ。人を安心させようとして、悩ませて、苦しませている。彼女はこんな僕に助けられたのだろうか。
「────料理を作りますね!」
「あ、ありがとうございます」
彼女は台所に向かって下準備をしだした。彼女の横顔はほのかに赤みがかって、眉毛にかかった髪がサラリと揺れた────僕はこの横顔を守ったんだ。そう噛み締めた。
それから三十分、料理を作り終えた彼女は、皿に移し替え食卓に運ぶ。
「ココさん買い物行きませんか?」
ココさんが作ってくれたスープを啜りながら、さっきのお詫びついでに訪ねてみる。
「え…………是非!」
彼女は何にそんなに驚いたのか、一瞬目を見開き、一息ついた後、首をやや斜めに傾けて、喜色満面な笑みを浮かべ
「いつにしましょうか!」
と、彼女は体を小刻みに揺らし、それと同時にフワフワと髪の毛から甘い香りを漂わせながら聞いてきた。
「明後日が休みなのでその日でいいです?」
「では、その日に!」
彼女とした初めての約束。
ゆっくりと、ゆっくりと、壊れ出す。日常はゆっくりと、ゆっくりと、原型を留める事無く壊れ出す。
この約束をしなければ、日常は続いたかもしれない。
この約束をしなければ、もっといい人生を歩めたのかもしれない。
けれど、けれども、彼は不幸に自ら飛び込む。それはどこか自殺志願者の様で、彼からすれば、それは最も嫌う物なのだけれど。
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「貴方、面白い人生を歩んでるわね」
魔女は笑っていう。
気まぐれな魔女は笑っていう。
「どうなんでしょう? 僕には記憶が無いですから」
「もう答えは出てるじゃない。本当は分かってるんでしょ」
長い黒髪に、真っ赤な唇。色気のある顔立ちに豊乳を見せびらかす様な露出の多い服を着飾った魔女は笑うのを止めない。
「貴方は記憶を失っている。それが既に答えじゃない」
「────そうなのかも知れませんね」
「────そうかもしれないのよ」
彼女は笑ってこう続ける。
「貴方は孤独な英雄ね」
気まぐれな魔女との出会いは五時間ほど遡る。
王都の端の端。貧乏人が蔓延るスラム街────金はやたらと高く、治安も悪い。気を抜けば財布など無くなっていた、なんて事は日常茶飯事のこの街で、意気揚々と買い物をしていた。
「うわー、これがスラム街ですか」
彼女は目を見開いて、楽しそうに笑みを零しながらそんな事を呟く。
「僕も始めてきましたが、案外混んでるんですね」
スラム街と言うから、人は疎らと予想していたが、道が狭い事もあるのだろうがそれなりに賑わっていた。
「どれもこれも高いですね」
「そうですね。これくらいしないと生活費を賄えないのかも知れませんね」
「────そうなのかも知れませんね」
自己犠牲の少女が何を考えていたのかは想像がつく。僕ときっと同じで、似たり寄ったりな考え。
「そ、そんな事より何買いましょうか?」
「そうですね……初めての買い物何ですから、折角なので思い出に残ろ様なものを買いましょう」
僕は元から決めていたことを告げる。彼女へのお詫びも兼ねてるのだ────少しぐらいは奮発しなければならないだろう。
「でも、ここはすべて高いですよ?」
「はい、知っています。それを全て込み込みでここにしたのですから、気を使わなくて大丈夫ですよ」
「ではお言葉に甘えて」
それから二時間ほど数々の店を見て回ったが、彼女はどこでも笑みを絶やさず、僕に笑いかけてきた。買い物と言うものが初めてなのかもしれない────そんな風に思った。
「どうかしました?」
「いや、何でもないです。それより、あっちの方も店があるみたいですよ」
「あっ、本当ですね! 行ってみましょう!」
「はい」
そうして、錆びたトタン屋根が並ぶスラム街を奥へ奥へと進んでいく。
そんな時、ドスンと小さな衝撃をお腹に受け、腹部を見てみると、そこには十代前半、茶色い長髪に凛とした目、少しひきった眉の少女が僕の胸にすっぽり埋まっていた。
「あ、ごめんなさい!」
彼女は小声で謝罪を入れ、背後に立っていた、七歳程度の少年と一緒に走り去ろうとする。
「ちょっと待って」
「な、何でしょうか?」
「どうしてそんな事をするの?」
「何のことでしょうか?」
「分かってるでしょ」
「あ、貴方こそ分かってるんでしょ! 私達はこうするしかないの! これはもう私たちの物なの!」
彼女は右手には、丸く象られた金色のお金が入った風呂敷が握られていた。
「うん、そうだね……それは君たちの物。持って行っていいよ」
「え…………い、言ったからね! 後で返せとか言っても返さないから」
「うん」
彼女はその言葉を置き去りに走り出す。
「すみません。ココさん、買い物できなくなっちゃいました」
「分かってますよ。貴方がそういう人って事も。また、誘って下さいね」
彼女は儚げに笑っていう。
彼女は思う。自己犠牲の少年はやはり、記憶を失っても自己犠牲をしてしまうのか、と────それなら、彼がその道を選ぶなら私は決めていた。
「私はいつでも貴方を待っています」
彼女はまた儚げに笑った。
それから、一文無しになった僕達は帰路につく。狭い道を抜けて、曲がり角をいくつも曲がり、縫うように進む。
「すみません。ここで少し待ってて貰っていいですか?」
「あ、はい。分かりました」
何か忘れ物でもしたのだろうか。
彼女はそんな事を言い残し、元来た道を戻っていった。
狭い通路は鼻をつんざく様な酸っぱい匂いが漂い、家を支えに休もうとしても、トタンで作られた家はサビだらけで縋れば瞬く間に壊れてしまうだろう。仕方なく僕はぽつんと立ってココさんの帰りを待つことにした。
「あれは何だろう」
前方の家。
扉が天色に光に包まれる様になっていた。
最初は興味本位、待つまで暇潰し、そんな感じでドアノブを手に取った。
中に入ると、スラム街には相応しくない紅色で包まれていた。紅色の椅子に、紅色の絨毯、紅色のベッドに紅色の暖炉。
彼女は中央につけられた椅子に腰掛けていた。
「あら、いらっしゃい。面白い子が来たわね」
頬を見透かした様な笑みで満たして彼女は言った────これが魔女との出会い。これが気まぐれな魔女との出会い。
「お客さんなんて久しぶりね」
「あ、失礼しました!」
「待ちなさい。久しぶりのお客さんなの、ちょっと話に付き合ってよ」
「すみません、待ってる人がいるので」
「安心しなさい。その子はまだ来ないわよ」
「それをどうして……」
「ふふっ、貴方の雰囲気よ」
「どういうことでしょうか」
「貴方の雰囲気。それを掘り下げて私は過去を見るの、トラウマを見るの、幸せを見るのよ」
益々、彼女は僕を混乱させる。
「分からないわよね。それも当然、普通の人間には分かりようもない話よ」
「そうですか……」
「そうなのよ」
彼女は手に持ったカップで、紅茶を啜り、一段落するとまた口を開く。
「貴方は残酷な人間ね」
「分かりません。僕には過去の記憶がないので」
「そう。例えばその目」
「この目ですか? 確かに僕は右目がないです。でも、これが残酷な人間の証でしょうか」
「それも残酷な証ではあるのだけれど、そっちじゃないわ。左目の方よ」
予想外だった。確かに人の目と比べて少し青みがかってはいるし、機械じみてはいるが、それでもこれは残酷な物なのだろうか。
「その目を持っている限り、安泰な人生は歩めないわね。王はそれを欲しがるでしょう。商人はそれを盗もうとするでしょう。その目はそんな物なのよ」
「この目がですか?」
「そう、その目がよ。貴方は記憶を失っているから分からないでしょうけれど、過去のあなたはそれを自覚していた。それでも尚、それを取ったのだから残酷以外の何者でもないのよ」
「そうなんですかね」
「そうなのよ」
「気に入ったわ」
彼女はそう言って頬を吊り上げる。
「さて、そろそろね。行きなさい。ふふっ、また会いましょう」
彼女は話し終わるまで始終笑っていた。彼女が何者なのかは分からない。分かりたくない気もする。
『また会いましょう』彼女のその言葉が妙に生々しく感じれた。
「お待たせしました! では行きましょうか」
帰ってきた彼女は妙に笑顔だった。何をしていたのだろうか。
「ですね」
再び、もう一度帰路につく。
ついた家はどこか懐かしく感じ、あの紅色の部屋でどこか感覚がおかしくなった様だ。
「お花畑があったんです!」
「スラム街にですか?」
「はい!」
「そこで、お花を積んできました!」
「これで家が華やかになります」
「そうですね」
これが気まぐれな魔女の仕業とは気付かない。全てが全て運命の様に繋がっている事も気付かない。
「また行きましょう」
「はい」