迷子だったモノは子猫ではなく配役だった、と母猫が鳴いた。
もし私があの子だったらどう感じるだろう、とフィールは思った。住宅地の路地にうずくまっていたのは赤べそをかいた女の子だった。フィールは彼女の肩に手を置いて言った。「ダイジョウブか? どうした?」
女の子は何も答えず、ただひくひくと鼻と喉を鳴らし、子犬のように体を震わすだけだった。どうもとんでもなく酷い目にあったらしいことは分かった。そのとき、向こうから三人の少年がいたずらな笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。「あんたたちがやったの?」とフィールは開口一番に力強くうなって言った。彼らはピクリとも怯まなかった。「ああ。今日は天気が良かった。だからだと思うんだ。俺たちいつもより調子が良くて、なんでも力づくでできそうな気がしたんだ。だがな。そこでピンときたわけよ。力だけじゃどでかいことやらかすのにずいぶんと心細いってことに。そうしたら、うちの馬鹿な野郎の一人が言ったわけさ。『あそこに丁度いい良さげな服を着ている子がいるぜ。あの服、売ったら俺たちの心細さを埋めることができるんじゃねえかあ』っていう具合によ」フィールはすぐに携帯を取り出すと警察を呼んだ。三人のうちの一人が言った。「あっ! あの女どこに電話かけてやがる。くそったれ! あとで絶対殺してやる」フィールが携帯を閉じるときには三人ともその場から消えていた。「ほら。もうあいつらどこかに行ったよ。立てる?」フィールは彼女の顔を覗き込んだ。服をはぎ取られ、下着姿であっては彼女もさんざんな思いをしているのだろうとフィールは思った。彼女は目じりに涙を浮かべ、その瞳は異常に拡大しかすかに揺れていた。「どうしてこんな目に…」フィールには彼女がそう言ったように聞こえたが、どんな言葉を返せばいいか分からなかった。
「はやく病院に行こう」「どうしてこんな目に…」フィールは違和感を覚えた。「きっと大丈夫だ!」「どうしてこんな目に…」彼女は散瞳状態にあるので、応急処置が必要なのだ。そのためにも強引に彼女を引っ張っていくことは許されるだろう、とフィールは思った。「ごめん。腕、引っ張るよ」「どうしてこんな目に…」彼女はまるで杭で打ち付けられたようにその場から一ミリも動かなかった。フィールは彼女の目を覗き込んだ。やはりひどく瞳の黒が大きかった。どうしてこんな目に…。彼女の吐く暗示の言葉にフィールは辟易してきた。「お願い。つらいかもしれないけど、病院に行かないと、手遅れになる。少しでいいから我慢して。お願いだから立ち上がって。な?」フィールは急激に体が重くなるのを感じた。機械の軋む音が耳をうったとき、倒れていたはずの彼女はいなくなっていた。三人の少年と同じようにその場から消えていた。ただ彼ら少年たちと違って忽然とした消え方だった。「すみません。警察のものですが…」フィールは頭の中が混乱したまま、警察に向き直った。口はぽかんと空いたままの間抜けな顔だった。「もしかして、私たちに通報をよこした人ですか? それとも…」フィールは答えた。「通報したものです。さっきまでそこに女の子が倒れていたんです。本当なんです。でも、急に姿が消えちゃって。嘘は言ってません。私は私が信じられません…さっきまでいたはずなのに」警察は唸り、帽子の位置を何度も変えながら言った。「それで、その女の子というのはどこにいるんですか? 見当たりませんが」フィールは恥ずかしさを隠しながら早口に言った。「やっぱりいいです。すみません、お忙しい中、変な電話をしてしまって。どうやら私の見間違いだったようです。本当に申し訳ありません」
「そうですか。では、また何かありましたら電話ください。本当にあなたの見間違いであることを祈っときますよ。何もないのが一番いいんです。別に間違って通報してしまっても気にしないでください」
警察はそのまま帰って行った。私は迷子の子猫。そして犬のお巡りさんはこいつ。フィールは考えるのがしんどくなったので、家に帰って寝ようと思った。
迷子の迷子のフィールちゃん。あなたのおうちはどこですか? おうちを聞いてもわからない。名前を聞いてもわからない。にゃんにゃんにゃんにゃん。にゃんにゃんにゃんにゃん。泣いてばかりいるフィールちゃん…。
うとうとする。フィールは寝床に倒れこみ、犬のお巡りさんのぐるぐるする思考の渦に囚われながら眠りについた。カラスに聞いてもわからない。すずめに聞いてもわからない。
目が覚めると、いち早く気づいた。家具調度の一切おかれていない寝室だったので、はっきりと見分けがついた。ベッドの柱にかけてあった丸い手鏡がフィールを吸い寄せた。よろよろと歩きつつ、ここが自分の部屋ではないと次第に確信がついてきた。
鏡に映る女性の髪は赤茶色のロングヘア? まさか。私の髪は真っ黒なショートのはずなのに。扉にノックが響き、知らない女性が入ってきた。表情の固い彼女はすぐにでも立腹する剣幕でフィールを睨みつけた。「いつまでそこにいるつもり? 今日は学校じゃないの? 早く準備なさい! お母さんを困らせないで」赤の他人のあまりの感情の高ぶりにフィールは頭がくらくらして、足をとられ、倒れそうになった。女性は部屋から出て行った。
「なにが起こっているんだ?」自分の出した声は、やはりいつもと違う。次に入ってきたのは男性だった。女性と同じ年に見えた。男性はフィールの頬を唐突にぶつと、そのまま何も言うことなく出て行った。また扉が開き、入ってきたのは私と同い年だと思われる男性だった。やばい。またぶたれる。
フィールはとっさに頭をかがめて膝を強く床に打ち付けた。頭上を彼の拳が飛んでいくのがわかった。「おまえに避ける権利なんてないんだ。素直にぶたれておけ! くそったれ! おまえが早く登校しないせいでおれがぶたれることになるんだ。とっとと消え失せろ!」
醜悪に顔をゆがめた彼の形相は鬼そのものだった。彼は自分がかわいくてたまらないんだ。彼は自分が傷つくのがたまらなく嫌なんだ。彼はとても危険な人なんだ。フィールは悪寒が走るのを感じた。扉を開き、廊下に出ると、たくさんの宝石や装飾品で囲われた棚と固定電話が目に入った。
フィールは裸足を気にもかけずに外に飛び出した。
私の頭はおかしくなってしまったんだとフィールは思った。
見たこともない世界に足を踏みいれた気持ちだった。
「シンクちゃん!」ロビーに行くと、マンションの管理人が声をかけてきた。「シンクちゃん。どうしたの? 裸足じゃないの。ほっぺたが赤く腫れあがってる。またぶたれたのかい?」
「管理人さん…」そこで言葉につまった。シンクという人間は一体どういった人間なのだ。フィールとして振舞っていいのかなと思った。「どうしたの?」と不安げに眉をひそめる管理人のおじいちゃん。
「私はシンクなのか?」
「本当に大丈夫かい? 自分が誰なのか分からなくなるくらい酷いことをされたのかい?」
「ごめん。変なこと聞いて。大丈夫だから心配しないで。私がロビーを通ったことは両親に内緒だ」もうすぐシンクの両親が来る予感がした。私は焦り気味にぺたぺたとマンションを離れようと走り始めた。
雨は冷たく、私の混乱して慌てふためく思考を冷やしていく。今は小雨だがもうじき豪雨になりそう。これはきっと神様からの悪い兆候の報せだ。
「悪いことを報せにくる神様はいらない。それよりも今、私が陥っている状況を説明しろ!」シンクという人間が寝巻にジャージを着ていることは幸いで、街中を歩いても刺すような視線を浴びなかった。私は見知った町に来たことに気が付いた。三人の少年が「殺してやる」と叫んで逃げた場所だった。倒れていた女の子に私が手を差し伸べた場所が見えた。「どうしてこんな目に…」懐から手のひらサイズの手鏡を取り出し、覗き込むとそこに映っていたのはフィールが手を差し伸べたあのときの女の子だった。
「嘘。なんで? こんなことありえない」私はシンクという人間と入れ替わったの?
まさか! そんなことありえない。もしくはフィールという人間はもとより存在しなかった?
三人の少年が目に見えるところまで近づいていた。「またおまえか…シンクちゃん」
「あんたたちこそ、どうしてまたここにいるんだ」私は今まで絶えず感じていた動揺を隠し、少年たちと対峙した。
「ここは俺たちの縄張りなんだよ。そんなことをわざわざ教えなくても、知っているんだろう? どうして今日はやけに弱腰じゃないか。おれたちを成敗しにきたつもりなら、もっと激しくなれよ。そんな冷めた顔してるとケガするぜ」少年たちは何の前触れなく殴りかかってきた。しかし、目つきは怪しく、とても攻撃的な態度を見せてはいたので私は難なくトップの少年が放った拳を避けることができた。
違う。シンクの体はフィールの体と比較してしなやかな筋肉を持ち、非常に軽いのだ。何よりもびっくりするような瞬発力を持っていたので、体を動かしながら考えることができた。飛んできた拳を引っ張ると、少年は後方に吹っ飛んでいった。躊躇う必要はあったのか? 体は勝手に動いていくのだ。私は油断して、心の中で高笑いをしていた。
この体は私の体ではないのだから。何をしようと責任を負わねばならないのはシンクなのだ。「死ね」とシンクは叫んでいた。彼の頭を容赦なく踏みつぶそうとしたとき、横腹にもう一人の少年の頭が飛んできた。タックルしてきた少年を受け止めきれず、私は倒れたのだと思う。ぐらぐらする視界の中で三人の少年が私の服を脱がしていた。スースーするの? 大丈夫かなあ? そして、嘲笑。
横腹にあざができているのが分かったし、体中に生々しい傷があるのが見れた。いつも漫画しか読まず、ゴロゴロと余暇を過ごすフィールのだらしない体とは別人だった。「どうしてこんな目に…」と私は言った。そのとき、女性のはかない声が耳朶をうった。
「あななたたち、何をしているの? 早くその子から離れなさい。さもないと警察を呼ぶわよ!」力のこもっていない弱々しい一声が私を助けた。
「くそっ! またあの女か。警察が来るまでお前をいたぶってやってもいいんだが、今日は調子が悪いようだ。これは一雨くるぜ。しかし、二度あることが三度あると思うな。今度あったとき、三人だけじゃない。もっと大人数でめっためたに嬲ってやる。おまえの顔は覚えたからな、黒髪ショート」私は自分に向かって言われたように感じた。私は痛みを我慢しながらめげずに叫び返した。
「それはこっちのセリフだ。今度会ったらその頭、叩き割ってやる」少年たちは帰っていった。
「シンクは強いんだね。なら大丈夫だよね」倒れた私に近づき、話しかけてきたのは以前の私の顔だ。フィールだった。
「私はもう嫌になったの。私は弱者の味方の責任感の重さに耐えられなかった。家族が夜遊びする私を疫病神あつかいすることに耐えられなかった。私は彼らに立ち向かう強さを持っていなかった。私はシンクという人間に求められるすべてが嫌になったの。私はシンクにふさわしくなかったから、フィールが羨ましくて。フィールと代わりたかったの。ね? シンクは強いんだから代わっても文句はないんだよね?」
「私はシンクじゃない。私はフィールだ。ずっとフィールとして暮らしてきたんだ。返してくれ。私の体を。それは私の全部なんだ。でないと私は私でなくなってしまう…。私がこれまでしてきたことが全て無駄になってしまうじゃないか! 私は一体いままで何をしていたんだ? 嘘だ。私はシンクじゃない。私はシンクじゃない…」
「シンクはこの町のヒーローなの。だから、いつでも弱者の味方。弱者がいじめられているところにシンクは現れる。まるで天使のように。…私は疲れちゃった。もう嫌になった。耐えられない。でも、よかった。いい人が見つかった。きっと今のシンクならこの町の伝説になれる。その強さを持っている」
「これはあなたにしかできない。代わりの人間がいないの。特別なあなたにしかできないことなの」とフィールの仮面を被った女の子は言った。私にしかできないことがあるのか? それは特別なのか?
まるで催眠にかかったようだった。特別になれると知ったときシンクを受け入れた。特別になれるならフィールという名を捨てようと思った。「でも誰も特別にはなれないの。特別に見えるだけ。みんな本質は偽物だから。それは忘れないでね」私は彼女のその言葉を聞いていなかった。
「あ…警察の方ですか? この女性です。さっきまで三人組の少年たちにひどいことをされて…」
「なんてことだ…おい、大丈夫か? 意識は? 警察の人間だ。すぐ救急車を呼ぼう。もう少しの辛抱だ」
「シンク」私の舌は滑らかに動いた。「いや、フィールだ。違う、違うんだ。私はシンクだった。シンクであっている。でも、フィールかもしれない」フィール。その声は震えていた。「この町全部だ。この町すべてが私の家だ」警察は困惑しつつ、シンクが白いタオルを羽織ったのを見届けて救急連絡をした。
「私はシンクだった」私はたったひとつのかけがえのない存在になったに違いない。シンクは喜びに打ち震えていた。
犬のおまわりさんは、子猫さんに色々と問いかけるが全てを無視して彼らたちは思い思いに作品の中を駆け巡っていく。
名前を聞いても、おうちを聞いても誰も知らない。キャラクターとして存在するなら、名前を持っているはずなのに。
犬のおまわりさんは困惑した。自分が彼らに名前をつけていいのかな。おうちを与えてもいいのかな。
作るたびにわんわんと鳴いて、苦悩する。