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かわべの女の子

作者: 金木犀

 同級生の吉田桜が泣いてるところを目撃したのは、幼馴染との初デートを終えた帰りの出来事だった。

 デートは全然楽しくなかった。常に相手の顔色だけ窺ってた気がする。無理に作り笑い何て浮かべたりして。

 無駄に疲れた。

 そんなわけで、初デートを終え、すっかり脱力し、ダラダラと川原の土手を歩いていると、激しい雨が降ってきた。

 慌てて橋の下へ避難すると、

「うおっ」

 驚いて声を上げてしまう。

 川に架かる歩道橋としては、少し大きいくらいの、普段はあまり人が通らない橋の下。

 コンクリートの傾斜部分に、パーカーのフードを深くかぶった女の子が蹲っていたのだ。

 おれの声に気づいたのか、女の子が顔を上げる。

 涙が零れ落ち、鼻水も垂れ流し、赤く腫れあがった目が痛々しい。とにかくひどい泣き顔だった。ひっくと喉から苦しそうな息をこぼすと、すぐにおれから目をそらし、膝に顔を埋めた。


――それこそが吉田桜だった。


 男子生徒を虜にする高嶺の花。

 腰まで届く長い黒髪、いつも微笑みを絶やさない優しい瞳、学年トップの成績。

 そんな人物が、顔をくしゃくしゃにして、泣いていたのだ。

 気にならないわけがない。

 理由を聞きたい。

 でも、そんな他人の心に土足で踏み込むような真似、できるわけがない。

 すぐに立ち去ろうとして、

「あ、悪い。邪魔だよな」

 だが吉田は首を振った。

「雨宿りなんでしょ。別に、いいよ。それより、このこと、誰にも言わないでね」

 釘を刺しつつ、なおもしゃっくりを上げ、泣いていた。

 なんというか、おれが傍にいることを気にする素振りが全く無い。おれを路傍の石とでも思ってるんじゃないか。

 ならいっそ路傍の石になるか! とおれは開き直ることにした。

 それから雨脚が弱くなるまで、川原の景色をただ眺めていたのだが、その時に見た、雨に濡れた桜の花びらとか、捨てられた空き缶とか、柱に書いてあるアートと言う名の落書きとか。何気ない景色なのに、なんでだろう、いつもと違って見えたんだ。

 子供の頬のように可愛らしい色の花びらが、雨に打たれて、水たまりになった地面に落ちて、泥だらけになって、見る影もなくなって、ぐちゃぐちゃになっていく。

 おれはそんな光景をぼんやりと眺めながら、ほうとため息を吐いた。

 空気を吸い込むと、泥臭い土の匂いと、草木の甘い匂いがした。

 心地良くなって目を閉じると、聞こえてくる雨音。川がごうごうと流れる音。

 そして――。

 吉田の泣く声。

 吉田の吐く息。

 吉田が動く音。

 吉田の温度や質感がそこにはあった。

 


――それが、おれと吉田の密会の始まりだった。



 次の日、学校での吉田の様子を見ても、いつもと変わらず、一体あの涙はなんだったんだろう、そんなことを考えていると、隣の席の水無月詩織が『なに見てんだよ』と睨んできた。

「いや、別に」

「別に、じゃないよ。吉田さん綺麗だよね?」

 ショートの前髪をいじりながら、大きな瞳でじっと、こっちを見て微笑んだ。

 目が笑ってないんだけど。怖いんだけど。

「いえ、あの。別にそういうつもりはないんだけど」

「じゃあ、どういうわけなのかな。彼女の前でほかの女の子に見惚れる理由を、しっかりと聞かせていいただきましょうか」

 だからその笑顔怖いんですけど。

 詩織とは生まれた頃からの付き合いなのだが、先日、中三になってすぐ、詩織の方から告白してきた。詩織はかわいいし、性格もいい。どんなことが好みで、どんなことが嫌いなのかもよく知っている。断る要素は何一つないように思えた。

 それなのに。

「なあ、詩織はなんでおれと付き合おうって思ったんだ」

「なんでそんなこと聞くんだよ」

「いや、聞きたくなって」

「誤魔化してるな。なんか、怪しい。吉田さんとなにかあったの?」

「う」

 鋭い。とはいえ、言うわけにはいかない。いくら彼女だからって、約束は約束だからな。

「ただ見てただけだって。それより、さっきの質問、やっぱり答えられないのか」

「ふーん。ま、いっか。別にそんな理由とかあるわけじゃないよ。ただ、好きだな、って思ったから、かな」

「なんだよ、それ」

「わかんないかなこの感覚。ずっと一緒にいて、なんとなく仲良くなって、気が付いたら、あ、私この人好きなんだ、ってなる感じ?」

「なんでそこで疑問形?」

「な、なんか、恥ずかしくなって……。大体そういうのって感覚だろ。理屈じゃないって。それに、昔から一緒にいて、いつの間にかって感じだし。幼馴染で恋人って、そういうの憧れるっていうかって、なに言ってんだ私」

 つまり幼馴染っていう肩書きに憧れてるだけなんじゃないか。

 そんなことを考えていることに気が付いて、はっとする。

 恋人になる前は感じなかった不安。

 それは形のないもので、ゆえになんでそんな気持ちになるのかわからなくて。

 どうすればそれを無くすことができるのか、おれにはわからなかった。


 美術部で適当に絵を描き散らして、帰途に就くと、もう日は暮れ始めていた。ふと、吉田桜がいた橋が見えたので、どうせだから立ち寄ってみようと、なんとなく思った。

 川沿いを歩くと、川のあちこちに青々と草が茂り始めていて、光に染まって変色していた。

 川の流れを赤く染める夕日。

 その光を浴びて影が長く伸び、赤い水面に黒い人影を映し出していた。

 しかし、夕日というのはなんでこんなに胸が寂しくなるような、絞めつけられるような、何かを失う感覚が形となって、輪郭が見えるような、そんな感覚になるのだろう。もしかしたら、太陽が沈むことで、世界は何かを失っているのかもしれない。

 そんな馬鹿なことを考えていると、橋の下にたどり着き、だがそこにはもちろん誰もいなかった。

 当たり前だ。いつも同じ場所にいるわけないじゃないか。

 なんで、おれはここに足を運んでしまったんだろう。別に期待していたわけじゃない、意識していたわけじゃないのに。

 あの時、感動した風景。何も変わってないはずなのに、今はただそこにあるだけで、無機質な何かにしか見えないのは、なんでなんだ。

 目をそらすように水面を見ると、橋の前で立ち尽くした黒い影は、どこまでも不気味で、自分の影ではないようにさえ思えた。




 自分の部屋に着くと、すぐに扉を閉め、ベッドの上に身体を投げ出す。

 しばらく目を閉じ、暗闇に思考を放り投げていると、コンコンとノックする音が聞こえてきた。

「夏、ちょっといい?」

 おれの返事など待つことなく、母親が部屋へと入ってくる。

「今度の土曜日、礼二さんと食事に行こうかと思うんだけど、夏も一緒に行かない?」

 なんでそんなこと聞くんだよ。

「えっと、デートなんでしょ。いいよ、邪魔だろうから」

「馬鹿。そんなこと気にしないの。礼二さんは気にしないし、むしろもっとあんたと仲良くなりたいって言ってくれてるのよ」

 おれの父親になるためだろ。それは、おれに興味があるからじゃない、ただの義務、建前。それなのに、『言ってくれてる』ってなんだよ。おれは、礼二さんに感謝しなきゃいけないのか。なんであんたたちの都合でしかないことを、押し付けて来るんだ。

「……わかったよ。行くよ」

「良かった」

 ほっと、息を吐く母親。それを見て、返事は間違っていなかったのだと失望する。母親はただ単におれが断って、礼二さんの心象が悪くなることを恐れていただけなのだと。おれの気持ちとかそういうことなんか、最初から見てくれてなんかいないし、興味もないのだろう。

「早く結婚すればいいのに。おれは反対なんかしないよ。母さんの好きにすればいいじゃないか」

「夏、あんたね。ませたこと言っちゃって。タイミングとかいろいろあんのよ、こういうのは」

 ポカリと頭を叩いてくる。ああ、うざい。

「でも、そうね。私が礼二さんと結婚しても、あんたの父親は変わらないのよ。礼二さんともそりゃあ、仲良くなってほしいけれど、でも、あんたは気兼ねなく前の旦那、お父さんのとこに会いに行ってもいいんだからね」

 優し気に語る母親の言葉を黙ってうなずく。

 そんな言葉に、吐き気が止まらない。

 馬鹿じゃないかと思った。おれがそんなことを悩んでいるとでも思っているのかと。

 頭ではわかってる。母親は何も悪くなんかない。ちゃんと気遣ってもくれているのもわかる。だけど、なんでこんなに、おれの心はぐちゃぐちゃなんだ。

 おれは自分の心が何一つわからない。自分のことなのに、自分がわからない。

 そんなおれを、誰がわかってくれるんだろうか。

 目を瞑り、消えたいと、ただ願った。



 桜が散って、あっという間に梅雨になっても、何一つ変わらない退屈な日常は今日も変わらず、生きていくことの息苦しさだけが重く深く、身体を蝕んでいくみたいで、もしもこんな気分が一生続くのだとしたら、今この瞬間に死にたいな、なんてことを考えていた。

「ねえ、なんであんな絵を描いたんだよ?」

 雨が降り続いて、泥と水溜りばかりのグラウンドをぼうっと見ていたおれに、詩織が話しかけてきた。

「そりゃー、描きたかったからだけど?」

「校内発表会のテーマって、夢だよね。なのに、なんであんな絵描くかな」

 校内発表会のイメージとなる絵を描くことになって、おれは吉田桜と会った、あの橋の下での光景を絵にしてみたのだ。夢とか、そういうことはすっぽり抜け落ちていて、ただあの時の感情はなんだったのか、それだけを知りたいと願って描いた絵だった。選ばれるはずがないのは当然だろう。

「いいじゃん。描きたかっただけなんだからさ」

「夏は、絵うまいんだから、テーマに合わせれば絶対選ばれるのに」

 自分のことのように悔しがる詩織。おれは肩を竦め、

「絵がうまいかへたかどうかで、絵を描いてるわけじゃないからさ。誰に選ばれるかどうかなんて興味もない。ただ、あれはおれの中で、失敗作なんだよ。あれを見ても、おれはなんにも感じない。描けば、感じれるのかと思ったけど、そんなことなかった。だから、失敗なんだよ、あれは」

「ふーん。夏は時々、難しいこと言うな。あの絵を通して何を感じればいいのか私にはわかんないや。でも、ああ、もったいないな。ほんと、うまいのに、夏は」

 なおも悔しそうな表情を浮かべる詩織。

 そんな詩織が可愛いなと思う。それなのに、なんでおれはこんなに不安になるのだろう。

 何も壊したくなんかないはずなのに、何かをいつも失う予感があって。

 何かを壊したくなってくる。そんな感覚が怖い。

 ふと、視線を感じた。

 頬を撫でるような視線を探ると、それをいち早く感じ取ったのだろう、吉田桜がついと黒板の方へと目をそらした。

 なんだ。

 今、見られてたよな。

 そんなことを思うが、詩織に気付かれてもまずいから、気付かないふりをした。




 放課後。ひんやりと冷えた空気に、無数の雨粒の傘を打ちつける音が響く。零れ落ちる水滴を見ていると、痛々しい心臓の鼓動も少しは和らぐような気がして、静かにほっと息を吐く。

 そんな帰り道、橋の下へと何となく立ち寄った。

 だから、そこに吉田桜が立っていたことは、偶然でしかない。

「偶然だね。でも、なんでだろう。全然そんな気がしない。きっと、そんな気がしてたのかもしれない。貴方が来るのを、期待してたのかな」

 吉田桜はゆっくりと息を吐きながら、じっとおれを見た。

「へ?」

「絵、見た。あれって、あの時の事を絵にしたのかと思ったんだけど、違ったかな」

「なんか意外だな。あの時のこと、触れてほしくないのかと思った」

「ふふふ、本当に、誰にも言ってないみたいだね。実は少し疑ってた」

 そう言って、吉田桜は黄色い水玉模様の傘を地面にトントンと打ち付けた。

「でも、すごいね。絵、すごくうまいんだね、夏君って」

「あれは、おれの中では失敗作なんだけどな」

「そんなことないよ。あの水溜りに落ちた桜の花びらとか、雨の落ちる感触とか、そういうの、伝わってくるし、光の感じとか、色遣いとか、そういうの、すっごく素敵だなって思ったよ。たぶん、あの時、私もこんな感じで世界を見てたなって、共感したからかも」

 何気なく吐き出される言葉、呼吸、少し濡れた髪、制服、傘をトントンと打ち付けるリズム、吉田桜から香る甘い匂い。

 ああ、なんだろう。すごく落ち着く。

「そ、そうか」

 詩織の言葉より、はるかにうれしいと思った。

「ねえ、そんなとこで立ってないで、一緒に雨宿りしようよ」

 吉田桜は微笑みを浮かべ、傘で自分の隣に来るようトントンと地面に打ち付け、促した。

「雨宿りって、おれもおまえも傘あるんだけどな」

「ははは、そうだね。でも傘なんて、要らないよ」

 そう言うと、吉田桜は自分の傘を無造作に捨て置き、おれの傘を奪い取った。

「おい、何するんだよ」

「一緒に濡れよう!」

 傘をばっと、空中に放り投げる。風にあおられて、そのまま傘は川の中へと落ちた。

 数日降った雨の影響だろう、川の水は濁流と化していて、ドブンドブンと音を立てながら、激しくうねっていた。傘は見る間に川の流れに消えていった。

「や、やっちゃった」

「おい、なにしてくれてんだ」

「ご、ごめん」

 少し情けない声を出したあと、開き直るように、

「でも、こうやってたまには雨に濡れるのも気持ちがいいものだよね」

 曇天の空を仰ぎ、気持ちよさそうに目を瞑る吉田桜。

 そんな姿に、おれも空を仰いだ。

 雲は厚く、薄暗い世界の中、かすかな光と雨粒が空から落ちてくる。

 目を閉じ、耳を澄まし、匂いを嗅ぎ、雨粒を肌で感じ、深呼吸をすると、心臓がトクンと静かな音を立てた。

 少し心臓がむずむずして、心地よい痛みが走るような、なんとも言えない感覚。

「ねえ、夏君」

 不意に、ぎゅっと、背中に柔らかいものが当てられ、抱きしめられた。


「私と、しない?」


 一瞬、何のことを言っているのかわからなかった。

「夏君は、もう、彼女と、詩織さんと、こういうことしてるんでしょ」

「こういうことって、なんのことだよ」

 ゴクリと、唾をのみ、返す。

「私を温めてよ」

 なんと返せばいいのかわからない。でも脳裏には詩織が思い浮かんだ。詩織を悲しませたくはないなと、思った。

 だから、おれは断ろうと、吉田桜を引きはがそうとして、

「お前、なんで、震えてるんだよ」

「え……?」

 吉田桜の手が震えていた。

「寒い、からかな。雨に濡れたからだよ、きっと」

「……」

 脳裏に浮かんだ詩織の悲しそうな顔を、吉田桜の冷たい手、背中に当たる柔らかな感触と体温、吐息がかき消した。

 下半身に熱が帯びる。

 それを必死で振り払うため、吉田桜の手を解き、

「おれには彼女がいるんだよ」

「知ってるよ。でもね、私って汚れてるから。心も体も。だからね、あなたを汚したいみたい。どろどろになりたい。この雨や川や土みたいに、すべて一緒になってぐちゃぐちゃになって溶け合えば、それって美しいことだって、そう思わない」

 長い黒髪を濡らす雨、濡れた制服、頬を伝う雫。

 その姿は捨てられた子猫みたいで。

 誰かを呼ぶ鳴き声が聞こえた気がした。

 それでも、脳裏には詩織の顔が浮かんで、実感する。やはりおれにとって詩織という存在は大きいんだと。だけど目の前で泣く吉田桜を放っておくことも出来なくて。

 おれはせめて、吉田桜を抱きしめることにした。いや、抱きしめたかった。

「これで、いいだろ?」

 吉田桜の熱い涙がおれの制服を濡らす感触。鼻を埋めた吉田桜の髪から、吉田桜の匂いが鼻孔いっぱいに溢れる。

「ねえ、夏君。私ね……」

 吉田桜は、あふれる涙と一緒にこぼした。

「私ね、お兄ちゃんとセックスしてるんだ」

 おれは何も言えず、ただ抱きしめた。深海に沈むように、落ちていくように、ただ抱きしめた。



 翌日、学校に登校して教室の扉を開けると、騒がしかった声が、ピタリとやんだ。

 おれが席に着くと、チラチラとクラスメイトが見て来る。

 疑問に思ったおれを、詩織が何か聞きたそうに見てきたので、訊いてみる。

「なんだよ?」

「……あのさ。ううん、なんでもない」

 詩織は言葉を濁し、昨日のテレビの話を始めた。

 おれはそれに相槌を打ちながら、自分の席に座る吉田桜を見た。

 吉田桜は昨日あったことなど忘れたように、いつもと変わらない様子だ。

「……夏」

「うん?」

「浮気、してないよね」

 消えそうな声。冷水をいきなり浴びせられたような心地で、詩織を見ると、

「昨日ね、夏らしき人が、誰かと抱き合ってるとこ見た人がいるんだ。雨の日で、夏かどうかはわからないんだけど、それでも似てたって言ってて。ねえ、夏じゃ、ないよね」

 詩織は、真っ直ぐにおれの瞳を見ていた。

 おれは、

「違うよ」

 それだけ言うのに、精一杯だった。他に言い訳をしなければいけないのはわかっていても。

「そう……だよね」

 詩織は、不安に思いながらも、それ以上は追及することができないようだった。

 嘘をついてしまった。浮気はしていないけど。だけどおれは……。


「よっ」

 放課後、橋の奥の方で、最初の時みたいに膝を抱えて待っていた吉田桜がニコリと笑いながら言った。相変わらず、雨は降り続いていて、川の流れは昨日より激しくなっていた。

「来ないかと思った」

「やめるべきだとは、思ったんだけどな」

 ため息を吐くおれに、

「私の事、心配だったんだ」

「心配なんてしてない。ただ、おれが来たかっただけだ」

「ふーん」

 にやにやと笑いながら、

「じゃあ、はい!」

 吉田桜は両手を広げ、催促した。

「はいって、おまえ」

「いいじゃん。えっちはしないんだから。浮気にはならないよ」

「本当にそう思うか?」

「私が彼女だったら、絶対許さないけど」

 ズバリと笑えないことを平気で言ってくる。

「だよなあ。おれって最低だよな」

「最低だね」

 ニコリと吉田桜は笑い、

「ん」

 ともう一度催促してきた。

「なんの真似だ」

「わかってるくせに」

 笑みを崩さず、いやさらに満面の笑みで言ってくる。なまじ、美人なだけあってその笑顔の破壊力は抜群だ。ポケモンなら『こうかはばつくんだ』と表示されるくらい効果的な攻撃だった。

 おれはコホンと、一度心を整え、決して情欲に負けぬよう強い精神力で耐えねばならないと決意し、吉田桜を抱きしめた。

「ふふ、いいね。これ」

「なんなんだよ、これ」

「なんならセックスしてもいいんだよ?」

「しねーよ」

 とんでもない言葉が平気で飛び出してくるが、吉田桜の普段の振る舞いからすれば信じられない事だった。

「おまえ、普段、猫被ってるのか」

「どうかな。被ってるのは、逆に、夏君の前だけかもよ」

「な」

 思わぬ攻撃。

「あははは、すごい。鼓動が激しくなった。抱き合ってると、動揺してるの丸わかりだね。あ、でも顔も真っ赤だし、抱き合ってなくてもわかるか。でも、すごいなー。私の言葉一つでこんなに心臓は大きい音を立てるんだね」

「ったく」

「本当の私なんて、私にもわからないよ。だって、夏君とこうしてるのは理屈なんかじゃないんだから」

 そんな吉田桜の言葉を素直にすごいなと思う。

「そうだよな。おれも、なんでこんなことしてるのかなんて、わかんねーや。そんなもんだよな」

 もやのようにわかりにくい感情の輪郭が、その言葉ではっきりした気がする。

「夏君って、ほんと不思議だね。私はずっとこうしてたいな」

 そう言う吉田桜の声は本当に心地よさそうで、今にも眠ってしまいそうだ。

 ふと、生温く湿った風が橋の下を通り抜けた。

 梅雨の終わりが近づいて、夏の始まりを予感させるその風に、今年の夏は暑くなりそうだなとなんとなく思った。



 雨が降る日は、吉田桜との密会の日になった。

 理由は、

「雨になるとね、お兄ちゃんが求めて来るから」

 というものだった。

「拒否できないのか」

「しなきゃいけないのは、わかってるんだけどね」

 吉田桜は言葉を濁し、

「ねえ、異常な関係って、異常から始まると思う?」

 おれの肩に寄り掛かりながら、囁いた。

「私の場合は、異常だからじゃなかったよ。私とお兄ちゃんはどこにでもいる兄妹だったと思う。ただ、両親が共働きで、いつも家に居なくて、だから私にとってお兄ちゃんは両親より身近な存在で、いつも遊んでくれるのはお兄ちゃんで……。セックスする関係になったきっかけはお兄ちゃんからだったけど、それでも、その時の私は何の疑いもなくそれを受け入れた。気が付いたら異常だった。私とお兄ちゃんが異常な関係だと気づいたときには、もうすでに取返しがつかなくなってたんだよ」

 それでも、異常だとわかったのなら、やめるべきだと思う。だけど、それをはっきり伝えるべきなんだろうか。

「苦しいんだろ? なら、拒否したらどうだ」

「そうだね。でも、できないよ。頭がね、『しなきゃ』って思うのに、『お兄ちゃんだけが悪いわけじゃない』っていうのと、『拒否したら、お兄ちゃんはどうなるんだろう』っていうのがごっちゃになるの。で、してる時は頭が麻痺して、なにも考えなくて済むから……。でも、終わった後、すごく『自分は汚れてる』っていう感覚がこみあげてきて、吐き気がして、いつも海の底でおぼれているような感じになる。苦しいの。でも、拒否なんて、できないよ。なんでだろ、できないんだよ」

 苦しそうに吐き出す言葉。

「親には、言えないのか」

「そんなことして、どうなるっていうの。お兄ちゃんも私も、きっとお父さんやお母さんから変な目で見られるよ。みんな傷つく。お兄ちゃんは『変態』で、私も『変態』で、異常で、なんでそんなことしたんだって責められて、そうなったのは『自分たちのせい』だって言い出して離婚するかもしれない。そう思ったら、言えない。言えないんだよ」

「ふーん……」

「なに、難しい顔してるの? 私はね、あなたに何かしてほしくて話してるんじゃないの。むしろ、何かしようとされるの、嫌なんだ。わかるかな」

「……いや、まあ。わかるけど」

 関係のない人間に首を突っ込んで来られるのは、おれもムカつく。ドラマや漫画や小説ならある話なんだろうが、そういうのはかえってややこしくなるだけで、実際は何も解決なんかしない。解決した気になってるだけだ。

「私はね、誰かに憐れまれたくなんかない。誰かに気持ちを理解してほしいだなんて思ってなんかない。助けてほしいだなんて思ってないんだよ。ただ、私は、私がどうすればいいのか、それを知りたいだけ。私は、どうしたらいいのか、どうしたいのか。それを、決めたいのに、決められないことが苦しいんだよ」

 ああ、そうか。おれも、同じなのかもしれない。

 親の離婚や再婚なんて、この世界に腐るほどあるありきたりな事で、それ自体は特別じゃなくて、どうすればいいのかもわかってるけど。おれは、おれがそれに対して、どう思って、どうしたいと思っているのか。本当は、わかってないから、苦しいのかもしれない。

「なんて、言って。心のどっかでは、誰かに助けてほしいと思ってたりするんだけどね」

 舌をペロッと出して、片目を閉じる吉田桜の仕草が、妙に心地良かった。


 雨の日になって、吉田桜と会って、抱きしめて、寄り添いながら、時々、吉田桜は歌を歌った。カーペンターズの『Rainy Days And Mondays』。

「歌、うまいな」

「そう? 歌うのは好きなんだ」

 吉田桜の声は、静かにしみこむ雨のような包容力があって、余韻が残る。派手さはないけど、何度でも聞きたくなる。

「その歌、好きなのか?」

「そうだね。雨になると歌いたくなるかな」

「歌手になれるんじゃないか」

「お世辞は嫌いなんだけど」

「いや、お前ならなれるんじゃないかって、思ったんだが」

「ふーん。本気にしちゃおっかな」

「本気にして、歌手になれなくても、おれのせいにしないなら」

「無責任。男らしくないな。女々しいよ、夏君。男なら、なれなかったらおれの嫁にしてやる! ぐらいのこと言えないの」

「何とでも言え」

「でも、歌手になるって、具体的にはどうすればいいの? やっぱ、オーディションとか?」

「知らん」

「持ち込みとか、駅前とかで歌うとか?」

「全部やってみればいいんじゃないか」

「うーん」

 吉田桜はしばらく唸った後、はむっ、といきなりおれの耳を甘噛みした。

「な、な、な!」

「よし、じゃあ、あれだね。私がデビューしたら、アルバムジャケットは夏君のあの絵にするってことで、良い? あれ、気に入ってるんだ、私」

「デビュー出来たら、な。で、なんでおれの耳をかじったんだ?」

「なんとなくだけど?」

「なんとなくで、おれの耳を噛むな!」

「結構おいしかったから、またするかも」

 小悪魔な笑みを浮かべ、また歌う吉田桜の声が、雨と橋の下の景色さえ変えるようで、きっとこの瞬間の吉田桜の歌声は、今見ている景色と一緒になって瞼の裏に焼き付いて、一生忘れないような気がした。


 夏休みになると、雨よりも晴れの方が多くなって、降ってもすぐ止むようなものばかりだから、自然とあの橋の下へと行く機会は少なくなった。

「ねえ、今度の日曜日、遊びに行こうよ。もうすぐ夏休みも終わるし、遊ばないのはもったいないと思わない?」

 ウインドウショッピングに付き合って、着せ替え人形になった詩織へ『良いんじゃない』とか『かわいい』とか返事した後、手を繋ぎながら家に帰ろうとした時、詩織は少し照れながら、そっぽを向いて誘ってきた。

「あぁ、悪い。えっと……、その日は、だめなんだ」

「え、なんで?」

 あからさまに不機嫌な顔を浮かべる詩織に、言葉が足りなかったな、と付け加える。

「いや、そんな顔するなって。あれだよ、その日、久しぶりに父さんと会うんだ」

「あ、そうなんだ」

 詩織は少し声のトーンを下げ、

「でも、その後とか、会おうよ。嫌なら、いいけどさ。お父さんと会って、時間あったら、電話してよ、ね?」

 気を取り直し、努めて明るい語調で、詩織は優しく微笑む。そんな詩織の優しさが、橋の下で別の女の子と密会している罪悪感を刺激する。肉体関係はないとしても、やってることは誤解されても仕方ないことだということはわかっているのだ。それでも、おれはあの場所に行くことをやめる気はなかった。

 あの橋の下は、おれにとって大事な時間を過ごせる場所だと感じているから。


 久しぶりに会った父さんの顔は、後ろの髪に白い毛が少し目立つようになったぐらいで、あとは何一つ変わらない様子だった。

「大きくなったな」

「またそれかよ」

「いやあ、子供ってのは少し見ないだけで、ずいぶん変わるもんだな。身長なんかもうおれより高いんじゃないか」

「それ、前会った時も言ってたからな」

「うん、そうだったか? いやあ、こりゃあ、いかんな」

 誤魔化して笑う父さんの困った顔。少ししゃがれた声、額の深い皺、くしゃくしゃと髪の毛を掻く癖。話題らしい話題がみつからず、父さんは、手持無沙汰に煙草の箱を取り出して、吸い出した。

 親子二人、半年ぶりの再会。聞こえはいいけど、何か話す話題があるわけでもないし、ひどく退屈な時間ではあった。

 それでも、おれはこの時間を無駄だとは思わない。

 嫌ではないのだ。この退屈な、いつもと同じ会話を繰り返す、この男と居る時間は、不思議と心地よくすらあった。母さんと一緒にいても、窮屈な気持ちにしかならないというのに、距離は離れたはずの父親の方が心地よく感じれるっていうのは皮肉な話だと思う。

 改めて煙草を吹かす父さんを見ると父さんのお腹はぽっこりとしていて、前会った時よりも、太った気がする。特に顎付近なんか、二重どころか三重になりそうな勢いだ。かっこ悪いな、おれもあんな風になるのか、なりたくないなとか、思いながら、プカプカ吹かす煙を追って、窓の外を見る。

 青天を覆い隠す大きい雲が、山の向こうから来るのが見えた。すぐに雨が降りそうだった。雨が降ったら、橋の下には吉田桜が座って待っているんだろうか。でも、今日はいけないな。詩織に電話しないと。

 ぼんやりとしていると、父さんが、コホンと一度咳をした。

「詩織ちゃんとはうまく行ってるのか?」

「まあ、それなりに」

「詩織ちゃんはいい子なんだから、大事にしないといけないぞ」

「言われなくても、わかってるよ、そんなの」

 明らかに何かを打ち明けようとして、ためらっているような雰囲気だ。さっさと言えばいいのに。

「なんだよ。言いたいことがあるなら言えよ」

「あーいやな。実はな」

 父さんは少し、背筋を伸ばし、表情を引き締め、


「父さん、今度、再婚するんだ」

 静かに告げた。


 緊張した面持ちで、おれの反応をうかがっているのがわかる。

 だから、おれは即座に笑って返した。

 冗談を飛ばしながら、満面の笑みを浮かべて、父さんを祝福することにしたのだ。

 だけど、本当は。

 おれは、特に、何も思わなかったのだ。

 そう、何も、思わなかった。

――だって、それは、おれには関係のないことだから。おれがどう思うとか、どうでもいいことなんだ。


 死ねよ。



 土砂降りの雨の中、おれは傘も差さず、ずぶ濡れのまま、橋の下を潜った。

「あ」

 声がした。

 最初見た時みたいに、パーカーを深くかぶって、アスファルトの傾斜部分に体育座りした吉田桜が、まるで当たり前のようにそこに座っていた。

 ニヤリと笑って、

「やあ、て、どうしたの」

 おれを見て、慌てて立ち上がった。

「なんでもない。あれだ。傘持ってこなくてな」

「ふーん……」

 吉田桜は、ぐるりとおれの周囲を回った後、

「なんか、あからさまに、『おれ落ち込んでますオーラ』が漂ってるよね。慰められたいのかな? かな?」

「っ……!」

 おれは我慢ができず、吉田桜を抱きしめていた。それは、いつもの抱きしめ方とは何もかも違っていて。いつもは、軽く抱きとめる、くらいなもんだけど。今はただ、衝動のまま、目の前の温もりがほしくて。ただ、その温もりがほしくて。

「ちょっと、い、痛いよ、夏君」

「悪い」

「悪いって思ってるのに、止めないんだね」

「ああ」

「はあ、全く。しょうがないな。お姉さんが、何とかしてあげますかって、ちょっと」

 戸惑う声を上げる吉田桜を無視し、おれは吉田桜の胸を揉みしだいた。興奮する。頭が、カッと熱くなって、その熱が下半身に伝導して、固くなっていく。

 だけど、まだ足りない。

 その温もりがもっとほしい。

 今はとにかく、何もかも忘れて、汚れて、ぐちゃぐちゃになりたい。

 そうすればきっと、今よりましな気分になるはずなんだ。

 おれは何も考えず、欲求に従った。本当は、ずっとこうしたかったんだ。我慢していただけだ。かわいい女の子と密着して、『こいつヤレそうかな』と脳裏に何度もかすめてた、最低の愚図、それがおれだ。今は、それを解き放ったらどうなるのか知りたくて。

「ちょっと、なんで……、やめてよ」

「だめか」

 短く問いかけたが、それは肯定してほしいという身勝手な押し付けで、行為をやめることはせず、もっと欲しいと、吉田桜の顎を持ち上げて、そのままキスしようと、

「やめて!」

 パシン!

 音がして、何が起こったのか。

 頬に手を当て、ようやく自分が吉田桜に叩かれたのだと気づく。


「だめだよ、夏君。何があったのか知らないけど。自暴自棄になっちゃだめだよ。夏君は、汚れちゃ、だめなんだよ。私みたいに、なっちゃ、だめなんだよ」


 肩で息をして、涙目になって、長い髪を振り乱して、だけど、目はどこまでも真っ直ぐ綺麗に澄んで、それでいて悲しそうで。

 吉田桜は自分の体を抱きしめるように腕を組み、震えていた。

 あの雨の日みたいに、全身を震わせていた。

「セックスしてもよかったんじゃないのか?」

「そうだね。してもいいと思ってた。でもね、今わかった。はっきり分かったんだよ。私はね、多分、あなたとはセックスできない。したくないんだよ」

 その言葉にカチンと来て、

「なんだよ、それ。実の兄とはセックスできるのに、おれとはできないなんて。そんなのおかしいだろ!」

「おかしいよ! 私はね、おかしいの。きっとね、頭のどっかがねじれてる、ガイキチ。だから、セックスができるんだよ。実の兄と。ほんと、変態だよね」

「ふざけんなよ!」

 おれは、自分が吐く言葉の醜さが信じられなかった。頭のどっかで、それは言うべきじゃないと叫んでいる自分がいるのに、制御できなくて、止まらなくて。今自分が何を言おうとしているのかもわかってなくて。

「お前は、お前は変態なんかじゃない! いつも、いつも一生懸命じゃないか。一生懸命考えて、生きようとしてるじゃないか。おれは、何度も、何度も、お前、すごいなって思ってたよ」

 吉田桜が、不意に、おれを抱きしめてくれた。おれの頭を優しく、包んでくれた。

 その瞬間。

 もう、止まらなかった。

「本当は、離婚なんてしてほしくなかったんだ! 本当は、家族で一緒に居たかったんだ! なのに、なんで、みんな、平気なんだよ。こんな痛み、なんで平気なんだよ! おれには無理だったよ! 何度も何度も、願ったよ! またみんなで一緒に、って! それなのに、なんで、おれは、くそっ、なんで、ふざけんなよ!」

 涙が、決壊したダムみたいに、止まらなくなった。

 それを、吉田桜は黙って受け止めてくれた。



 吉田桜の心臓の音はやさしく、ちょっと激しい。その音を聞きながら、おれは、ふと昔のことを思い出していた。

「昔な、子猫を飼ってたんだ」

「うん?」

「初めて飼った猫でな。捨てられた猫で、おれは母さんや父さんにお願いして、許可が出て、家で飼えるようになって、うれしくてな」

「うん。それで?」

 吉田桜は聞くことに専念しているようで、特に口を挟むことなく、相槌を打ってくれる。

 橋の下で降りやまぬ雨と川が激しくドッドッと流れる音がして、まるで心臓みたいだなと思った。

「馬鹿みたいに、可愛がったよ。いつも子猫と一緒にいて、居ないとどこにいるのか探したんだ」

「うん」

「ある日、ベッドの下に隠れていた子猫を、いつものように取り出そうとしたんだ。でも、子供ってさ、特になーんも考えないんだよな。ギギャアっていう悲鳴が聞こえて、ベッドの下から出したら、子猫の首が折れてたんだ。おれが取り出すとき、子猫の首を持って、考えもなしに全力で引っ張ったせいで、あっけなく、おれは、その子猫の命を奪ったんだ。その後、父さんと母さんがその子猫を家の庭に埋めるのを見ながら、思ったんだ。おれは、なんて馬鹿なんだ、って。そして怖くなった。おれのせいで、何かが壊れてしまうんじゃないかって。ずっと、怖かったんだ」

「うん、そうだね。怖いよね。自分のせいで、何かが壊れてしまうかもって思うと、ほんと、怖いよね。でもさ、夏君」

「うん?」

 おれの両頬を抑え、強制的に顔と顔を突き合わせる形にして、

「私はね、夏君に救われたよ。夏君から勇気をもらった。それだけは、はっきり言えるよ」

 その美しい眉毛の形と、長いまつげと、大きな瞳が近づいてきて、唇に柔らかい感触。

 吉田桜の唇の味。

 それを受け入れて、どれくらいだっただろうか。

 不意に、近くでジャリっという音が聞こえた。

 慌てて、見ると、


「なに、やってるの」


 詩織が、立っていた。



 詩織は、ジャリジャリと、大きな足音を立てておれと桜の前に来ると、拳で思いっきりおれを殴った。地面に倒れ伏し、見上げると、

「電話来ないから、もしかして、って思ったら、ふざけんなよ! なんで、浮気してんだよ! なんで、キスしてんだよ!」

 ショートの前髪から雨粒が飛び、おれの目に入った。

「それに、なんで! 桜さんも、なんで! 夏が、私の恋人だって、知ってたはずなのに、なん……でっ」

 やり場のない怒りの矛先が、吉田桜に向かったのだろう、詩織は吉田桜を掴み上げ、体をしばらく揺すった後、突然力なく崩れ落ち、声にならない声で泣き始めた。

 おれは、どうしたらいいのかわからなかった。

 こうなることは予想していたのに、いざその時が来ると、何も言えず、ただ、立ちすくんでしまう。キスするところも、抱きしめ合っていたところも見られたのだ、何も言い訳はできない。

 ごうごうと、川の音がさっきよりもお大きく聞こえて、ひどく耳障りだ。

 そんな音を破ったのは、吉田桜だった。

「あーあ。終わっちゃったか。あっけないなあ」

 吉田桜はゆっくりとした足取りで、すごい勢いで流れる川へと近づき、

「ごめんね。詩織さん。でも、これだけは言っておくね。私と夏君は、きっと詩織さんが思っているような関係じゃないよ。夏君は、ちゃんと詩織さんが好きなんだよ。ただ、いろいろあって、詩織さんを大事だと思ってるから、思いが絡まっちゃっただけ」

 くるりと振り返って、フードから長い髪を取り出して、するりと手で流した後、おれを見た。

「夏君。秘密、守ってくれてありがとう」




 夏の終わり。

 川辺にすすきが白く色づくと、季節はもうすぐ秋なのだと一目でわかる。

 空を見上げると、太い入道雲は高い羊雲に変わっていた。

 おれと吉田桜の密会は終わったはずだ。だが、今日は、吉田桜に呼び出され、初めて晴れの日にこの橋の下で待ち合わせていた。

「私、これから、東京に行くことにしたから」

「ああ。それで?」

「それでって、反応薄いな」

「まさか、おれに来いっていうんじゃないだろうな」

「来て、って言ったら、来てくれるの?」

「いや、それは勘弁。今、頑張って、詩織との仲を修復しようとしているところだからな。これ以上、お前に振り回されるわけにはいかない」

「詩織さん、大丈夫なの」

「それが、全く口きいてくれないんだよ。おれの自業自得とはいえ、きつい」

「泣き言言うな。全て、お前がわるい!」

「いや、お前が言うなよな」

「ははは、じゃあ、最後のお願い。私の家に一緒に来て。私、言うから。『彼氏ができたから』って。で、そのまま、東京へ直行ですよ」

「ああ、そういうことか。仕方ない。協力してやるか」

「うん、お願い。やっぱり、言わずに逃げるより、ケリはつけておきたいから」

「そうか」

「あ、そのまま、卒業まで帰ってこないつもりだから、よろしく!」

「はあ? どういうことだよ」

「言ったでしょ。東京に行くことにしたって。私、歌手、本気で目指すことにしたから。よろしく」

 橋の下を出て、おれたちは、歩き出す。

「よろしくって、お前。何いってんだよ」

「いいからいいから。もう、決めたことなんだ」

「ったく」

 吉田桜は、笑って、そして、ふと口ずさんだ。


 うねる川のように

 静かに降る雨になって

 僕らは変わっていく


 せめて叫ばせて

 あなたに抱きしめてほしい

 消えそうなんだ

 あなたに抱きしめてほしい


 行方不明の明日に

 消える街並み探して

 心は変わっていく

 

 誰にでもない

 あなたにわかってほしい

 この気持ちを

 あなたにわかってほしい



 歌い終わると、吉田桜は橋の下から出て、階段を登っていく。

 橋の上で、振り返って、言った。

「さて、行きますか。明日に向かって」

 その笑顔は、眩しさにあふれていた。




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― 新着の感想 ―
[一言]  裏切られた思いは、消そうにも消せないです。
2016/10/20 10:47 退会済み
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