古の亡霊 2 * (アオイ&マサ)
なんとなく違和感を感じる純和風建築の大きな屋敷。
夜の闇に忽然と現れたような、その屋敷の門に掲げられたの木製の表札には、どっしりと黒々した文字で『林』とあった。
「でけぇ家だなぁ。しかし」
見上げた屋敷に、感心したようにマサが呟く。
それを聞いたアオイが鼻で笑った。
「金回りが良いからな。人助けが大好きです。って奴が、実は元は人殺しで、裏じゃ僕達の仕事の邪魔さえする有名な情報屋だ。世間様が知ったら、さぞや驚く事だろね」
「二つの顔を持つ男、か。しかしさ。こいつとグリスって奴は、本当に同一人物なのか? 資料を読んだ限りじゃ、全くの別人だぜ」
何度読み返しても、林総介とグリス・河内が同一人物であるとは思えない。
思えなかった。
マサは素朴な疑問を口にした。
「全く別人なら、わざわざ僕達が動いたりはしないさ」
「でもなぁ・・・」
「フン。頭が悪いな。奴がただの情報屋なら、僕達の事など噂程度にしかわからないさ。それが顔が勿論、特技やら素性なんていう細かい事まで知っている。仲間内でも一から十まで知っているのは『上』の連中だけだ。しかし、『上』の連中は自分で自分の首を絞めるような裏切り行為は絶対にしない。それなのに、俺達の事が外に漏れている。何故だ?」
「何故って・・・。なぁ。本当に『上』じゃないってえ言えるのか?」
「どんなに多くても、『上』の人間が10人を越える事は有りえない。僕も深い所までは知らないが、それでも『上』の連中は筋金入りの曲者揃いだ。裏切れば直ぐにバレる事も仲間を敵に回せばどういう事になるかも、『上』の連中はイヤというほど知っているからな」
当然の事だ。とでも言いたげにアオイは断言した。
そんなアオイを、マサは目を見開いて凝視する。
「よく知ってるな。俺達みたいな『下』は担当者の事でさえほとんど知らないってのに。まして『上』全体の事だなんて・・・」
「・・・昔・・・両親が二人揃って『上』の人間だったんだ」
言いにくそうに、というよりも、何か苦いものでも噛締めるかのようにアオイが呟いた。
「・・・そっか。・・・じゃぁ、さ。なんでこいつがグリスだって思ったんだ?」
「お前、本当に資料を読んだのか? 仕事を邪魔された仲間の話には必ずこいつ、林総介の名前が出てくる。知らないはずの僕達の事を細かく知っている。しかも、こいつに邪魔された仲間は何れも3年以上前からこの世界に居る人間で、それ以降の仲間には一切の被害がでていない。それは何故だ?」
「そりゃ、こいつが『上』だって事に・・・!」
そこで初めてマサはハッとしたように、アオイの顔を見た。
「3年前に2人。僕の両親が『上』を引退しただけで、後にも先にも誰一人として引退はしていない。自殺したグリス・河内以外には・・・」
グリス・河内の名前を口にした時、アオイは本当に憎々しく、苦痛そうに顔を歪めた。
「・・・金の為に仲間を裏切り、平気で人を殺して自殺した男。しかし、その死体は未だ発見されず、か。辻褄があうわけだ」
「そう言うことだ」
アオイは低く呟くと、軽く空を仰ぐ。
そして、そのまま電柱に背を預け、取り出したタバコに火を点けるわけでなくを咥える。
耳の奥で爆発音がし、脳裏を『記憶』という名で刻み込まれた3年前の出来事が横切った。
燃え盛る炎と、恐怖に歪んだ多くの人々の顔。
血塗れで倒れている人もいた。
遠く聞こえてきたのは、奴の声だった。
不気味な勝利宣言のような笑い声だった。
”これで私の天下だ!”
天下!?
金欲しさに仲間を裏切って、無関係な人間まで巻き込んでおきながら、何が私の天下だ!
悔しさと、どうすることもできない怒りに体が震えた。
動かなくなった足を切り落としてでも奴の所まで行って、その息の根を止めてやりたかった。
許せない!!
そう思った瞬間。今度はすぐ近くで、鼓膜の破れるような爆発音がし、一面眩いばかりの閃光に包まれた。
そして・・・
最後に見たのは、血塗れの少女の姿だった。
「・・・イ・・・アオイ・・・!」
心配そうに名前を呼ぶマサの声に、アオイはハッとした。
気が付くと、何時の間にか頬を涙が濡らしていた。
アオイは慌てて涙を拭うと、電柱に凭れていた体を起こす。
「・・・どうかしたのか?」
「何でもない。・・・ちょっと嫌な事を思い出しただけだ」
「嫌な事・・・?」
聞き返してくるマサに、アオイは軽く肩を竦める。
「嫌な事ってより、許せない事だな。奴が・・・グリスが僕たちを裏切った時の事さ」
「・・・っ」
マサは何も言わなかった。言えなかったというべきか。
アオイの目が、全身が、一瞬鋭いナイフのように見え、ただ息を飲んでアオイを見るしかできなかったのだ。
そんなマサに気付いたのか、気付かなかったのか、アオイは一歩前へ出るとクルリと向き直ってマサと向かい合う。
「あれ! お前お得意の盗聴器、持ってるか?」
「あ、ああ」
ゴソゴソと、マサはパンツのポケットから小さな箱を取り出した。
そして蓋を開け、小さな部品のような盗聴器をアオイへと差し出す。
アオイはまるでその盗聴器越しに林邸を透かし見るかのように、盗聴器を摘み上げる。
「どうするんだ。ファイル通りなら、この屋敷に忍び込むのは難しいぜ」
お決まりの防犯カメラに数人の警備員、赤外線装置もあれば各種トラップも仕掛けられている。
アオイはマサを軽く一瞥して、鼻で笑う。
「誰が忍び込むなんて言った。こいつを使って盗聴する気なんて端からないさ」
「じゃぁ・・・」
「ポストに入れる。僕たちが動いた事を知らせる為にね」
そう言ってアオイは、ニヤリと口元に笑みを浮かべて見せる。
「お、おい。それじゃ俺たちが逆にやられちまうじゃないか」
「クッ・・・ククク・・・」
慌てるマサを見て、アオイは声を押し殺すようにして笑う。
そして次の瞬間にはキッと顔を引き締め、目の前の林邸を睨みつけた。
「奴に見せてやるのさ。僕の姿を、3年前までの僕の『橘アオイ』の姿をね」
「アオ・・・イ・・・」
「腰を抜かす程驚くだろうね。奴が本当にグリス・河内ならば・・・」
そう言ったアオイの瞳が、いつか見たあの恐ろしいくらいに怪しい輝きを放ち始める。
マサは知らず知らすのうちに、言いようのない恐怖感に襲われていた。
「こんな感じかしらね」
バーのママ、剣持由美子は花瓶に活けた花を、遠く近くと眺めながら格好を整えていた。
カラカラーン
不意にこの店特有の場違いなベルの音と共に、静かに店のドアが開いた。
「すいません。まだ準備中・・・あら、マサじゃないの。どうしたの。授業はもう終わったの」
「いえ。途中でフケて来たんです」
苦笑いしながらカウンター席に座ると、マサは静かにサングラスを外した。
「まぁ、イケナイ子ね。何かあったのかしら」
「え、ああ、ちょっと・・・アオイの事なんですけどね」
「アオイの事? 喧嘩でもしたの」
言いながら、先ほどから手際よく作っていた名前だけの酒をそっとマサの前に置くと、ママは話を聞く体制に入った。
「・・・喧嘩なんかしてませんよ。ただ、ちょっと何て言うか・・・アオイの事が怖くなったんですよ」
「どうして?」
「え、あの・・・本当は二木さんに相談すべきなんだろうけど、あの人の近くには何だかいつもアオイが居るような気がして・・・その・・・剣持さんは知ってますか。俺たちが受けた仕事について」
「・・・知ってるわよ。貴方たちにその仕事を任せる前日まで私たち『上』の間でもちょっと揉めていたからね。アオイにやらせてあげるべきかどうかって」
「え・・・?」
ママの言葉に、マサは驚いたように顔を上げた。
「あら、ごめんなさいね。余計な事までしゃべっちゃったみたいだわ。・・・それで、どうしてアオイの事が怖いのかしら?」
余計な事をしゃべったと言う割には余裕の笑みを浮かべ、ママは先を促す。
「・・・実は・・・」
マサは二木から仕事を受けた時から林総介の屋敷へ行き、そしてアオイと別れるまでの事を大雑把に説明した。
その間、ママは眉ひとつ動かさず、静かに話を聞いていた。
「・・・前にあの目を見た時も怖いって思ったけど昨日はその何十倍、何百倍も凄かった。比べ物にならない位・・・本気で、飛んで逃げ帰りたいって思ったくらいだった・・・」
言いながら、マサは軽く身震いをした。
「怖いって、そう思って当然よ。本気になったアオイは本当に『怖い』もの。それを何も感じないようなら人間じゃないわ。だから、貴方がその事で悩む必要は何処にもないのよ」
そう言ってママは、マサの髪をそっと撫でた。
「それにしても、あの子もまた大胆な事をするわね。確かに『アオイの姿』を見せる事が一番確実で手っ取り早い方法かもしれないけど・・・」
小さな溜息を吐いて、ママは少しだけ悲しそうな表情をした。
「あの。その『アオイの姿』とか、アオイの言ってた『橘アオイ』とかって、どういう事なんですか? それと3年前の事件。何時もなら詳細に書かれているのに、今回に限っては簡単な事しか書いていないし、俺自身この時のニュースはあまり良く覚えていないんです。確かテレビで報道されていたとは思うんだけど・・・」
マサの問いに、ママは少しだけ目を細める。
「そうね。・・・3年前、グリスはある人物を自分自身で追っていたの。だけどね、逆に買収されて手のひらを返すように仲間を裏切ったわ。そして、あの日・・・グリスは自分を追ってきた仲間を得意の爆弾で吹き飛ばしたの。自分を買収した人物も、全くの無関係な人たちも一緒に。私たちが慌てて現場に駆けつけた時、そこは既に警察によって規制が成されていたから仕方なく能力者の力で現場内へと入ったんだけど・・・本当に悲惨な光景だったわ。中には小さな子供の遺体もあってね。あの事件での生存者は誰もいなかったわ。誰も・・・」
ママは軽く目頭を押さえ、そっと首を振った。
「え? 生存者がいなかったって・・・アオイは? アオイはあの事件の関係者だったんじゃ・・・」
「あの子は・・・ええ。そうね。『アオイ』が生きていたわね。ええ。あの子ひとりだけが・・・」
なんとも複雑そうな顔をしたママからそっと目を逸らし、マサはゆっくりとグラスの中身を揺らしながら、そこに映った歪んだ自分の顔を見る。
「・・・因縁の対決、か」
軽くグラスの中身で口を湿らすと、ポツリと呟くように言った。
「そうね。そうなるわね。・・・それから、マサ。貴方がもうひとつ知りたがっていた『橘アオイ』の事だけど・・・」
どこか言いにくそうにマサを見る。
マサは深く首を振ると、少しだけ笑った。
「いいです。なんだかアオイの過去を暴いてるみたいで嫌な気分になってきましたから。それに・・・例え相棒であっても相手の過去は詮索しない。それが俺たちの暗黙の掟だって事、忘れてましたよ。俺とした事が」
「うふふっ。そんな掟もあったわね。・・・ありがとう、マサ。でもね。もし、もしもアオイの過去を知る事になっても、今まで通りあの子に接して、あの子の傍にいてあげてね」
ママたってのお願いに、マサは一瞬目を見開きはしたが、直ぐに頷き、しっかりと笑って見せた。
「そのつもりです。俺、あいつに一目惚れしましたから」
きぱりと言い切ったマサに、ママは穏やかに笑って小さく目礼をした。
「マサ、今度から授業フケる時は一言言ってからフケろよな」
アオイと合流したマサは真っ先にそう言われ、少しだけ面食らった。
「なんだ。もしかして心配してくれてたのか」
茶化すように言うと、アオイの眉がピクリと動き、そしてマサをきつく睨んだ。
「馬鹿か。学校の連中が煩いんだよ。『上條先輩はどうしたんだ』ってな。いい迷惑だ」
「ククッ・・・そりゃ、悪かった」
吐き捨てるように言ったアオイに対し、マサは全く悪びれた様子もなく笑いながら謝る。
アオイは少しムッとして何か言おうとしたが、鼻を鳴らしただけで結局何も言わずに唇を噛む。マサは可笑しそうに笑いながら、アオイの直ぐ後ろを歩く。
「・・・つけられてるな。しかし、こんなに早いとは思わなかったぜ」
「フン。向こうだってプロだ。手持ちの資料からお前の事を割り出したんだろう。お前は奴が裏切る少し前から、この仕事をしてるからな」
「やれやれ。もう少し後で入るんだったな」
「もう遅いね。・・・それより、後ろの連中。できれば無傷のまま捕まえられるか? 血を見るのは好きじゃないんでね」
無傷で捕まえろと言われ、マサは少しだけ考え込む振りをする。
「そうだなぁ・・・。俺はナイフを使うから、無傷ってのはなぁ。でも・・・お前が俺にキスしてくれるってんなら、できるかもしれないぜ」
チラッと盗み見るようにアオイに視線を走らせる。
アオイは一瞬呆れ、それから少し顔を顰めると、人差し指でマサの腹部を突付く。
「どうして僕がお前に、男なんかとキスなんていう気色の悪い事しなきゃいけないんだ!?」
「男なんかって・・・お前は女の子だろう。それとも何か、お前って実は女の子が好きなのか?」
「な・・・マサっ!」
アオイは僅かに顔を赤くし、大声で怒鳴る。
「冗談だよ、冗談。でも、全員ってわけにはいかないぞ」
「1人だけでいい。残りは僕が引き受ける」
「了解。んじゃ、まぁ・・・」
言いながらマサは懐に手を入れ、クルリと体を反転させると同時にその手を勢い良く引き抜く。
そしてスッと伸びた指先から、1本のナイフが鮮やかな直線を描くかのように闇を走った。
一瞬の緊迫。
カーン!
マサが投げつけたナイフが叩き落されたと思われる、高い金属音。
サッとざわめき、幾人かの影が動く。
「ヒュー。やるねぇ~」
既に予想していた事なのか、あまり驚く事もなく、マサはのん気に口笛を吹いて相手の腕を賞賛する。
「ふざけてないで、さっさと捕まえろよ」
「へいへい」
軽く肩を竦めると、マサは1つの影に的を絞る。
「・・・行くぜ」
アオイに小さく合図を送ると、その影に向かいたて続けにナイフを投げつける。
相手はそれを交わしながら、時にはナイフを投げ返しながら右へ、左へと移動していく。
そんな二人を横目に、アオイは残りの影たちと静かな大立ち回りをしていた。
「そろそろか・・・」
マサはナイフを片手に大きく横へと飛ぶと、大きくナイフを持った手を動かす。
それに合わせ、相手も身構えながら大きく横へと動いたが、マサはナイフを投げてはいなかった。
何時の間にか、そのナイフはもう片方の手の中へと移動していた。
「フッ。グット・ポジション。あんた、まだまだ甘いな」
どっしりとした大木を背にした相手に、マサは不適な笑みを浮かべる。
そして狙いを定め、今度は本当にナイフを少し弱めに投げつける。
「バカが」
余裕で交わす相手の動きを確認するかしないかの速さで、マサは数本のナイフを同時に投げつけた。
「ヒッ・・・!」
悲鳴とも取れる息の詰まった声がした。
ザザッ
その声を合図としたかのように、アオイの相手をしていた者達が素早く身を翻し、退いて行く。
その様子を、アオイは冷やかな目で見ていた。
「行っちまったな」
「捕まえたのか」
「あぁ、バッチリ。チョロイもんよ」
そう言って、大木とほぼ同化している男を指し示す。
「一歩間違えりゃ人殺しだな」
男の首、頬、肩のライン、ギリギリの場所にナイフが突き刺さっていた。
「フン。誰がそんなヘマやるかよ。・・・で、これからどうするんだ」
「暫く僕の『人形』になってもらう」
言い切ったアオイに、マサは意味がわからず首を傾げる。
そんなマサを尻目に、アオイは男の前でパッと手を開く。
「僕の目を見てごらん。・・・そう、いい子だ。これから僕の言う事を、よーく聞くんだ」
開いた手越しに男の目を見るアオイの瞳が、だんだんと輝きを増し始める。
それに合わせるかのように、アオイの瞳から目が離せなくなっていく男の額から、第3者からでも見て取れる嫌な脂汗が滲んでいる。
そして、見守っているマサもまた汗を滲ませていた。
「このまま真っ直ぐ、林総介の所へ行くんだ。そして、伝えろ。僕が・・・『橘アオイ』がお前の首を欲しがっているってね。・・・わかったかい? 返事は?」
「・・・ハイ。ワカリマシタ」
アオイの問いに、男が感情の篭らない声で答える。
その目には、人間らしい輝きさえ感じられなかった。
「いい子だ。お前にかけた暗示は、奴に伝言を伝えると同時に消えるから、心配はいらないよ」
優しく語り掛けるように言うと、アオイは男の動きを封じていたナイフを引き抜いていく。
「さぁ。行け!」
アオイの命令に、男はゆっくりと、静かに歩き始める。
徐々に小さく、見えなくなっていく男の姿。
今まで黙って成り行きを見ていたマサは、無意識のうちに詰めていた息を吐き出し、滲み出ていた汗を拭う。
実際にはほんの数分の出来事だったが、とても長い時間が経過したよう気分だった。
マサは一度大きく深呼吸をし、早まっていた心臓を静めてアオイを見る。
その時だった。
グラリッ
大きくアオイの姿が揺らめき、そのままマサの視界からアオイが消えた。
「・・・ア、アオイ!?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
アオイが少し苦しそうに両手と両膝をつき、肩で息をしていた。
「アオイ! どうしたんだ」
「心配ない」
そっと、アオイの顔を覗き込むように肩に手をかけたマサに返ってきたのは、ひどくか細い声だった。
「心配ないって。お前、苦しそうじゃないか」
マサはアオイを助け起こし、大木の根元に座らせる。
アオイは大木に背を預けると、大きく息を吐き出して呼吸を整えた。
「はぁ・・・。『能力』を、特に催眠能力を使った後はいつもこうなるんだ」
「いつも?」
「あぁ。でも大した事じゃない。すぐに良くなるからさ。それより」
そこで一度言葉を区切ると、アオイはマサの顔を見る。
「マサ。お前、僕に聞きたい事があったんじゃないのか」
「え!?・・・あ、いや、別に・・・」
突然の事に慌てるが、そんなマサをアオイは口元だけで小さく笑って空を見上げる。
「無理しなくてもいい。『橘アオイ』ってのは、僕の昔の名前。丸山は死んだ母さんの旧姓だよ。・・・男、だったんだよね。あの頃はまだ・・・。薄々、気付いてたんじゃないのか」
「あ、ああ・・・」
「僕が『J・WARRIORS』、裏刑事なんて呼ばれてるこの仕事についたのは、もう5年も前の話だ。普通の人とは違う『能力』を持っている事に気付いたのもその頃。最初の2年は大変でも楽しくやってた。心配性だった母さんが『上』の仕事をしながら、僕の相棒として動いてくれていたんだ。それが・・・」
アオイは軽く目を閉じると、少しばかり唇を噛締める。
その横顔が、一瞬だけ泣いているようにも見え、マサは思わず目を逸らしていた。
「・・・3年前。マサも知っての通り、グリスが仲間を裏切ったんだ。正直言って、信じられなかった。もの凄いショックだった。グリスは、本当に僕の事を可愛がってくれたんだ。『無理はあるが、お前の兄貴になってやろう』なんて言って笑ってさ。それなのに・・・それなのに・・・許せなかった。今でも許してなんかいない。絶対に許せるもんか!」
アオイは悔しそうに、握った拳を地面に叩きつける。
マサはそっとアオイの肩を抱き寄せ、その拳を包み込む。
「アオイ。もう、いい。もういいよ、これ以上は何も言うなって。な」
「・・・ごめん。ありがとう。でも・・・でも、最後まで聞いて欲しい。お前には聞いてもらいたい。知っていて欲しいんだ」
「アオイ・・・」
コトンと、アオイはマサの肩に頭を寄せる。
マサは一瞬の躊躇いの後に、アオイの頭を優しく抱き寄せた。
「・・・僕は、『橘アオイ』の肉体は、3年前のグリスの爆弾によって他の人たち同様に死んだんだ。それが・・・奇跡とでもいうのかな。僕は生きていた。それも別の、全く新しい第3者として。もっとも、それがわかるまでに半年かかった。僕はそれだけの間、ずっと眠っていたんだ。だから僕が目を覚ますまで、誰も気付かなかったんだ。いや、僕という生還者がいた事を一切公表しなかった時点で、『上』の誰かが気付いていたのかもしれない。その辺については、何も聞かされていないから推測するより他はないんだけど・・・。目覚めた僕の中に残っていた断片的な記憶から、僕の魂が何らかの理由によって、偶然巻き込まれてしまった1人の少女の肉体と『融合』したらしいって。皆、驚いていたよ。当たり前だよね。僕だって信じられなかったもの。・・・どうしてだろうね。どうやったら、こんな事が起こるんだろうね。全くの他人だった魂と肉体がひとつになって、しかも記憶は僕のものなのに、外見はそうじゃないんだ。僕のものでもなければ、その彼女のものでもないんだ。面影があるといえばあるけど、全くの別人だっていうんだ。不思議だろう。別の人間になるなんて」
そう言ってアオイは低く、悲しく、押し殺すような声で笑った。
「アオイ・・・。事実は・・・事実は、事実として受け入れた方がいい。辛いかもしれないけど、でも・・・そうだろう」
「マサ・・・」
「今ここにいるのは『橘アオイ』という『男』じゃなくて、『丸山葵』という『女の子』だ。そうだろう。だから・・・いま直ぐとは言わない。この件が片付いたらでいい。そしたら、もう過去は過去として、今度は前を見て歩けよな。丸山葵という女の子として」
言いながら、何時の間にかマサはアオイの髪を優しく撫でていた。
「・・・ククッ。マサ。お前、やっぱり気障だな。もしかしたら、プレーボーイなんて洒落た言葉より、女ったらしって言葉の方が似合うかもしれないぞ」
「あの、なぁ・・・」
マサは困ったように鼻の頭を擦り、やがて静かに立ち上がるとアオイに手を差し出した。
「今日はもう帰るか。明日の授業に差し障る」
「そうだな」
そう言って、アオイは素直にマサの手を借りて立ち上がった。
1/18 余白を少し増やして、読みやすくしてみました。