古の亡霊 1 * (アオイ&マサ)
夜の街は昼間とは違う別の世界。
時として、儚くも美しい幻想的な空間を生み出すことさえある。
そして、時にはそんな夜の街の中へと逃げ出したくなる。
救いの手を差し伸べてくれる者など居やしないというのに・・・
「あら。アオイじゃない。どうしたの? 浮かない顔なんかして」
水商売風の派手な女が、一人の少年を呼び止めた。
格好は少年だが、男とも女ともつかない不思議な容姿をしている。
アオイと呼ばれた少年は声の主を見て立ち止まると、軽い苦笑いを浮かべる。
「『コブ』をつけられちまったんだよ」
「コブ・・・?」
「そう。『上』からの命令でさ。・・・ホラ」
ぶっきらぼうに言うと、肩越しに親指で後ろを指し示す。
そこにはアオイより頭一つ分背の高い、サングラスの男が立っていた。
「あら。イイ男じゃないの。これが、コブなの? ・・・ねぇ、ねぇ。貴方、名前はなんていうの」
「マサって言います。こいつの『コブ』ですが、まぁ、そんなことは気にしないで下さい」
態と『コブ』の部分を強調し、女の手をとり、そっとキスをする。
「まぁ・・・。アオイ、良かったわね。貴方と歩いても、十分つり合いのとれる人で」
アオイは面白くなさそうに煙草を取り出し、どこか優雅な手付きで火をつけた。
「ふぅ・・・。って、おい!」
「いけないな。煙草なんか吸ってると、大きくなってから良い子が産めなくなりますよ」
少し意地悪げに言ってアオイから煙草を取り上げると、然も当然のようにそれを咥える。
「う、うそぉ~! アオイって女なの!?」
知らなかったと、素っ頓狂な声を上げた女の高い声に、アオイのこめかみがピクリと引き攣り、その原因を作った相手を睨みつける。
「・・・マサ! 俺をおちょくっているのか!!!」
「いいえ。・・・事実でしょう?」
「き、貴様・・・『上』からの命令でなければ、誰がコンビなんか組むかよ! くそっ」
「おやおや」
マサは笑いながら、形だけは困ったように肩を竦めた。
「ねぇ。『上』って・・・何? アオイも本当に女なの?」
女が興味深げに、マサの腕を揺する。
「僕のどこが女に見えるんだ!」
マサが口を開くよりも先に、アオイが怒鳴った。女は一瞬、ビクリと驚いて肩を震わせたが、直ぐに口元に笑みを浮かべてアオイを見返した。
「あら、だって。アオイの裸、私は見たことないもの」
サラリと言って退けた女の言葉に、アオイの方が思わず赤くなる。
「からかわないでやって下さい。アオイはまだ純なんですよ。だから、俺とコンビを組ませたんでしょうね、センセイは」
「センセイ・・・?」
「アオイの言う『上』のことですよ」
そう言って、マサは女に極上の笑みを浮かべてみせる。
そんなマサを横目に、捨て台詞のようにアオイは鼻を鳴らすと黙って歩き出す。
そして、口の中で小さく「サギ。ペテン師」と呟いた。
太めのフレームの大きなメガネをかけた少女が、屋上から校庭を眺めていた。
少女は制服を着ていなければ、男か女か区別がつかないような顔立ちをしていた。
時々吹く風が柔らかな短めの黒髪を揺らしている。
ハァ・・・
少女は指でメガネを直しながら溜息を吐く。
「悩み事は、恋ですか、勉強ですか」
突然声をかけられ慌てて振り返った少女は、小さく声を上げたかと思うと次の瞬間には、明らかに嫌そうな顔をしてみせる。
「アオイは男でも、丸山葵ちゃんは正真正銘の女の子なんだな」
意味ありげに笑う男子生徒の言葉に、少女はムッとしながら相手を睨みつけた。
「・・・そうそう。あたし思ったんですけど、『自他とも認めるイイ男』なんてのやめて、『自他とも認めるプレーボーイ』に変えたらどうですか。上條真先輩」
「プレーボーイ? 俺はそんなにまめじゃないし、そんな器でもないよ」
真は肩を竦め、少し驚いたように言う。
「そうなんですか? あたしには・・・」
一瞬の沈黙だった。
「・・・僕には気障なプレーボーイに見えたけど、ペテン師マサくん」
確かに優しく柔らかな感じさえした声は、一変してクールな感じのする男の声に変わっていた。
「ヒュゥー。見事なもんだな、本当に」
からかうような口調ながら、真は本心から感心していた。それ程に、葵の声色の差は歴然としていたのだ。
「声色はあたしの特技の一つですから。読んだんでしょう、資料」
当然だ、とでも言うように葵が微笑む。
学生としての『表』の顔とは別の、もう一つの『裏』の顔。闇の世界では様々な意味と畏怖を込め、『裏刑事』の異名をもって呼ばれる『J-WARRIORS』としての顔。
マサがアオイとコンビを組む時に渡された資料は、特技など任務上支障をきたさない範囲の必要最低限の事だけを列記した、たった一枚の紙切れ。如何にコンビといえども相手の過去は聞かない、詮索しない。
それが組織における暗黙の掟の世界だった。
「しかし・・・。なぁ、アオイが実は女だって事、知ってる奴はいるのか?」
「『上』とお前の他に1人だけな」
「誰だ!?」
葵の口調がアオイのそれになっていたが、真はそれに気付いているのか、いないのか。驚いたように少しだけ葵に詰め寄った。
「・・・ミュヲ。男装麗人のミュヲ。他は知らないはずだ」
「ミュヲ? 面識あるのか?!」
彼女の噂は何度となく耳にした事がある。男装の麗人としてだけではなく、
その活躍ぶりについても。
「ああ。男装を教えてやった。でも、諦めた方がいい。今の相棒はミュヲの恋人でもあるからな」
「チェッ。それは残念」
軽く舌打ちした真を見て、葵はクスリと笑った。
「やっぱり、プレーボーイの方が似合うな」
フン
真は鼻を鳴らすとクルリと葵に背を向け、屋上を後にする。
しかし、不意に何かを思い出し、再び葵に向き直る。
「あ、そうそう。・・・それ、伊達メガネだろう。外した方がいいぞ。お前には似合わん」
葵は一瞬ドキッとしたが、言う事だけ言って歩いて行く真の後ろ姿に向かって「アカンベェ」と舌を出した。
「・・・ふん。大きなお世話だ」
当然、口の中でブツブツと呟く葵の声など聞こえていない真が屋内へと戻るのと入れ違いに、一人の女子生徒が屋上へとやってきた。
女子生徒は暫しボウッと真の後ろ姿に見とれていたが、弾かれたように顔を上げると葵のもとへと駆け寄ってきた。
「葵。ねぇ、今の最近転入してきた3年の上條先輩でしょう? ずっとここに居たの?」
「うん。そうみたい」
真と相対していた時とは打って変わった可愛らしい女声と仕草で、しかし
「あまり興味ない」というように素っ気無く答えた。
「本当に? いいなぁ。何か話したの?」
「全然」
「あぁ、勿体無い。上條さんが居るって知ってたら、もっと早く来るんだったぁ」
女子生徒は本気で、思い切り悔しがってみせる。
「有名なの?」
「やだぁ。もう、葵ってば本当に無関心なんだからぁ。・・・いい。さっきの人は上條真先輩っていって、つい最近、うちに、この美鈴坂学園高等部の3年D組に転入してきたの。それで、転入理由がうちの大学部に入る為。葵と同じアパートに住んですのよ。もうファンクラブだってあるんだから」
「ファンクラブぅ~?!」
内心では「何処のマンガの世界だ」と大いに呆れ返りながら、葵は大袈裟にメガネの下の目をパチクリさせてみせる。
「そうよ。だから・・・ね。葵、私と一緒に入ろう」
「はぁ? ど、どうしてよ。あたし、興味ないよ」
「だ・か・ら・よ。だから、ファンクラブに入るの。そうすれば物事に無関心すぎる葵だって少しは関心が持てるでしょう、いろんな事に。ね、一緒に入ろう。ね、ね」
一体、どこをどうやればそういう考えに至るのだろうか。
葵は深く、大きく溜息を吐き、少しの間だけメガネを外す。
オレンジに近い茶の瞳が、眩しそうに空を映し出した。
静かなBGMが流れる小さいけれど、とても落ち着いた雰囲気漂うお洒落なバー。
そのバーのカウンターで、アオイはグラスに注がれた酒を飲むでもなく、ただ静かに揺らしていた。
「つるむのが嫌いな貴方がコンビを組んだそうね。アオイ」
バーのママらしき女性が、カウンターの中からアオイに声をかけてきた。
「命令だからね」
「二木さん、ね。でも、いつもの貴方ならとことんまで反対するのに今回は一体どうしたのかしら?」
ママの問いに、アオイは少しだけ眉を吊り上げて苦笑する。
「知ってるくせに」
「あら。私は貴方の『担当者』じゃないのよ。まぁ、大方の想像はつくけどね。・・・橘さん。お父様が絡んでるのね」
「もう、とっくに足を洗ってるくせに『この仕事を続けたければ、腕のたつ奴とコンビを組め』って言ってきたんだよ」
面白くなさそうに、グラスを指で弾く。
酒が小さな波紋を描きながら、アオイの顔を映し出す。
「本当は辞めて欲しいんじゃないの。お父様も、二木さんも。本当に貴方が・・・」
言いかけて、ママは言葉を濁す。
「わかってる。わかってるさ。でもね。僕は・・・葵より、アオイの方が『本物』なんだ。それに『能力』の事で悩む必要も少ないし・・・」
「本当にそれだけ? ・・・ねぇ、アオイ。貴方は貴方なのよ。『葵』も『アオイ』も。だから、どっちが本物って事はないんじゃないかしら。ね。あんまり悩まないで。貴方らしくないわよ」
そっと頭を叩いてくるママに、アオイは小さく微笑むとグラスの中身を一気に飲み干す。
その様子を、ママは優しい眼差して見ていた。
「・・・うっ。ママぁ・・・。また、これほとんど水じゃないか」
「当たり前でしょう。うちには未成年者に飲ませるようなお酒なんて置いてないのよ。少しでも味があるだけ良いと思いなさい」
そう言ってアオイの額を指で突付く。
アオイは拗ねたような視線をママに投げつけると、プイッと顔を逸らせ、ブスリと頬杖をついた。
カラカラーン
不意に場違いとも思えるベルの音がして、店に客が入ってきた。
「あら」
来客に笑顔を向けたママが小さな声を上げ、ドアに背を向けているアオイに振り向くよう促す。
「・・・ゲッ」
ノロノロと振り向き客の姿を確認したアオイの顔が、あからさまに曇り、嫌そうに歪められていく。
「そう露骨に嫌そうな顔しなくてもいいだろうが」
苦笑しながらも、当然のようにアオイの隣に座ったのはマサだった。
アオイは小さく鼻を鳴らして、再び頬杖をつく。
「くすくす・・・。貴方、写真よりもイイ男ね。女の子達が騒ぐわけだわ」
「・・・ママも『上』の一人だよ」
間の抜けたような顔のマサに、アオイが小さな声でママの正体を教える。
マサは目を見張って、ママの顔を凝視した。
「剣持由美子というの。よろしくね。・・・はい。アオイと同じもの」
穏やかな笑顔で挨拶を済ませると、ママは酒の入ったグラスをマサに渡す。
マサは目を伏せる事で礼を言うと酒を一口だけ飲み、次の瞬間には僅かばかり顔を顰める。
「未成年者用よ」
ニッコリと笑うママに釣られ、マサも複雑な思いで笑顔を返す。
「よく此処がわかったな」
「お前がよく出入りする場所を書いたメモも渡されてあったからな」
「ふふっ。二木さんらしいわね」
「チッ。学校ではただのお惚け親父やってるくせに」
アオイはカウンターの上に伏して悪態を吐く。
「そういう教師が一人くらいいた方が、学校も少しはおもしろいでしょう?」
「そうですね。でも、教師よりは役者の方が向いているような気がしますね」
すっかり場の雰囲気に馴染んだマサが、ママの台詞に笑って答える。
そんな2人に益々不機嫌になったアオイは、こんな所に居られるかとばかりに席を立つ。
「ママっ。ピアノ借りるね」
ママの返事も待たずに、アオイは店の片隅にポツンと置かれているピアノへの向かって歩き出した。
そんなアオイに微笑みながら、ママは他の客と談笑していたウエイターに音楽を止めるよう声をかける。
「へぇ。ピアノなんかやるんだ」
「一応ね。でも、たった一曲、あの人が好きだったあの曲しか弾かないよ。あの日から・・・」
少し寂しそうにママが呟いく。
マサは何か言おう口を開きかけたが、結局は何も言わずにピアノを弾き始めたアオイに視線を移した。
奏でられた曲は、静かで、優雅で、しかしどことなく淋しさを感じさせる曲だった。
客も店員も、みな目を閉じ、じっと耳を傾けて聴いていた。
「マサ。あの子から、アオイから目を離さないでね。誰も・・・アオイのお父様も二木さんも、そして私も『葵』まで失いたくはないの。もう二度と・・・・。だから、お願いね」
突然、そんな事を言われ、マサは驚いてママを見たが、ママはじっとアオイの姿だけを見ていた。
そして、その瞳は哀しいような、愛しいような、そんな色をしていた。
「ったく。どこまで着いて来る気だよ」
アオイは足を止め、マサに向き合う。
「どこまで? どこまでって、俺はお前を同じアパートの住人だぜ。それに二木さんからの命令『アオイとは仕事以外の時でも、なるべく一緒にいる事』ってな」
「ふ~ん。真面目にもそれを守ってるわけか」
ご苦労なことだな
履き捨てるように言うアオイに、マサはほんの少しだけ苦笑いを浮かべる。
「別にそういうわけじゃないけどな。俺もお前と同じ一人暮らしなんだ、少しくらい羽を伸ばしたっていいだろう」
「ふん。伸ばしたいなら、勝手に伸ばしてろ」
プイッと顔を背け、アオイは再び歩き出す。
マサはその背中に向かって、疑問に思っていた事を投げかけてみた。
「なぁ。なんだってお前は一人暮らしなんかしてるんだ。女の子だからさ、心配してるんだろう。お前の親父さん?」
「家族はもういないって・・・! ママか。ママだな! ママから何を言われた」
低くドスの効いたアオイの声に、マサが一瞬怯む。
しかしマサは「別に」とだけ答えて、逆にアオイの顔を見返す。
「・・・弟も・・・一部の関係者以外は全員、死んだと思ってるからな。まぁ、事実死んだんだけど」
「え・・・?」
アオイは近くの電柱に寄り掛かり、瞬く星を見上げていた。
「アオイ、誰の事を言ってるんだ?」
「僕の事さ。正確には『橘アオイ』っていう男の事だけどね」
弱々しく笑うアオイが、今にも崩れてしまいそうなほど儚く見えた。
「アオ・・・」
「マサ!」
声をかけるより先に名前を呼ばれ、突然目の前にパッと右手を突き出された。
広げられた右手に、否応なく視界を奪われる。
「資料にあっただろう。僕の特技は声色と、精神凍結術および催眠術って。このまま今聞いた事を忘れてもらう事だってできるんだよ」
視界の手のひら越しに、アオイの力強い視線とぶつかる。
「・・・あっ」
アオイの瞳が、怪しい輝きを発していた。
喉の奥が嫌な感じに乾いていき、マサは捕らえようのない恐怖に晒されていく自分を実感していた。
「フッ・・・。今日はやめておく。『能力』を使う気にはなれないからな」
そう言って手を下ろすと、アオイはクルリと背を向ける。
「じゃぁな、先行くよ。これ以上一緒にいると、余計な事まで喋っちゃいそうだからな」
突っ立ったままのマサに、ヒラヒラと手を振って去っていく。
「ふぅ・・・」
大きく息を吐き出し、かいてもいない額の汗を拭うと、マサは暫く空を仰いていた。
「・・・謎のベールに包まれた少年、か。噂以上だな」
そう呟いた時、星がひとつ流れた。
2年A組の教室で、葵は頭を抱えていた。
クラスの、そして他のクラスや学年の女子に囲まれ、次から次へと飛んでくる質問などに爆発寸前だった。
この現状の原因は、ただひとつ。あの上條真のせいだ。
「ねぇってば、上條先輩とはどうやって仲良くなったの」
「まさか、彼女になったって事はないよね?」
ダン!
我慢できずに、葵は両手で机を思い切り叩く。こめかみのあたりが、ピクピクと痙攣していた。
「知らないわよ! 向こうが勝手に話し掛けてくるだけなんだから」
そう。今朝、アパートを出だときからずっと、休み時間も昼休みも真は葵に付き纏っていたのだ。
おかげで放課後、上條真ファンクラブなる、アイドルの熱狂的支持者を思わせるような集団に捕まってしまった。
いつものように真が来る前に帰りたかった葵にとっては、頭の痛い事だった。
「おい、葵!」
葵を囲んでいた女子が一斉に声のした方を見る。
声の主はネクタイを弛め、カバンを肩越しに持っていた。葵はまた頭を抱える。
真は他の人間には目もくれず、ツカツカと葵のもとへと歩み寄る。
「ほら、帰るぞ」
そう言うと、ポコッと葵の頭をひとつ殴る。
葵は恨めしそうに真を見上げた。
「なんで一緒に帰らなきゃいけないんです」
「なんでって、俺達同じアパートの住人だぜ。一緒に帰ったっていいだろう」
然も当然の事のように言ってのける。
「だからって・・・あっ!」
不意にメガネを真に取られてしまった。
「ったく。こんな伊達メガネはやめろって言っただろうが」
そう言って、真は自分の胸ポケットに入れる。
「返して下さい」
「ダメ。返して欲しかったら・・・ほら、一緒に帰るぞ」
真はニコニコと笑っていた。
「ちょっと、上條君」
3年の女子生徒がたまらず口を挟む。
「なんですか?」
「どうして、この子にかまうわけ?」
「う~ん。そうだなぁ・・・」
勿体つけるように口を開いた真に、周囲が一瞬固唾を飲む。それに対して、真は少しだけ浮かべた笑みで口の端を持ち上げる。
「そうだな。葵に凄く興味がある。一目惚れってやつかな?」
「ちょ・・・ちょっと、いい加減なこと言わないで下さい!」
僅かに頬を染め、葵は慌てて真に掴みかかった。
「いい加減じゃないよ」
そう言って葵のカバンを掴むと、葵を促す。しかし、葵はじっと真を睨みつけたまま、そこから動こうとはしない。
ピンポン パンポーン
”・・・3D、上條真君。2A、丸山葵さん。大至急、二木先生の研究室まで来て下さい。繰り返します・・・”
「なんだろうな。ほら、行くぞ」
首を掲げながら、真は葵の頭をひとつ叩いた。
葵は真から自分のカバンを奪い取ると、サッサと歩いて行く。
「あっ! おい、置いて行くなよ」
そう言って、大袈裟に追いかける。
後に残った生徒達は、ただ2人の後ろ姿を見ているだけだった。
きれいに片付けられているのに、どことなく雑然とした部屋。
部屋の主は、格好は良いがどう見ても人の良さそうな、ただのおじさんで、『教師』などという肩書きを持っているとは思えないような、そんな人物だった。
「何の用ですか?」
教師を前にしても、葵は先の一件での不機嫌さを隠そうともせずにいた。
「原因は、上條君との噂ですか。・・・しかし、珍しいですね。丸山君がメガネを外しているなんて」
その指摘にハッとして、葵は自分の顔に手をやった。
そして、無言のまま隣に立つ真の前に、その手を突き出す。
パチン
真はそっぽを向いたまま、葵の手を軽く払う。
「き、貴様・・・」
「まぁ、まぁ。上條君、返してあげて下さい。丸山君にとって、メガネは大事な隠れ蓑なんですから」
穏やかな笑顔で言われ、真は渋々葵にメガネを返す。
「・・・用件は? ないのなら帰りますよ、二木先生」
メガネをかけながら、葵は冷たく言い放った。
二木は少しだけ眉を顰めたが、すぐに顔を引き締める。
そして、引出しから一冊のファイルを取り出した。
「随分と迷ったんだがな。・・・報酬は一人30万。ターゲットはこの男・・・林総介。この男が・・・」
ファイルを開き、恰幅の良い中年男性を示しながら、二木は葵の顔を見た。
「・・・この男がグリス・河内であるという証拠を掴んで欲しい」
「グ、リ・・ス・・・」
葵の顔が見る間に青くなり、体が小刻みに震え出していた。
「葵・・・?」
「グリス・・・グリスだって!? だって、奴は3年前に・・・!」
「そう。あの事件の直後、崖から川へと飛び込んで死亡した事になっている。しかし・・・『アオイ』には黙っていた事だが、奴の遺体は未だに発見されていない」
二木は辛そうに目を伏せた。
葵は狂ったように、頭を振っている。
「そんな・・・うそ・・・だって・・・生きている? し、死んだのに。母さんも、無関係な人たちも、この・・・この身体の『持ち主』だった子だって! ・・・そ、そんな・・・」
大粒の涙が葵の頬を伝って、静かに床の上へと落ちていく。
真はただ黙って葵と二木を見ていることしかできずに、その場に立ち尽くしている。
「・・・アオイ。やはり、この仕事は他へと回し・・・」
「ダメだ! 僕がやる。僕がやらなきゃ意味がない。僕だけ、僕だけが生きている意味がない! お金なんかいらない。絶対に・・・必ず奴の証拠を掴んでやる」
何時の間にか、その全てが葵から『アオイ』へと変わっていた。
二木は暫く黙って葵を見ていたが、決心したようにファイルを葵に手渡した。
「詳しくは、これに書いてある。・・・アオイ。私情を挟み過ぎて、トリップしないよう注意して下さい」
「フッ。トリップしたら、あんたが止めにくればいいだろう」
葵は少しだけ微笑み、そして、真の腕を軽く叩く。
「できる事なら、ひとりでやりたいんだけど、それじゃ納得できないだろう」
「・・・あ、当たり前だろうが・・・!」
真に怒鳴られ、葵はクスリを笑い、はじめて涙を拭った。
「いいんですか。知られてしまいますよ」
「いいよ。もしもの時は全部忘れてもらうから。それに、2人一緒に呼んだって事は、最初からひとりでやらせてくれるつもりはないって事でしょう、二木さん」
「いいえ。たとえ相棒がいたとしても、アオイの判断に任せるつもりでしたよ」
「・・・うそつき」
低く呟くように言うと、葵は真の背中をファイルで押す。
「じゃぁ、もう帰りますから」
「はい。気をつけて。・・・あぁ、それから。あまり剣持さんの店に出入りしないで下さいよ。本分は学生なんですから」
にこやかに言う二木に向かって、葵はベェっと舌を出すと、真に続いて部屋を出て行った。
パタンと、ドアが完全に閉まったのを確認すると、二木は深く息を吐き出す。
「・・・随分と落ち着いたものだ。あとはこれで過去を捨ててくれれば言うことはないんですけど、無理ですかねぇ・・・」
二木は背凭れに深く身を預けると、そっと目を閉じた。
葵はずっと黙ったまま歩いていた。
真はその後ろ姿を見ながら声をかけるべきか否か、時々葵の肩に手を伸ばしかけては引っ込めていた。
2人の住むアパートが見えてきた時、真は思い切って葵に声をかけた。
「・・・葵、あの・・・さ・・・!」
突然、目の前にファイルが差し出され、葵の怒ったような、泣きたいような顔が飛び込んできた。
「読んどけ」
短い中にもドスの効いた有無を言わせぬ迫力があった。
真は投げつけるように手渡されたファイルを暫く見ていた。
「・・・あっ。おい、葵!」
小走りに先を歩く葵に追いつくと、グイッと肩を掴んだ。
「なんだ」
振り向いた葵の瞳が微かに揺れた。
「え、あ、その・・・いつから・・・そう、いつから始めるんだ」
真は複雑な表情で鼻の頭を軽く擦った。
「・・・そうだな。今夜からでも始まるか」
そう言って弱々しく笑った。
「今夜、な。今夜・・・」
口の中で何度も繰り返し、ファイルをパラパラと捲りながら、真は先に歩き出した。
「・・・ありがとう」
「えっ。何か言ったか?」
「別に」
立ち止まらずに振り返った真に一瞬ドキッとしたが、不貞腐れたように返事をすると、そっぽを向いたまま歩き出した。
そして、声にならない声で呟いた。
「こいつには、自分から全部話す事になるんだろうな。きっと・・・」
未成年の飲酒や喫煙は禁止ですからね!
1/18 余白を少し増やして、読みやすくしてみました。