唄鳥は春を知らず
「お綺麗な歌声だねぇ」
運河を吹き抜ける風は酷く冷たく、エリオに冬の始まりを感じさせた。暦の上ではまだ辛うじて秋だと言うのに、今年の冬はせっかちらしい。
吐き出す息の白さに、がたがたと震える体。普段は薄着のエリオも、今日ばかりは流石に音をあげた。
遠い昔に流行ったデザインのシャツ、その上には絵の具まみれで元の色が分からなくなったエプロン。そして、防寒具のダウンである。何年も使っているからか、少しぺしゃんこなのが物悲しい。
「相変わらず薄っぺらいダウンね」
片手を挙げたエリオに気付いたティツィアーナは歌うのを止め、彼の為にベンチの半分を占領していた荷物を膝に乗せた。
「またサボりかい、お嬢さん」
よっこらせー、とティツィアーナの隣に腰を下ろしたエリオは、爪の中にまで絵の具が入り込んだ両手を擦り合わせる。乾燥した指先が、かさかさと音を立てた。
真っ赤なダッフルコートと黒のマフラーに埋もれたティツィアーナは、エリオの言葉に唇を尖らせる。この少女、歌っている時は見ているこちらが苦しくなる程大人びた顔をするくせに、それ以外の時は年齢の割りに子供っぽい。微笑ましくなる程に。
「おっさんには関係ないでしょ」
口の悪さが玉に瑕ではあるが。
「まぁねぇ」
エリオは苦笑し、ポケットから煙草を取り出して口にくわえた。マッチを擦るが、風が強くて火はすぐに消えてしまう。ティツィアーナの踝まであるスカートが、一瞬だけふわりと浮き上がった。
「ちょいとお嬢さん、手ェ貸して。消えちゃうから風避けになって」
「嫌よ、至近距離で吸われる身になりなさい」
「…厳しいねぇ」
眦をつり上げるティツィアーナにエリオは肩を落とし、マッチ箱をポケットに戻した。口寂しいので、煙草はくわえたままである。
「お嬢さん、そろそろ学校行かないと授業に置いていかれるよ」
「行くわ、春が過ぎたらね」
それはまた、随分先の事である。
「そりゃまたどうして」
ティツィアーナはマフラーを目の下まで引っ張り上げ、さぁ、とそっぽを向いた。
「気に入らないんですって」
「授業が?」
「私が」
意味が分からず首を傾げるエリオに、だから! とティツィアーナは眉を寄せる。
「…『春の王』に選ばれたのよ、私」
「『春の王』って、祭の?」
険しい顔のまま、ティツィアーナは頷く。
『春の王』とは、春の到来を祝う春告祭で行われる演目である。その主役となる『春の王』は、唄と舞の両方を要求される難易度の高い役柄だが、それだけに人気もあり、一度その座を射止めた者は死ぬまで自慢し続けるのだ――エリオの祖母がそうだったように。
エリオは驚きに丸くしていた瞳に喜びを滲ませ、不機嫌さを隠そうとしないティツィアーナの頭を撫でた。
唄が上手いと常々思っていたが、まさかここまでとは。
「凄いじゃないか、ティツィ! なんでもっと早く言ってくれなかったんだ!」
「まさか、……知らなかったの?」
漸く振り向いたティツィアーナは、エリオと同じく目を丸くしている。
エリオは頬を掻いて苦笑すると、ここしばらくアトリエに籠っていて、と指の皺や爪の中に残る絵の具を見せるように両手を広げた。
「そういえば最近見なかったわね…」
エリオの両手をしげしげと眺めたティツィアーナは、呆れ混じりにそう呟いた。
「それで、お嬢さん。お友達に何か言われたかい」
「友達ですって? 本当は自分が選ばれる筈だったとか抜かすあの子が? ちょっと綺麗だからって調子乗ンじゃないわよ!」
「おいおい、お嬢さん。お前さんまでかっかしてどうする――」
「あったま来た! そうよ、大体なんで私が遠慮しなきゃならないわけ?」
キッと顔を上げたティツィアーナは話している内に怒りがぶり返してきたのか、むかつくー! としまいには叫び出す始末だ。話の流れによっては彼女を慰めなければ、とそれに相応しい言葉を探していたエリオはがくりと肩を落とした。
ティツィアーナの言う『あの子』が誰を指すのかは知らないが、思い付く限りの罵りの言葉を運河に向かって叫び続けるティツィアーナの後ろ姿を見ていると、一体どちらが悪役なのか分からなくなる。
「…ティツィ」
どちらが悪いかはさておき、ティツィアーナをこのままにしてはおけない。エリオは溜め息を吐き、彼女のマフラーを軽く引いた。
「ティツィアーナ、愚痴なら聞いてやるから座りなさい」
ティツィアーナはほんの少し首を傾けると、エリオの好きな子供っぽい笑い方をした。
「だいじょうぶ」
頬に笑窪が生まれ、唇の合間から白い歯が覗く。
「これ、結構すっきりするの。エリオもどう?」
「…いや、俺は良いよ」
そう、と返ってきた声はどこか不満げである。
「エリオが叫ぶとこ、見たかったのに」
「……お嬢さん、俺くらいの歳になるとね、それは大層難しいんだよ」
主に外聞的な意味合いで。
「俺はいいんだよ」
「苛々は溜めると良くないのよ」
風が弱まってきた事に気付き、いそいそとマッチ箱を取り出すエリオにティツィアーナは冷ややかな目を向けた。煙草って便利ね、と皮肉っぽい一言付きで。
エリオは漸く火の点いた煙草をくわえたまま苦笑し、ティツィアーナの丸い後頭部を二、三度撫でた。
「煙草よりお嬢さんの唄の方が好きだよ。苛々も吹き飛ぶ」
「ほんとう?」
ぱっと笑みを浮かべたティツィアーナは立ち上がり、折れたスカートの裾を素早く直した。
「煙草より体にいいわよ」
「本当にね。では、春の歌姫、一曲お願い出来ますか?」
「望むところよ!」
胸を張るティツィアーナに拍手を送り、エリオは目を細める。
身を切る寒さに負けず背筋を伸ばす彼女は、いつか本物の『歌姫』となりこの街から飛び立つのだろうか。
それはとても誇らしく、同時に酷く寂しい事だな、とエリオは小さく笑った。
本当に、と溜め息のように囁くエリオの声も、楽しそうに歌うティツィアーナの声も、風は平等に拐っていく。
「お綺麗な歌声だねぇ」
彼女の声に誘われて、このまま春が来ればいいのに。寒さに背を丸めながら、エリオはそんな事を思った。