月夜の下で
妖怪とはいったい何なのだろうか。
“人間” は人に害を及ぼす物の怪、妖怪と呼称している。
では妖怪にとっての”妖怪” とは何なのだろう。彼らはただ必要だから人を喰らい、時には利用し、その心の赴くままに生きている。それが妖怪にとっての当たり前のことだから。
だから人は妖怪を恐れる。喰われるから、騙されるから、理解が出来ないから。精神が人のソレでは測れない畏れを込め、人は彼らを妖怪と呼んでいる。
人間が彼らを理解できないのは、何もその行動だけではない。彼ら彼女らの容姿も含まれる。彼らは一様に美しく、醜い。歴史を紐解けば妲己を始めとした傾国の美女も、その美しさから物の怪の類ではないかと噂されることから、彼ら彼女らの容姿は人の理解から程遠いものだということが解る。
四季折々の花が咲く場所、そこには住まう花の主……風見幽香もまた、人の理解の範疇から超えた存在――妖怪であった。
その噂は何処から流れたのか。花の蜜を虫が運ぶように、その噂は広く大和の国を駆け回った。花を世話するとても美しい花の妖怪がいる、と。
人間の口伝にこんな話がある。幸か不幸、花妖怪に近づいてしまった旅人の話。
――あたり一面に咲く色取り取りの花。花を世話する女性も美しいが、身の丈に合わないことは言わずとも解る。ならばせめてもと、旅人は尋ねた。
「花を一つ、貰ってもよろしいか?」
花の主はこう答えた。
「構わない。しかしこの花は私が誠心誠意込めて育てた花。故にこちらも一つ、貴方から大切なものを貰う」
その旅人が何を奪われ、どうなったかは解らない。花しか居らぬ場所で起きた事など、花に聞かねば解らぬのだから。だがゆめゆめ忘れなさるな。その主は花を傷つけるものを決して許しはしない————。
◇
風見幽香。現在確認されている妖怪の中でも圧倒的な力と知名度を持つ、妖怪最強の一角と呼ばれる存在。
そんな存在が今、自身の目の前に悠然と立っている。それだけでも妹紅には驚くことなのだが、更に驚くことに決して手をだしてはならない部類に入る妖怪と、ただの魔法使い志望の大和が知り合いだと言う事実。
旅の道中で大和が妖怪の住む山に住んでいたと聞かされてはいたが、いったい大和の人脈はどうなっているのだろうか。知りたくもあるし、変に首を突っ込みたくもない。
妹紅は腑に落ちない……が、目の前の事実がそれが現実だと訴えている。信じないわけにもいかない。
――それにしても、大和は私が思っていたより弱くはないみたいだな。
当然抑えているだろうとはいえ、幽香は最強の一角。常時で感じられる妖力ですら、常人に耐えられるものではない。
にも拘らず、それをまるで感じていないかのようにピンピンしている。
――いや、案外本当に感じていないだけなのか? 図太い奴だし、まだそこまで力の差が分からないのかも。
「元気にしていた?」
「あ、はい、御蔭様で元気にしてました。今は母さんに許可を貰って、魔法使いになるための旅をしているところです!」
「じゃあ行き先は都?」
「はい! 幽香さんは何処に行くんです?」
目の前に立った者は誰であろうと再起不能になるまで叩きのめす妖怪……と妹紅は勝手な想像をしていた。しかし、実際に行われているのは、まるでお茶を呑みながら話されるような和やかな会話。
やっぱり自分の目で見てみないと分からないものだな、と妹紅も安堵の息を吐いた。
「偶然ね。私も都に行くつもり……だったのだけどね。もう、いいわ」
「え、え? 幽香さん……?」
「もっと面白そうなのを見つけたのだから」
「ッ、大和! 下がれっ!」
呆けたように固まる大和の前に飛び出し、振り下ろされた傘を腕で受け止める。大和と違って反応できたのは、一重に経験の差だ。妹紅は唇を噛んだ。
「なっ、なん――」
「下がれ大和! お前が敵う相手じゃない!」
後で喚く大和を振り向かずに付き飛ばした。同時に、体中から炎を生み出す。妹紅の期待通り、幽香は一旦距離を取る。
――腕が逝った……クソ、どんな馬鹿力だよ!
後にお荷物、前には化け物。勝利条件は、大和を都まで逃がすこと。凄腕の陰陽師のいる都になら、おいそれと手は出せないだろう。
逆に敗北条件は、大和がやられること。しかし、逃がすだけならどうとでもなる。敗北条件に自分の死がないだけ、勝率はぐんと上がる。
妹紅は瞬時にそう判断した。
「大和、合図したら都に向かって全力で走れ。何が起きても絶対に振り向くな」
「まっ、待って! 妹紅はどうするつもりなの!?」
「こいつをぶっ飛ばす。その後のことは考えてない」
「強気なお嬢さん、言動に伴う強さがないとただの強がりにしか見えないわね。あらごめんなさい、正直に言いすぎたかしら? でも安心するといいわ。遊びだもの、たぶん死にはしないわ」
幽香の表情が、妖怪らしい美しい笑みで固定された。
それを見た妹紅の表情も、戦闘用の獰猛なものへと変わっていく。
「よくもまぁ、それだけヤル気を出しているくせに堂々と嘘を吐けるな。お前、私たちで”遊ぶ” つもりなんだろ? ……させるかよっ!」
叫び声と共に、特大の炎弾を投げつける。あまりの熱量に自身の肌すら焼けそうな強力なものだ。視界を覆うくらい造作もない。
「行けっ!」
「~っ! 絶対、絶対後で会おうね! 信じてるからっ!」
着弾と共に上がった爆音に負けないよう、声を張り上げた。
◇
三年くらい前だったかな。山に来た幽香さんを見つけて、少しだけ一緒に遊んだのは。
あの時は楽しかったなぁ……あまり憶えてないけど。魚を獲ってもらって、そのあと山の案内をしたような。
気付いた時には服が土塗れだったから、よく遊んだんだとは思う。後でどうしてか、母さんたちに拳骨もらうほど怒られたんだけど。
そんな、友達になれたと思っていた人から、僕は逃げている。
後から上がる爆音と衝撃が、地面と空気を振動して伝わって来る。とんでもない量の妖力に、足の感覚が少し遠く感じる。母さんたちで妖力慣れはしているつもりだったけど、本当に殺されるって思ったら、目の前に本人がいなくても震えを止められない。
だから僕は逃げた。妹紅に逃げろって言われたからじゃないんだ。妹紅を信じているから逃げたわけでもないんだ。
「うっ、ヒック……ごめん、モこう……っ!」
立ち向かう勇気がなかったんだ!
仕様がないじゃないか!
本当に、本当に殺されかけたんだから!
だって!
だって!!
「僕は……弱いんだから…」
少しでも早く都へ逃げるんだ。足手纏いの僕に出来ることなんて、それくらいしかないんだ。
けど、現実はそれほど甘くはないってことを、僕はまだ知らなかった。
「■ ■ ■!」
「■ ■ ■ ■!!」
「え!? な、何が起きたの!?」
遠くで闘っていたはずの声がだんだん大きくなって、気付いた時には進むはずだった道が荒れ地に変わっていた。
「も、妹紅!?」
目を凝らして見ると、その中心に妹紅が倒れていた。
「ぁぁ……あああ! 妹紅! 妹紅!!」
倒れている妹紅は虫の息だった。血が出て、僕が見てももう助からないことが解るほどに。止血しようと手で圧迫しても、溢れだす血を止められない。
「わるい、こんなの、かっこわりぃだろ……」
「そ、そんなことどうでもいいよ!」
「しんぱいするな……これくらい、すぐなおるさ」
僕を安心させようとしているんだろう、妹紅は笑ってそう言った。
でももう無理だ。血が、妹紅の身体から流れだす血が止まらないんだ。
「――――」
「僕が……逃げたからこんなことに……っ!」
逃げたからだ。目の前の死に立ち向かう勇気がなくて、力がないことを理由にして。
あの時、僕も一緒に戦うって言えていれば。
あの時、妹紅を一人で闘わせていなければ。
こんなことにはならなかったのかもしれない。
でも、妹紅はもう眠ってしまった。僕を守って。
「――仇討ちだ」
僕がやるんだ。逃げるもんか! 少しの間だったけど、他人の僕に姉のように接してくれた妹紅をやられて、そのまま黙ってなんていられるわけがない!
「あらあら、本当に期待はずれだったわね」
覚悟を決めた僕の真後ろから、ふと声が聞こえてきた。ゆっくり、ゆっくりと振り返った。
「大和、貴方は楽しませてくれるのかしら?」
血の気が引いていた。立ち向かう覚悟を決めたはずなのに、今すぐにでも逃げ出したくなった。
――僕は何に立ち向かおうとしてたんだろう?
――何でこんな人相手に仇討ちをしようだなんて考えられたんだろう?
僕の覚悟なんて、吹けば飛ぶ塵程度のものでしかなかった。本人を前にした瞬間、臆病な僕の身体は震えて言うことを全く聞いてくれない。
僕は……今日を生き残れる自信がない。
「重り、外した方がいいと思うけど」
「……どうして僕たちを襲うんですか?」
何でそんなことを聞いたんだろう。少しでも命を長らえたいからだろうか? 少なくとも、僕が重りを外すまでの時間は与えられた。
「生きていたら、教えてあげるわ」
逃げられないなら、もうやるしかない。
◇
「上手に避けるわね。その右目のおかげかしら?」
右目に魔力を集中、能力はちゃんと発動してる。迫りくる暴力の嵐を”視て” 、しっかり躱すことができている。それでも手加減されているのが分かる。僕がなんとか躱せる速さで攻撃されていることが、僕に分かるように示されているから。
――でも、それが分かるくらい落ち着いていられる。なんでだろう、冷静でいられる訳がないのに。
妹紅をやられた時、自分でも分かるほど頭に血が昇っていた。それが、今は驚くほど冷静に状況を判断しようとしている。そうしないと勝てないと分かっているみたいに。
でも、今はそんなことどうでもいい。
この状況を打破しないと。どうにかして幽香さんを封じ込めないといけない。
「本当に上手に避けるのね。少し楽しくなってきたわ」
当たれば即死級の拳を躱すと同時に後方に大きく跳躍、左指からそれぞれ一本ずつ魔力糸を飛ばす。動きながらじゃ直線的な動きしか出来ない。避けられることは未来を視なくても分かる。
重要なのはその避けた場所! そこに全てをつぎ込んだ一撃を込める! 能力を発動した僕には、その場所が手に取るようにわかるんだ!
「そこ――」
左手の魔力糸を強引な操作で横に薙いで躱させる。
予想通り避けてくれた幽香さんに向かって、本命の軟らかい動きが可能となった右手の魔力糸を繰った。四方から襲いかかった魔力糸は目論見通り、幽香さんの身体を幾重にも巻き付き拘束した。
「――だぁッ!」
妹紅の炎弾並みとは言えない。それでも、着弾と同時に辺りが爆音と土煙に包まれる。
「まだまだぁぁぁぁぁぁ!!」
まだだ! 相手は母さんと同じくらいだと思って当たらないといけない相手! あの程度じゃびくともしない! もっともっと、体中の力を全部吐き出すまでやっても足りないくらいだ。
そう魔力を吐きだすように弾を放っていると、突如爆音の中から暴風が吹き、僕の魔力弾が跳ね返ってきた。
「うわ!?」
突然の事に驚きながらも、何とか身を捻ってそれを躱せば、土煙の中から無傷の幽香さんが出てきた。
「……これが全力なら、期待はずれもいいところね」
「ぁ――」
次の瞬間、僕の腹部に尋常じゃない衝撃が襲った。地面と空が変わり変わりに視界に入ったと思ったら、地面に何度か身体を打ちつけて止まった。あまりの衝撃に息が出来ず、口からは声にならない言葉が零れた。
「服が焦げる程度しかできないの?」
「ぅ……ゲホッ!」
「……もう少し楽しめるかと思ったのだけど」
日傘の先に膨大な妖力が集まっていく。あれは……あれは拙い! 忘れられないあの光景、幽香さんを憶えるようになった原因! 一度しか見たことないけど、あの時のあれは死んでも可笑しくない威力だった!
――何とかして避けないと。
そう思って起き上がろうとするも、殴られた衝撃でまだ身体が動かない。
「もういいわ、さよなら」
視界を埋め尽くす程の形となった妖力が僕に向かって放出される。駄目だ、避けられない。
「やまとぉ!」
「も、こう……?」
諦めた僕の目の視界いっぱいに、見なれた白髪と後ろ姿が目に入った。両腕から炎の壁を出して、妖力の奔流から僕を守ってくれている。
「なに……やってるんだ、なにやってるんだ妹紅!」
「一人じゃなにも出来ない餓鬼を残して、そう簡単にくたばるわけにはいかないだろ!」
「血も止まってないじゃないか! 本当に、本当に死んじゃうよ!!」
「五月蠅い! お前は魔法使いになるんだろ!」
「!?」
「だったらこんな所で私なんかの為に仇討ちなんて考えずに、わき目も振らずに逃げろ!」
駄目だ……それじゃ駄目なんだよ妹紅! 今ここで逃げたら、きっと僕はまた逃げることになる。何かを言いわけにして絶対逃げ出す。そんなのは嫌なんだ!
「ぐっ……こっこの野郎…ッ!」
「妹紅!? 僕はいいから逃げて! このままじゃ妹紅が!!」
「安心…っしろ! ……お前だけは、守ってやる!!」
炎の壁は既に消滅してしまったが、妹紅は素手になっても力の奔流を受けとめようと奮闘している。でも、いくら身体強化しててもそれは無茶でしかない。
「妹紅……?」
力の奔流が終わった時には、妹紅の両腕は肩から無くなっていた。その他にもあちこち焼け爛れた妹紅が、遂に僕の前で崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「妹紅! 妹紅!! しっかりして!?」
ようやく動けるようになった体を動かして妹紅の身体を揺すった。血まみれ、死に体。両腕を失い、その言葉通りになっている妹紅の血が僕の服や両手を紅く染め上げた。口からは微かに『逃げろ』 と言う声が流れ出ていた。
「残念、もうその子は助からない。あなたを庇ったせいで死ぬの。知っておきなさい大和。この世界では力の無い者、弱さは罪なのよ。あなたの弱さがこの結果を招いた」
「……んで、こんな……ッ!」
自分が弱いのはよく分かっていた。でも今までだって何とかなってきた。だからこれからもどうにかなる、そう思ってた! 自分のせいで人が死ぬなんて、思ってもみなかった!
でも今目の前にいる妹紅はそんな僕を庇って、死に掛けている! 弱さが罪だと言うのなら、僕は存在自体が罪なのか!?
「なんで……なんでだよ!!」
そんな訳ない! 絶対にあるわけない! 大切なのはその弱さを克服すること! 得た力をどう使うかのはずなんだ! 少なくとも、僕はそうやって習ってきた!
妹紅をやられた怒りに身を任せて、そう叫びながら幽香さん目がけて走りだした。歯が立とうが立たまいが、そんなことはもうどうでもいい。堪忍袋の緒が切れた! 勝てないのならそれでもいい、目の前の敵の、せめて片腕だけでももらっていく!!
「フフ…いい顔になったわ。さあ、掛かってきなさい!」