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布団の中の平和論と、熱々のみそ汁 ――世界が怖くても、今日の朝ごはんはおいしい――

掲載日:2026/10/17

『布団の中の平和論と、熱々のみそ汁』


――世界が怖くても、今日の朝ごはんはおいしい――


第一章 迎撃ミサイルより先に、私の心が撃墜された


「ちょっと待ちなさいよ! 迎撃ミサイルが足りないって、どういうことなのよおおお!」


十月の朝。


東京都板橋区の片隅にある、築四十年の木造アパート。


六畳一間に、かおるこの絶叫が響き渡った。


窓の外では、秋風に揺れる洗濯物が、のんきに踊っている。


しかし、布団の中に潜むかおるこの心は、すでに第三次世界大戦の真っただ中だった。


「ウクライナの防空が危ないって……じゃあ日本はどうなのよ! もしミサイルが飛んできたら、私の小説の続きは誰が書くのよ!」


スマホのニュース画面を握りしめ、かおるこは震えた。


「まだ悪役令嬢が婚約破棄されたところなのよ! ざまぁする前に作者が吹き飛んだら、読者に申し訳が立たないじゃない!」


深刻なのか、ふざけているのか。


本人だけは大真面目だった。


「憲法九条があるから大丈夫? そんなわけないでしょう! ミサイルが空中で条文を読んで、『あっ、日本は戦争放棄してるんですね。失礼しました』って引き返すわけないじゃない!」


かおるこは布団を頭からかぶった。


「神風も期待できないし! 令和の神風なんて、せいぜい洗濯物を隣のベランダに飛ばすくらいよ!」


そのとき。


台所から、包丁の音が聞こえてきた。


トントントン。


規則正しい音。


続いて、焼き魚の香ばしい匂い。


じゅううう。


「……なんなのよ、この平和な音は」


かおるこは布団の隙間から鼻だけ出した。


「世界が大変なときに、誰が鮭なんか焼いてるのよ……」


「俺だよ!」


台所から息子の声が飛んできた。


「母さん! 朝から世界を救おうとする前に、顔洗って!」


「和俊! アンタは危機感というものがないの!?」


「あるよ! 今いちばん危機感があるのは、母さんが昨日から風呂に入ってないことだよ!」


「国家存亡の危機と私の入浴を同列に語るんじゃないわよ!」


「近所迷惑だから声量落として!」


かおるこは布団の中で拳を握った。


「ああ……世界はどうして、こんなに残酷なの……」


「母さんが一番残酷だよ。朝六時から隣の田中さん起こしてるんだから!」


第二章 憎い相手のために祈れるか


かおるこは、ふと数日前に読んだ文章を思い出した。


『憎い相手のためにも祈れる人間でありたい』


その言葉を読んだ夜。


かおるこは布団の中で号泣した。


「そうよね……憎しみからは何も生まれないのよね……」


涙をぬぐいながら、スマホに向かって頷いた。


「人間は愛し合わなきゃ……許し合わなきゃ……!」


ところが、その十分後。


投稿した小説に低評価が一つついた。


「誰よおおお! 私の作品に低評価つけたのはあああ!」


スマホを握りしめて叫んだ。


「許さない! 絶対に許さない! 今夜の新作では、性格の悪い評論家を悪役にして、徹底的にざまぁしてやるんだから!」


台所から和俊が顔を出した。


「母さん、さっき憎い相手のために祈るって言ってなかった?」


「祈ったわよ!」


「何を?」


「低評価をつけた人が、今後はもっと素晴らしい作品に出会って、私の小説の良さにも気づきますようにって!」


「それ、祈りというより営業活動じゃない?」


「うるさいわね!」


そして今朝。


世界情勢のニュースを見たかおるこは、再び泣いていた。


「だって……だってさあ……」


布団の中から、くぐもった声が漏れた。


「戦争で亡くなる人たちにだって、家族がいるのよ」


台所の包丁の音が止まった。


「朝ごはんを作ってくれるお母さんがいたり、くだらない冗談を言う息子がいたり……」


かおるこは鼻をすすった。


「昨日まで普通に暮らしてた人が、ある日突然、帰ってこなくなるなんて……」


和俊は何も言わなかった。


「私ね、怖いのよ」


「……うん」


「日本だって、いつまでも平和とは限らないでしょう?」


「そうだね」


「だから、ちゃんと考えなきゃいけないのよ。平和を願うだけじゃ足りない。でも、武器があれば全部解決するわけでもない。難しいじゃない……」


布団が小さく震えた。


「私、どうしたらいいのか分かんないのよ……」


しばらく沈黙が続いた。


やがて和俊が言った。


「母さん」


「……なによ」


「とりあえず、鼻かんで」


「そこ!?」


「だって、布団に鼻水ついてる」


「アンタって子はあああ!」


第三章 おじいちゃんの、しじみのみそ汁


やがて襖が開いた。


和俊がエプロン姿で立っていた。


「はい。世界平和会議、いったん休憩」


「まだ議論は終わってないわよ!」


「議長の俺が決めた」


「いつからアンタが議長になったのよ!」


「母さんが布団の中で勝手に国連総会を始めたときから」


かおるこは渋々、布団から這い出した。


寝癖は爆発。


目は真っ赤。


パジャマはよれよれ。


その姿を見た和俊が呟いた。


「……母さん、まず自分の国土を復興したほうがいいよ」


「誰が焦土よ!」


食卓には、炊きたての白いご飯。


皮がこんがり焼けた鮭。


小皿に盛られた漬物。


そして、湯気を立てるしじみのみそ汁。


かおるこは椀を見つめた。


「……しじみ?」


「そう」


「どうしたの、珍しいじゃない」


和俊は少し照れくさそうに笑った。


「今日、おじいちゃんの命日だろ」


かおるこの手が止まった。


「あ……」


すっかり忘れていた。


いや。


忘れていたわけではない。


思い出すと、胸が痛むから。


どこか心の奥にしまい込んでいたのだ。


「おじいちゃん、しじじみのみそ汁が好きだったよな」


「……そうだったわね」


「だから作ってみた」


かおるこは椀を両手で包んだ。


温かい。


指先から、じんわりと熱が伝わってくる。


「おじいちゃんね……」


ぽつりと呟いた。


「戦争が終わったあとの、大変な時代を生きた人だったのよ」


「うん」


「食べ物がなくて、お腹を空かせて……それでも家族のために働いて……」


かおるこの声が震えた。


「昔、言ってたの。『温かい飯が食えるってのは、ありがたいことなんだぞ』って」


和俊は黙って聞いていた。


「子どものころはね、そんなの当たり前じゃないって思ってた」


「……うん」


「でも、当たり前じゃなかったのよね」


涙がぽろりと落ちた。


「おじいちゃんたちが、必死に生きて、働いて、私たちに残してくれた毎日だったのよね……」


和俊はみそ汁を一口すすった。


「母さん」


「なによ……」


「おじいちゃん、もう一つ言ってたよ」


「何を?」


「『泣くなら飯食ってから泣け。冷めるぞ』って」


かおるこは思わず吹き出した。


「言ってた! あの人、そういうところだけ妙に現実的だった!」


「母さんと違ってね」


「余計な一言を挟まない!」


二人は笑った。


笑いながら、かおるこは泣いた。


そして、みそ汁をすすった。


ずずっ。


しじみの出汁が、疲れた体に染み渡る。


「……おいしい」


「よかった」


「おじいちゃんの味に似てる」


和俊は少しだけ得意げになった。


「ネットでレシピ調べた」


「……おじいちゃん、ネットなかったわよ」


「だから俺の味だよ」


「そうね」


かおるこは微笑んだ。


「アンタの味ね」


第四章 世界平和より難しい、親子の会話


食事の途中。


かおるこは突然、真剣な顔になった。


「和俊」


「なに?」


「もし戦争になったら、アンタどうする?」


和俊の箸が止まった。


「……どうするって?」


「逃げるの?」


「状況によるよ」


「戦うの?」


「簡単には答えられない」


「そうよね……」


かおるこは俯いた。


「私ね、アンタには生きててほしいのよ」


和俊は母を見た。


「当たり前じゃん」


「当たり前じゃないのよ!」


思わず声が大きくなった。


「世の中には、当たり前に生きて帰ってこられなかった人が、たくさんいるんだから!」


和俊は静かに箸を置いた。


かおるこの目から、また涙がこぼれた。


「アンタが生まれた日ね……」


「うん」


「小さくて、真っ赤で、しわくちゃで……」


「悪口?」


「褒めてるのよ!」


「しわくちゃが?」


「うるさいわね!」


かおるこは笑いながら、涙をぬぐった。


「初めて抱っこしたとき、思ったの」


「何を?」


「この子だけは、絶対に守りたいって」


和俊は黙っていた。


「でもね……」


かおるこは窓の外を見た。


「世界がこんなに大きくて、怖いものだなんて、あのころは考えもしなかった」


遠くから、小学生たちの笑い声が聞こえてきた。


ランドセルを揺らしながら、子どもたちが通学路を歩いていく。


「私一人じゃ、アンタを守りきれないこともあるのよね……」


和俊はゆっくり口を開いた。


「母さん」


「……なによ」


「俺、もう大人だよ」


「知ってるわよ」


「だから、俺も考えるよ。自分のことも、母さんのことも」


「……うん」


「怖いニュースを見て、何も感じないわけじゃない。でも、怖いからこそ、ちゃんと知って、備えて、考えたい」


かおるこは息子を見つめた。


「アンタ……いつの間に、そんな立派なこと言うようになったの?」


「母さんが毎朝、世界の終わりを実況してくれるからね」


「教育の成果ね!」


「反面教師の成果だよ」


「ちょっと!」


二人はまた笑った。


しかし、その笑いの奥には、確かな温かさがあった。


第五章 ざまぁ小説は、平和の証拠


朝食を終えたかおるこは、机に向かった。


古いノートパソコンを開く。


画面には、書きかけの小説が映っていた。


『悪役令嬢は婚約破棄されましたが、領地のみんなと幸せになります』


かおるこは腕を組んだ。


「……よし」


和俊が洗い物をしながら尋ねた。


「今度は何?」


「決めたわ」


「何を?」


「今日中に新作を一本書き上げる!」


「さっきまで世界の終わりを心配してた人とは思えない切り替えだね」


「人間はね、絶望している暇があったら、創作するべきなのよ!」


「名言っぽいけど、母さん昨日も締め切り逃してたよね」


「それはそれ、これはこれ!」


かおるこはキーボードを叩き始めた。


カタカタカタ。


「悪役令嬢が理不尽な婚約破棄を突きつけられて……」


「うん」


「でも復讐なんかしないの!」


「へえ」


「自分を捨てた王子様の幸せを祈るのよ!」


和俊が振り返った。


「母さん、成長したじゃん」


「でしょう!」


「じゃあ、ざまぁ展開はなし?」


かおるこの指が止まった。


「……いや、それは困る」


「なんで?」


「読者が待ってるもの!」


「憎い相手のために祈るんじゃなかったの?」


「祈るわよ! 祈ったうえで、王子様には自分の愚かさを徹底的に反省してもらうの!」


「それ、結局ざまぁじゃん」


「違うわ! 教育的ざまぁよ!」


「新しいジャンル作らないで」


かおるこは勢いよく文字を打ち込んだ。


『王子様。私はあなたを恨みません。ただし、あなたの行いが領民を苦しめた責任については、きちんと向き合っていただきます』


「どうよ!」


「意外とまともだね」


「そうでしょう!」


「で、最後は?」


「領地のみんなで、熱々のしじみのみそ汁を飲むの!」


和俊は天井を仰いだ。


「異世界にしじみいるの?」


「いるわよ!」


「どこに?」


「私が創造主なんだから、いるったらいるの!」


「神様の権力、そういうところに使うんだ……」


かおるこは胸を張った。


「剣と魔法の世界にだって、出汁の文化は必要なのよ!」


和俊は吹き出した。


「母さん、それもう平和小説じゃなくて、異世界しじみ普及委員会だよ!」


「いいのよ! 戦争より、しじみの取り合いで揉める世界のほうが、よっぽど平和じゃない!」


「いや、揉めるんだ」


最終章 半径三メートルの平和を守る


昼前。


小説を書き終えたかおるこは、大きく伸びをした。


「完成ーっ!」


「お疲れ」


和俊がお茶を差し出した。


「ありがとう」


湯飲みから、白い湯気が立ち上っている。


窓の外は、すっかり秋晴れだった。


青い空。


遠くを走る電車の音。


ベランダに揺れる洗濯物。


隣の家から聞こえる掃除機の音。


何でもない日常。


かおるこは、ふと呟いた。


「ねえ、和俊」


「なに?」


「私、今朝は本当に怖かったのよ」


「知ってる」


「世界が壊れちゃうんじゃないかって」


「うん」


「でもね……」


かおるこは湯飲みを両手で包んだ。


「世界中の戦争を、私一人で止めることはできない」


「そうだね」


「だけど、だからって、何もできないわけじゃないのよね」


和俊は母を見た。


「例えば?」


「ちゃんとニュースを読んで、考えること」


「うん」


「選挙にも行くこと」


「うん」


「困っている人がいたら、できる範囲で助けること」


「うん」


「それから……」


かおるこは少し照れくさそうに笑った。


「アンタと、こうしてご飯を食べること」


和俊は黙って微笑んだ。


「平和ってね、きっと遠い国の偉い人たちだけが作るものじゃないのよ」


「そうかもね」


「もちろん、外交も安全保障も大事。現実から目を背けちゃいけない」


「うん」


「でも、こういう普通の朝を大切に思う気持ちも、忘れちゃいけないと思うの」


和俊は静かに頷いた。


「俺もそう思う」


その言葉を聞いた瞬間、かおるこの目から涙がこぼれた。


「……アンタ、優しい子に育ったわねえ」


「急に泣かないでよ」


「だって……おじいちゃんが生きてたら、きっと喜んだわ……」


和俊は少しだけ目を伏せた。


「俺も、おじいちゃんに食べさせたかったな」


「……しじみのみそ汁?」


「うん」


かおるこは鼻をすすった。


「きっと言うわよ」


「何て?」


「『和俊、うまいぞ。でも、ちょっと味が薄いな』って」


和俊は笑った。


「言いそう」


「それで私が怒るの。『せっかく作ってくれたんだから、文句言わないの!』って」


「うん」


「そしたら、おじいちゃんが言うのよ。『文句じゃない。次はもっとおいしくなるってことだ』って」


和俊の目にも、うっすら涙が浮かんだ。


「……おじいちゃんらしいね」


「そうね」


二人はしばらく黙っていた。


窓から吹き込む秋風が、カーテンを優しく揺らした。


やがて和俊が立ち上がった。


「さて、昼飯どうする?」


かおるこは涙をぬぐった。


「まだ朝ごはん食べたばっかりじゃない!」


「もう昼だよ」


「えっ!?」


時計を見る。


午前十一時五十八分。


「いやあああ! 私の貴重な午前中があああ!」


「世界平和を考えて、しじみ食べて、小説一本書いたんだから、十分じゃない?」


かおるこは一瞬、黙った。


そして、ふふっと笑った。


「……そうね。十分ね」


和俊が冷蔵庫を開けた。


「昼はうどんでいい?」


「いいわよ!」


「卵入れる?」


「入れる!」


「ネギは?」


「たっぷり!」


「七味は?」


「世界平和が実現するくらい!」


「量が分かんないよ!」


二人の笑い声が、小さなアパートに響いた。


世界のどこかでは、今も戦争が続いている。


理不尽な暴力に怯え、家族の帰りを待つ人たちがいる。


その現実は、みそ汁一杯で消えるものではない。


だからこそ、かおるこは願った。


どうか、遠い国の誰かにも、温かい朝ごはんが届きますように。


どうか、子どもたちが、明日も安心して学校へ行けますように。


どうか、家族がくだらない冗談を言い合える日常が、一日でも早く戻りますように。


そして、目の前の息子にも。


「和俊」


「ん?」


「今日も生きててくれて、ありがとうね」


和俊の手が止まった。


「……何だよ、急に」


「いいじゃない。言いたくなったのよ」


和俊は少し顔を赤くした。


「……母さんもね」


「え?」


「母さんも、今日も元気でいてくれて、ありがと」


かおるこの唇が震えた。


「和俊……!」


「ただし」


「……ただし?」


「明日の朝は、世界情勢のニュースを読む前に顔洗って」


「アンタって子はあああ!」


かおるこは泣きながら笑った。


和俊も笑った。


鍋の中では、うどんがぐつぐつと煮えていた。


湯気が天井へ昇っていく。


小さな部屋を、温かな匂いが満たしていく。


かおるこは思った。


世界平和なんて、私一人には大きすぎる。


でも、この半径三メートルの平和なら。


この子と笑って、温かいものを食べて、明日を迎えることなら。


今日も、精いっぱい大切にできる。


「和俊!」


「今度は何!?」


「うどん、二玉にして!」


「母さん、さっきまで食欲ないって言ってたじゃん!」


「平和を守るには体力が必要なのよ!」


「ただの食いしん坊じゃん!」


「うるさい! 食べられるときに食べる! これが我が家の安全保障よ!」


笑い声が、また弾けた。


秋の陽射しは、何事もなかったように窓辺を照らしていた。


世界中の平和を願いながら、今日も親子は、熱々のご飯を食べる。


それは小さくて、ありふれていて、けれど何にも代えがたい、幸せな抵抗だった。


――完――



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― 新着の感想 ―
どうか、家族がくだらない冗談を言い合える日常が、一日でも早く戻りますように。 そうですね。 ネットは顔が見えないから、面白がって低評価付ける人もいるかも
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