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授業中ノートの端に「好き」と書いた

作者: たくわん。
掲載日:2026/04/12

「好きな人いる?」


 そう書かれたのは、五月の数学の授業中だった。


     *


 篠原ひなは今、死ぬかもしれない。


 原因は隣の席の久我凌が、シャープペンシルで私のノートの端にさらっと書いた、たった七文字だ。


 「好きな人いる?」


 視線だけ動かして、久我を確認する。久我は黒板を見ていた。いつもの涼しい顔で。先生の話を聞いているのか聞いていないのかわからない、眠そうな目で。


 この人は今、何を書いたのかわかってるんだろうか。


 五月の、ある水曜日。私はひとりで問い直した。


 久我凌という人は、高校二年に進級して隣の席になるまで、ほぼ接点がなかった。同じクラスになったのも今年が初めてだ。成績が良くて、背が高くて、話しかけると一言で終わらせてくる人、というのが私の中での印象だった。


 それが四月の終わりごろ、唐突に変わった。


 最初は消しゴムを貸してくれたことだった。「貸して」じゃなくて、黙って横に置いてあった。使い終わって返したら、今度は黙って受け取った。


 次の日、窓が開いていてプリントが飛びそうになったとき、黙って押さえてくれた。


 その次の日、給食の時間に「それ嫌いなの?」と言われた。パプリカの話だった。「嫌いじゃないけど得意じゃない」と答えたら、「俺に寄越せ」と言われた。


 接点が生まれた。気づいたら話すようになっていた。


 そして今日、「好きな人いる?」と書かれた。


 なんで。なんでそんなこと聞くんだ。


 しかも授業中に。しかもノートに。しかも黒板を見ながら何食わぬ顔で。


 私はシャープペンシルを持つ手が震えないように気をつけながら、ノートの端に返事を書いた。


 「なんで急に」


 久我のノートに、するっと押しつけた。


 久我は視線を落として一瞬見て、また私のノートに何かを書いた。


 「いるのかいないのかだけ答えろ」


 余白が狭くなってきた。私は端のさらに端に書いた。


 「なんで教えなきゃいけないの」


 久我がまた見た。少し間があってから書いた。


 「俺が聞きたいから」


 心臓が変な音を立てた。


 授業中に一人でどうしてるんだ私は。


     *


 久我との「ノートやりとり」は、そこから習慣になった。


 最初は授業中だけだったのが、気づいたら自習時間にも、休み時間の暇なときにも、ノートの端に何か書いては見せ合うようになっていた。


 だいたいの内容はくだらない。


 「今日の昼なに食う」「パン」「また?」「うるさい」

 「先生の話長すぎる」「同意」「眠い」「寝るな」「なんで」「注意されてもめんどくさいから」

 「この問題わかる?」「わかる」「教えて」「百円」「ケチ」


 こんな感じだ。


 くだらない。でも毎回ちょっと楽しみにしてる自分がいる。


 問題は、私がこの交換日記みたいなやりとりをしている相手に、片思いをしているということだ。


 久我凌のことが好きになったのは、ゴールデンウィーク明けくらいだった。


 クラスの雰囲気がうるさい日に、久我だけが静かに本を読んでいた。その横顔を見た瞬間に、あ、好きだ、と思った。理由はそれだけだ。弱すぎる理由だとはわかっている。


 でも、消えない。


 毎日隣の席にいるから、当然消えるわけがない。むしろ毎日増えてる。


「篠原」


 ある日の数学の授業中、久我が小声で呼んだ。


「なに」


「答え何番」


「自分で考えて」


「おかしいと思う? 俺の答え」


 ノートを横に傾けて見せてきた。覗き込む距離になって、ちょっと焦った。


「……三番だと思う」


「同じだった。じゃあいい」


「じゃあなんで聞いたの」


「確認したかった」


 久我がさらっと前を向いた。


 なんなんだ。


 でもこういう、当たり前みたいに頼られる感じが、心臓に良くない。


     *


 転機は六月の雨の日だった。


 放課後、昇降口で傘を開いたら、久我が隣に立っていた。


「傘ある?」と久我が聞いた。


「あるよ」と答えた。


「じゃあ俺に貸して」


「私はどうするの」


「一緒に入る」


 心臓が止まった。


「……降ってるの弱いし、走ったら大丈夫だって言えばよかったんじゃない」


「走りたくない」


「私の都合は?」


「一緒に入ればいいだろ」


 当たり前みたいに言う。この人は本当に当たり前みたいに言う。


 結局、二人で一本の傘で帰った。


 私の折り畳みは小さいので、二人で入ったら自然と距離が縮まった。久我が持つほうが高さが合うからと傘を持ってもらったら、逆にちゃんと傘が上に来た。雨が久我の肩にかかった。


「久我くん、濡れてるよ」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない」


「篠原が濡れるほうが嫌だから」


 何を言うんだ。


 何を。


 普通に言った。事実を言うみたいに、さらっと。


 私は返事ができなかった。黙って歩いた。


 久我も黙って歩いた。


 雨の音だけが聞こえた。


 バス停で「俺はここで」と久我が言って、傘を返してきた。


「ありがとう」


「うん」


「濡れたじゃん」


「少しだけ」


「少しじゃないよ」


「篠原が濡れなかったからいい」


 また言った。


 また言う。


 バスが来て、乗り込んで、窓から外を見たら久我が歩いていくのが見えた。少し濡れた肩が、遠くなっていった。


 次の日、ノートの端に書いた。


 「昨日ありがとう」


 久我がちらっと見て、書いた。


 「どうせまた忘れるだろうから覚えとけ、折り畳みは雨の日しか使えない」


 なんか悔しいけど正しい。


 私はまた書いた。


 「久我くんはなんで傘持ってなかったの」


 久我が書いた。


 「予報見てなかった」


 私はまた書いた。


 「天気予報くらい見てよ」


 久我が書いた。


 「お前が晴れてるって言ったから信じた」


「い、言ったっけ」


 声が出た。久我が目だけで「声出すな」と言ってきた。


 私はノートに書いた。


 「言ったっけ」


 久我が書いた。


 「朝、昇降口で。今日天気いいねって」


 完全に記憶にない。でも言いそう。私、よく言う。


「……ごめん」


 小声で言ったら、久我がシャープペンシルを持ったまま、こっちを一回見た。


「別に怒ってない」


 声で言ってくれた。


 声で言われると、ちょっとだけ距離が縮まる気がして、毎回うれしい。


     *


 七月。


 ノートのやりとりは続いていた。内容はあいかわらずくだらない。でも時々、くだらなくないやりとりが混じる。


 ある日の英語の授業中、久我が書いた。


 「篠原って笑うとかわいいな」


 は?


 は?????


 私は三回読み直した。


 「笑うとかわいいな」


 書いてある。確かに書いてある。久我の字で。


 何これ。どういうこと。何をどう解釈すればいい。


 私はペンを持ったまま固まっていた。隣を見る勇気がない。見たら絶対に顔が赤いのがバレる。


 三十秒くらい固まってから、なんとか書いた。


 「急になに」


 久我がさらっと書いた。


 「今笑ったから」


 「なんで笑ったの」


 「先生が言い間違えた」


 確かに笑った。でも普通にクスってしたくらいだ。それで「かわいい」って書く?


 私はノートに書いた。


 「急にそういうこと書かないで」


 久我が見た。少し間を置いて、書いた。


 「なんで」


 「恥ずかしいから」


 久我がまた見た。今度はもう少し長く見た。


 私は正面を向いたまま、視線を感じていた。


 久我が書いた。


 「照れてるの?」


 「照れてない」


 「耳が赤い」


 最悪だ。バレてる。


 「赤くない」


 「赤い」


 「赤くない!!」


 「声出た」


 出た。また出た。クラスの何人かがこっちを向いた。先生もちらっと見た。私は「すみません」と小さく言って、ノートに書いた。


 「全部久我くんのせいです」


 久我が書いた。


 「ごめん」


 さらっと書いた。


 でもその字の横に、小さく、すごく小さく、もう一個書いてあった。


 「かわいかった」


 見なかったことにした。


 でも心臓がうるさくて、英語の授業の内容は何も頭に入らなかった。


     *


 「久我くんのこと、好きじゃない?」


 親友の桐谷あおいに言われたのは、七月の半ばだった。昼休み、二人で購買の前のベンチに座っていた。


「……なんで」


「顔」


「どんな顔」


「久我くんの話になるときの顔」


「どんな顔なの」


「今の顔」


 私は口をつぐんだ。


 あおいが三口サイズのチョコパンを食べながら、こっちを見ていた。観察するみたいな目で。


「昔から顔に出るんだよ、ひなって」


「出てないと思ってたんだけど」


「全然出てる。好きな人できたときの顔と、久我くんの話するときの顔が、ぴったり一致してる」


 私は天井(外なので空だが)を見た。


「……バレてるかな、久我くんに」


「さあ。あの人、表情少ないから何考えてるかわかんないけど」


「そうなんだよね」


 久我は感情が表に出ない。出ないんだけど、ノートのやりとりのときだけ、ちょっとだけ違う気がする。でも気のせいかもしれない。


「ノートにかわいいって書かれた話、もう一回聞かせて」


「さっき話したじゃん」


「もう一回」


「……『笑うとかわいいな』って書かれて、照れてるって言ったら、耳が赤いって言われた」


「で、最後に小さく『かわいかった』って書いてあった」


「そう」


「ひな」


「なに」


「それ、好かれてるよ」


 心臓が跳ねた。


「そ、そんなわけ」


「なんでそんな書くの。好意がないと」


「友達としての『かわいい』とか」


「あのさ、ひな。男子がクラスのそんな仲良くもない女子のノートに、授業中に『かわいい』って書くと思う?」


 思わない。


 普通に思わない。


「……思わない」


「でしょ」


「でもそれは」


「で、も?」


「久我くんが脈ありとは限らなくない? その場の勢いとか」


「じゃあ聞いてみれば」


「無理」


「なんで」


「振られたら隣の席に三月まで座り続けなきゃいけない」


 あおいが少し考えた。


「それは確かに地獄だね」


「地獄でしょ」


「……でも伝えないまま三月になるのも地獄じゃない?」


 返せなかった。


 正しいからだ。


 伝えないまま終わるのも、十分すぎるくらい地獄だ。


「……考える」


「考えてる間に久我くんに取られても知らないよ」


「誰に取られるの」


「さあ、誰かに」


「誰かって誰だよ」


「仮定の話。でも、好きなら言ったほうがいいよ。後悔するより」


 あおいはパンを食べ終えて、立ち上がった。


「ひな、久我くんと話してるとき、すごくいい顔してるよ。それはちゃんと見てるから言える」


 そう言って、「お昼終わる前に戻ろ」と歩き出した。


 私は少しの間、ベンチに座ったままだった。


 久我と話してるとき、いい顔をしている。


 自分では全然わからないけど、あおいがそう言うならそうなんだと思う。


 三年間じゃなくて、まだ三ヶ月しか経ってない。


 でも確かに、久我凌が隣の席でよかったと、毎日思っている。


     *


 八月。文化祭の準備が始まった。


 クラスの出し物は喫茶店になった。私は看板係になって、久我は設営係になった。係が違うので、準備のときは別々に動くことが多かった。


 ある日の放課後、看板の作業が終わって片付けをしていたら、教室に久我が一人でいた。


「まだいたの?」


「設営の寸法測ってた。お前こそ」


「看板の塗り終わった」


「見ていい?」


「うん」


 久我が廊下に出てきて、乾かしている看板を見た。私が絵を担当した部分と、別の子が文字を書いた部分がある。


「うまいな」


「絵が?」


「うん」


「ありがとう」


「習ってた?」


「中学まで美術部だったから」


「そっか」


 久我がじっくり見ていた。


 誰かに絵を褒められること自体は珍しくない。でも久我に褒められると、なんか違う重さがある。心臓のあたりに落ちてくる感じがする。


「久我くんは絵、描かないの」


「描けない」


「設営は得意そうだけど」


「測って切って組むやつはできる。センスが要るやつはできない」


「センスって言うほど私はうまくない」


「うまいと思う」


 また言う。


 さらっと言う。


 「うまいと思う」って言うとき、久我の声はいつもと全然変わらない。感情のない声で「うまいと思う」と言う。だから余計に、本当に思ってるんだなとわかる。


「……ありがとう」


「ここ、この花、実物見て描いた?」


「写真。向日葵、今の時期そんなに咲いてないから」


「きれいに描けてる。立体感がある」


「久我くん、絵に詳しいの?」


「詳しくない。でもきれいなものはわかる」


 なんかもう、全部がキュンポイントだ。


「……久我くんってさ」


「うん」


「普段そういうこと言わないじゃん」


「そういうこと?」


「きれいとか、うまいとか」


 久我が少し考えた。


「言う相手がいなかっただけ」


「私には言うの?」


「言いやすい」


「なんで」


「なんでだろ」


 答えになってない。でもなぜか嬉しかった。


「私も、久我くんと話しやすい」


 言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。久我が視線を向けてきた。


「そう?」


「そう。最初は一言で終わらせてくる人だと思ってたけど」


「今も一言で終わらせてる」


「終わらせてないよ、今。ちゃんと話してる」


「……そうだな」


 久我が、久しぶりに笑った。口角が少し上がっただけの、小さな笑い方。でも私はそれを見るたびに、心臓が一回余計に打つ。


「久我くん、たまに笑うじゃん」


「たまに?」


「いつも無表情だから。笑うとちょっとびっくりする」


「俺、そんなに無表情か」


「うん」


「自覚なかった」


「でも笑うとかっこいい」


 言ってから、死ぬかと思った。


 何を言った私は。


 久我が一回止まった。


 完全に止まった。


 そしてゆっくりこっちを見た。


「……今、なんて言った?」


「な、なんも言ってない」


「言った」


「言ってない!」


「聞こえた」


「聞こえてない!!」


「笑うとかっこいい、って言った」


「言ってない!!!!」


「声でかい。廊下に響く」


「……っ」


 私は看板の方を向いた。向いて、ひたすら看板の向日葵を見た。私が描いた向日葵。どうでもいいんだよ今向日葵じゃなくて。


 久我が少し黙った。


 そして言った。


「……ありがとう」


 また小声だった。


 向日葵を見たまま、振り返れなかった。


 顔が、絶対に赤いから。


     *


 文化祭当日。


 クラスの喫茶店は盛況で、私も接客係で動き回っていた。エプロンをつけて、メニューを持って、注文を取って。忙しかったけど楽しかった。


 久我は設営した空間を直したり、不足した備品を補充したりしていた。


 昼過ぎに少し人が減ったタイミングで、久我が「休憩」と小声で言って、裏の廊下に出た。私も交代で休憩に出て、そこに久我がいた。


「疲れた?」と聞いた。


「少し。篠原は?」


「私も少し」


 廊下の窓から外が見えた。校庭でいろいろな出し物をやっていて、人が多かった。


「久我くん、設営きれいだったよ」


「そうか」


「テーブルとか椅子の間隔、ちょうどよくて動きやすかった。測って切って組むやつが得意って言ってたもんね」


「覚えてた?」


「うん」


「……篠原って、いろいろ覚えてるな」


「え、そうかな」


「俺が言ったこと、けっこう覚えてる」


 言われて初めて意識した。


 確かに覚えている。久我が言ったことは、だいたい全部。


「……好きな人の言葉は覚えてるんじゃないですかね」


 言ってから、口を押さえた。


 何を言った。今何を言った。


 久我が完全に止まった。


 今日二回目の「完全に止まる」だ。


「……今、なんて言った?」


「……聞こえなかった」


「聞こえた」


「……空耳」


「俺の耳は正常だ」


「……風の音では」


「風は吹いてない、廊下の中だから」


 ひとつひとつ潰してくる。


 私は窓の外の校庭を見ながら、「もういいや」と思った。


「……好きな人の言葉は覚えてるって、言いました」


「うん」


「……それは、つまり」


「つまり?」


「久我くんのことが……その、ちょっと好き、みたいな感じで、あるかも、しれない、という」


 語尾が消えた。


 久我が何も言わなかった。


 五秒くらい、何も言わなかった。


 私は窓の外を見たまま、心臓の音を聞いていた。廊下の向こうから、文化祭の賑やかな音が聞こえた。


 久我が、ゆっくり口を開いた。


「ちょっと?」


 え。


「ちょっと好き、って言った?」


「……はい」


「ちょっと、が気になる」


「き、気になるとは」


「ちょっとじゃなくて、けっこう好き、とかじゃないの」


 何を言うんだ。


 何を言うんだこの人は。


「……ちょっとよりは多いかもしれない」


「どのくらい」


「どのくらいって」


「毎日?」


「……毎日」


「隣の席になってから?」


「……なってから」


 久我がまた黙った。


 私もう死ぬかもしれない。廊下で。文化祭の日に。


「篠原」


「なに」


「顔、こっち向けて」


「向けたくない」


「なんで」


「顔が赤いから」


「見たい」


「見せたくない」


「篠原」


「なに」


「こっち向けないなら、こっちから行く」


 久我が一歩近づいた。私は窓の外を向いたまま、身動きが取れなかった。


 久我が隣に立った。


 二人で窓の外の校庭を見ている形になった。


「俺も、毎日だ」


 小声で言った。


「え」


「隣の席になってから、ずっと」


 振り向けなかった。振り向いたら、たぶん顔が赤いのが全部バレる。でも振り向きたかった。


「……久我くん」


「なに」


「今、何を言った?」


「俺も毎日、と言った」


「それって」


「篠原と同じ意味で」


「つまり」


「つまり、俺も、ちょっとよりけっこう多めに、好きだよ」


 廊下に声が漏れそうになった。こらえた。こらえながら、ゆっくり久我の方を向いた。


 久我が、こちらを見ていた。


 眼鏡の奥の、静かな目が、今日は静かじゃなかった。


 少し、赤かった。


「……久我くんって、顔赤くなるんだ」


「なる」


「知らなかった」


「篠原の前では初めて」


 また死ぬかと思った。


「……私も赤い?」


「赤い」


「見ないで」


「見てる」


「見ないで!」


「かわいい」


 七月のノートの「かわいい」が、今日は声で言われた。


 あのときより五百倍、直撃した。


「……もう無理」


「何が」


「久我くんのそういうとこが、全部ずるい」


「ずるくない」


「ずるい。かわいいとかきれいとか笑うとかっこいいとか、あっさり言うじゃん」


「篠原が先に言った」


「私は事故みたいなもんだよ!!」


 声が出た。また声が出た。


 久我が今度こそ笑った。さっきより大きく。声がほんの少し漏れるくらい。


 久我の笑い声を聞いたのは初めてだった。


 聞いた瞬間に「もっと聞きたい」と思った。


「……笑った」


「笑った」


「初めて笑い声聞いた」


「そうか」


「かわいい」


「俺が?」


「言い返してみた」


 久我が少し固まって、また笑った。今度はちゃんと声が出た。


 廊下に久我の笑い声が小さく響いた。


「……篠原」


「なに」


「文化祭、終わったら一緒に帰りたい」


「帰っていいよ」


「帰っていい?」


「うん」


「じゃあ終わったら正門前で待ってる」


「わかった」


 久我が廊下の方へ歩き出した。


 数歩いったところで、立ち止まって振り向いた。


「さっき言いそびれたけど」


「なに」


「エプロン、似合ってる」


 言いっぱなしで、そのまま歩いていった。


 私はしばらく廊下で立ち尽くした。


 エプロン、似合ってる。


 それだけ言って、そのまま行った。


 告白なのかそうじゃないのかよくわからない会話だったけど、少なくとも私の心臓は、今日一番の音を立てていた。


     *


 文化祭が終わった。


 後片付けを終えて、正門前に行ったら久我がいた。


 エプロンははずして、制服に戻っていた。人混みの中で、一人で立っていた。


「待った?」


「少し」


「ごめん、後片付けに手間取って」


「いい」


 二人で歩き始めた。


 今日の昼に廊下で話した内容を、お互いわかっている。その状態で隣を歩いている。


 なんか、距離が今日はいつもと違う気がした。いつもは少し開いているのに、今日は少し縮まっている。どちらがどちらに近づいたのかはわからない。


「久我くん、文化祭どうだった?」


「楽しかった」


「珍しい」


「何が」


「久我くんが楽しかったって言うのが」


「楽しかったら楽しかったと言う」


「でも普段そんな言わないから」


「……篠原と話す時間が多かったから、楽しかった」


 足が少し止まりそうになった。こらえた。歩き続けた。


「……それ、はっきり言っていいの」


「言っちゃいけなかった?」


「よくはないけど、嬉しいからいい」


 久我が少し笑った。


「篠原って、正直だな」


「嬉しいものは嬉しいって言う」


「それでいい」


「久我くんは?」


「俺は?」


「私と話す時間、本当に楽しかった?」


「楽しかった。本当に」


「ノートのやりとりも?」


「それが一番」


「なんで」


 久我が少し考えた。


「篠原が紙に書くときの方が、正直なことを書く気がして」


「え」


「声で言うより、書くほうが本音が出るだろ」


 考えたことなかったけど、言われてみると正しい気がした。声だと恥ずかしくて言えないことが、紙に書くなら書ける。


「……久我くんもそう?」


「そう」


「久我くんがノートに書いてたことも、本音だった?」


「全部」


「全部、か」


「うん」


 七月の「かわいい」が脳内でリフレインした。「笑うとかわいいな」も「かわいかった」も。全部本音だったって言った。


「……久我くん」


「なに」


「ノートの話、全部本音って言ったけど」


「言った」


「七月のあれも?」


「あれ?」


「……『笑うとかわいいな』ってやつ」


「本音」


 さらっと言われた。


 さらっと言うな。


「最後に小さく書いてた『かわいかった』も?」


「本音」


「雨の日に『篠原が濡れるほうが嫌だから』も?」


「本音」


「全部本音なの」


「全部」


 私は少し前を向いた。口元がどうしても緩んでしまって、それを久我に見られたくなかった。


「……久我くんってさ、私といるとき、だいぶキュンキュンさせてくるよね」


 言ってから、「キュンキュンって何」と思った。でも事実なのでしょうがない。


 久我が止まった。


「キュンキュン」


「……言葉のあやです」


「俺がキュンキュンさせてるの?」


「させてる」


「意図してなかった」


「意図しなくてもそうなる」


「それは、どういう意味で受け取ればいい?」


 立ち止まって振り向いたら、久我が真剣な顔でこちらを見ていた。


 冗談っぽく言ったのに、真剣に聞いてくる。


「……好きな人にそういうこと言われたら、キュンキュンするって話」


「好きな人に、ってことは」


「そう」


「俺が好きな人、ってことか」


「そう」


「ちょっとよりけっこう多めで」


「……けっこう多めで」


 久我がゆっくり息を吐いた。


「……篠原、もう一回確認していい」


「なに」


「俺のことが好き?」


「好きです」


「今も?」


「今も」


「文化祭が終わった後も?」


「終わった後も好きです」


「じゃあ明日も?」


「明日も好きだと思います、たぶん」


「たぶん?」


「……たぶんじゃなくて確実に」


 久我が、今日一番の笑顔を見せた。


「俺も確実に、だ」


「……久我くん」


「なに」


「それ、告白ですか」


「そうだよ」


 さらっと言った。


 また、さらっと。


「……え、あっさりしてる」


「あっさりしてるか?」


「してる」


「じゃあもっとちゃんと言う」


 久我が私の方を向いた。道の端で、街灯が一本だけ点いていた。夕方の空が、オレンジから紫に変わりかけていた。


「篠原ひな」


「はい」


「隣の席になった最初の日から、ずっと気になってた。話したいと思ってた。ノートに書いてたことは全部本音だった。かわいいと思ってた。毎日。ずっと」


 止まれなくなった。目の奥が熱くなった。


「だから、付き合ってほしい」


 言い終えて、久我が少しだけ、耳を赤くした。


 さっきまで涼しい顔で全部言ってたのに、最後の「付き合ってほしい」のところで、耳が赤くなった。


 そこが一番、キュンとした。


「……久我くん」


「なに」


「耳、赤い」


「……うるさい」


「初めて見た」


「見るな」


「かわいい」


「うるさい」


 私は笑ってしまった。


「付き合います」


 久我が、また笑った。


 今日、何回笑ったんだろう。三ヶ月で三回くらいしか見なかった笑顔を、今日は何回も見た。


 こんなに笑う人だったんだ、と思った。


 ——私の前では、ちゃんと笑う人だったんだ。


「篠原」


「なに」


「明日、また隣に座っていい?」


「席変わってないから当たり前じゃん」


「そうじゃなくて」


「そうじゃなくて?」


「当たり前に隣にいるとか、そういうんじゃなくて。篠原の隣に、俺がいていいか、っていう意味で聞いた」


 また、みぞおちがじんってした。


「……いていい。ずっといて」


「ずっと?」


「ずっと」


 久我がまた笑った。


「じゃあいる」


 二人で歩き出した。


 今日の帰り道は、傘じゃなくて夕暮れが並んでいた。距離は、文化祭の前よりずっと縮まっていた。


 しばらく歩いて、久我が言った。


「一個だけ聞いていい」


「なに」


「さっき言ってたキュンキュン」


「……はい」


「俺は今、かなりキュンキュンしてるんだけど」


 私は笑った。


 ちゃんと笑った。


 久我が横で「笑うとやっぱりかわいい」と言った。


 また笑った。


 笑いながら、目の端に少し涙が出た。


 なんで泣いてるんだろう。嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でもわからなかった。


「……泣いてる?」と久我が言った。


「泣いてない」


「泣いてる」


「泣いてない、笑いすぎただけ」


「そうか」


 久我が少し間を置いて、言った。


「かわいい」


 また泣きそうになった。


「もうそれ反則」


「何が反則」


「そのタイミングで言うのが」


「じゃあいつ言えばいい」


「いつでも反則」


「じゃあ反則し続ける」


 私はまた笑った。


 夕暮れの帰り道を、二人で歩いた。


 ノートのやりとりで始まった何かが、今日ちゃんと形になった。


 明日からも隣の席で、ノートに書き合うだろうと思った。でも今日からは内容が変わる。


 くだらない話だけじゃなくて、もう少しだけ、ちゃんとした話も書ける。


 ねえ好きだよ、くらいのことも。


     *


 翌日、数学の授業中。


 久我がノートの端に書いた。


 「昨日のこと、夢じゃないよな」


 私はこらえきれずに笑った。声は出なかった。でも肩が揺れた。


 久我が横目で見た。


 私はノートに書いた。


 「夢じゃないよ」


 久我が見た。少し間を置いて、書いた。


 「よかった」


 私もまた書いた。


 「私も昨日のこと、全部本音だったよ」


 久我が見た。今度は少し長く見た。


 そして書いた。


 「知ってた」


「知ってたんかい!!」


 声が出た。


 今日も声が出た。


 先生が「篠原さん?」と言った。クラスが一瞬静かになった。


「す、すみません! なんでもないです!!」


 頭を下げた。先生が苦笑いして授業を続けた。


 久我が小さく「声出すな」と言った。


 私はノートに書いた。


 「久我くんのせいで」


 久我が書いた。


 「ごめん」


 さらっと書いた。


 でもその横に、また小さく書いてあった。


 「かわいかった」


 また笑った。


 今度は声が出ないように、ちゃんと。


 隣で久我が、小さく笑っていた。


 気づいたら、毎日笑う人になっていた。


                   完

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