授業中ノートの端に「好き」と書いた
「好きな人いる?」
そう書かれたのは、五月の数学の授業中だった。
*
篠原ひなは今、死ぬかもしれない。
原因は隣の席の久我凌が、シャープペンシルで私のノートの端にさらっと書いた、たった七文字だ。
「好きな人いる?」
視線だけ動かして、久我を確認する。久我は黒板を見ていた。いつもの涼しい顔で。先生の話を聞いているのか聞いていないのかわからない、眠そうな目で。
この人は今、何を書いたのかわかってるんだろうか。
五月の、ある水曜日。私はひとりで問い直した。
久我凌という人は、高校二年に進級して隣の席になるまで、ほぼ接点がなかった。同じクラスになったのも今年が初めてだ。成績が良くて、背が高くて、話しかけると一言で終わらせてくる人、というのが私の中での印象だった。
それが四月の終わりごろ、唐突に変わった。
最初は消しゴムを貸してくれたことだった。「貸して」じゃなくて、黙って横に置いてあった。使い終わって返したら、今度は黙って受け取った。
次の日、窓が開いていてプリントが飛びそうになったとき、黙って押さえてくれた。
その次の日、給食の時間に「それ嫌いなの?」と言われた。パプリカの話だった。「嫌いじゃないけど得意じゃない」と答えたら、「俺に寄越せ」と言われた。
接点が生まれた。気づいたら話すようになっていた。
そして今日、「好きな人いる?」と書かれた。
なんで。なんでそんなこと聞くんだ。
しかも授業中に。しかもノートに。しかも黒板を見ながら何食わぬ顔で。
私はシャープペンシルを持つ手が震えないように気をつけながら、ノートの端に返事を書いた。
「なんで急に」
久我のノートに、するっと押しつけた。
久我は視線を落として一瞬見て、また私のノートに何かを書いた。
「いるのかいないのかだけ答えろ」
余白が狭くなってきた。私は端のさらに端に書いた。
「なんで教えなきゃいけないの」
久我がまた見た。少し間があってから書いた。
「俺が聞きたいから」
心臓が変な音を立てた。
授業中に一人でどうしてるんだ私は。
*
久我との「ノートやりとり」は、そこから習慣になった。
最初は授業中だけだったのが、気づいたら自習時間にも、休み時間の暇なときにも、ノートの端に何か書いては見せ合うようになっていた。
だいたいの内容はくだらない。
「今日の昼なに食う」「パン」「また?」「うるさい」
「先生の話長すぎる」「同意」「眠い」「寝るな」「なんで」「注意されてもめんどくさいから」
「この問題わかる?」「わかる」「教えて」「百円」「ケチ」
こんな感じだ。
くだらない。でも毎回ちょっと楽しみにしてる自分がいる。
問題は、私がこの交換日記みたいなやりとりをしている相手に、片思いをしているということだ。
久我凌のことが好きになったのは、ゴールデンウィーク明けくらいだった。
クラスの雰囲気がうるさい日に、久我だけが静かに本を読んでいた。その横顔を見た瞬間に、あ、好きだ、と思った。理由はそれだけだ。弱すぎる理由だとはわかっている。
でも、消えない。
毎日隣の席にいるから、当然消えるわけがない。むしろ毎日増えてる。
「篠原」
ある日の数学の授業中、久我が小声で呼んだ。
「なに」
「答え何番」
「自分で考えて」
「おかしいと思う? 俺の答え」
ノートを横に傾けて見せてきた。覗き込む距離になって、ちょっと焦った。
「……三番だと思う」
「同じだった。じゃあいい」
「じゃあなんで聞いたの」
「確認したかった」
久我がさらっと前を向いた。
なんなんだ。
でもこういう、当たり前みたいに頼られる感じが、心臓に良くない。
*
転機は六月の雨の日だった。
放課後、昇降口で傘を開いたら、久我が隣に立っていた。
「傘ある?」と久我が聞いた。
「あるよ」と答えた。
「じゃあ俺に貸して」
「私はどうするの」
「一緒に入る」
心臓が止まった。
「……降ってるの弱いし、走ったら大丈夫だって言えばよかったんじゃない」
「走りたくない」
「私の都合は?」
「一緒に入ればいいだろ」
当たり前みたいに言う。この人は本当に当たり前みたいに言う。
結局、二人で一本の傘で帰った。
私の折り畳みは小さいので、二人で入ったら自然と距離が縮まった。久我が持つほうが高さが合うからと傘を持ってもらったら、逆にちゃんと傘が上に来た。雨が久我の肩にかかった。
「久我くん、濡れてるよ」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「篠原が濡れるほうが嫌だから」
何を言うんだ。
何を。
普通に言った。事実を言うみたいに、さらっと。
私は返事ができなかった。黙って歩いた。
久我も黙って歩いた。
雨の音だけが聞こえた。
バス停で「俺はここで」と久我が言って、傘を返してきた。
「ありがとう」
「うん」
「濡れたじゃん」
「少しだけ」
「少しじゃないよ」
「篠原が濡れなかったからいい」
また言った。
また言う。
バスが来て、乗り込んで、窓から外を見たら久我が歩いていくのが見えた。少し濡れた肩が、遠くなっていった。
次の日、ノートの端に書いた。
「昨日ありがとう」
久我がちらっと見て、書いた。
「どうせまた忘れるだろうから覚えとけ、折り畳みは雨の日しか使えない」
なんか悔しいけど正しい。
私はまた書いた。
「久我くんはなんで傘持ってなかったの」
久我が書いた。
「予報見てなかった」
私はまた書いた。
「天気予報くらい見てよ」
久我が書いた。
「お前が晴れてるって言ったから信じた」
「い、言ったっけ」
声が出た。久我が目だけで「声出すな」と言ってきた。
私はノートに書いた。
「言ったっけ」
久我が書いた。
「朝、昇降口で。今日天気いいねって」
完全に記憶にない。でも言いそう。私、よく言う。
「……ごめん」
小声で言ったら、久我がシャープペンシルを持ったまま、こっちを一回見た。
「別に怒ってない」
声で言ってくれた。
声で言われると、ちょっとだけ距離が縮まる気がして、毎回うれしい。
*
七月。
ノートのやりとりは続いていた。内容はあいかわらずくだらない。でも時々、くだらなくないやりとりが混じる。
ある日の英語の授業中、久我が書いた。
「篠原って笑うとかわいいな」
は?
は?????
私は三回読み直した。
「笑うとかわいいな」
書いてある。確かに書いてある。久我の字で。
何これ。どういうこと。何をどう解釈すればいい。
私はペンを持ったまま固まっていた。隣を見る勇気がない。見たら絶対に顔が赤いのがバレる。
三十秒くらい固まってから、なんとか書いた。
「急になに」
久我がさらっと書いた。
「今笑ったから」
「なんで笑ったの」
「先生が言い間違えた」
確かに笑った。でも普通にクスってしたくらいだ。それで「かわいい」って書く?
私はノートに書いた。
「急にそういうこと書かないで」
久我が見た。少し間を置いて、書いた。
「なんで」
「恥ずかしいから」
久我がまた見た。今度はもう少し長く見た。
私は正面を向いたまま、視線を感じていた。
久我が書いた。
「照れてるの?」
「照れてない」
「耳が赤い」
最悪だ。バレてる。
「赤くない」
「赤い」
「赤くない!!」
「声出た」
出た。また出た。クラスの何人かがこっちを向いた。先生もちらっと見た。私は「すみません」と小さく言って、ノートに書いた。
「全部久我くんのせいです」
久我が書いた。
「ごめん」
さらっと書いた。
でもその字の横に、小さく、すごく小さく、もう一個書いてあった。
「かわいかった」
見なかったことにした。
でも心臓がうるさくて、英語の授業の内容は何も頭に入らなかった。
*
「久我くんのこと、好きじゃない?」
親友の桐谷あおいに言われたのは、七月の半ばだった。昼休み、二人で購買の前のベンチに座っていた。
「……なんで」
「顔」
「どんな顔」
「久我くんの話になるときの顔」
「どんな顔なの」
「今の顔」
私は口をつぐんだ。
あおいが三口サイズのチョコパンを食べながら、こっちを見ていた。観察するみたいな目で。
「昔から顔に出るんだよ、ひなって」
「出てないと思ってたんだけど」
「全然出てる。好きな人できたときの顔と、久我くんの話するときの顔が、ぴったり一致してる」
私は天井(外なので空だが)を見た。
「……バレてるかな、久我くんに」
「さあ。あの人、表情少ないから何考えてるかわかんないけど」
「そうなんだよね」
久我は感情が表に出ない。出ないんだけど、ノートのやりとりのときだけ、ちょっとだけ違う気がする。でも気のせいかもしれない。
「ノートにかわいいって書かれた話、もう一回聞かせて」
「さっき話したじゃん」
「もう一回」
「……『笑うとかわいいな』って書かれて、照れてるって言ったら、耳が赤いって言われた」
「で、最後に小さく『かわいかった』って書いてあった」
「そう」
「ひな」
「なに」
「それ、好かれてるよ」
心臓が跳ねた。
「そ、そんなわけ」
「なんでそんな書くの。好意がないと」
「友達としての『かわいい』とか」
「あのさ、ひな。男子がクラスのそんな仲良くもない女子のノートに、授業中に『かわいい』って書くと思う?」
思わない。
普通に思わない。
「……思わない」
「でしょ」
「でもそれは」
「で、も?」
「久我くんが脈ありとは限らなくない? その場の勢いとか」
「じゃあ聞いてみれば」
「無理」
「なんで」
「振られたら隣の席に三月まで座り続けなきゃいけない」
あおいが少し考えた。
「それは確かに地獄だね」
「地獄でしょ」
「……でも伝えないまま三月になるのも地獄じゃない?」
返せなかった。
正しいからだ。
伝えないまま終わるのも、十分すぎるくらい地獄だ。
「……考える」
「考えてる間に久我くんに取られても知らないよ」
「誰に取られるの」
「さあ、誰かに」
「誰かって誰だよ」
「仮定の話。でも、好きなら言ったほうがいいよ。後悔するより」
あおいはパンを食べ終えて、立ち上がった。
「ひな、久我くんと話してるとき、すごくいい顔してるよ。それはちゃんと見てるから言える」
そう言って、「お昼終わる前に戻ろ」と歩き出した。
私は少しの間、ベンチに座ったままだった。
久我と話してるとき、いい顔をしている。
自分では全然わからないけど、あおいがそう言うならそうなんだと思う。
三年間じゃなくて、まだ三ヶ月しか経ってない。
でも確かに、久我凌が隣の席でよかったと、毎日思っている。
*
八月。文化祭の準備が始まった。
クラスの出し物は喫茶店になった。私は看板係になって、久我は設営係になった。係が違うので、準備のときは別々に動くことが多かった。
ある日の放課後、看板の作業が終わって片付けをしていたら、教室に久我が一人でいた。
「まだいたの?」
「設営の寸法測ってた。お前こそ」
「看板の塗り終わった」
「見ていい?」
「うん」
久我が廊下に出てきて、乾かしている看板を見た。私が絵を担当した部分と、別の子が文字を書いた部分がある。
「うまいな」
「絵が?」
「うん」
「ありがとう」
「習ってた?」
「中学まで美術部だったから」
「そっか」
久我がじっくり見ていた。
誰かに絵を褒められること自体は珍しくない。でも久我に褒められると、なんか違う重さがある。心臓のあたりに落ちてくる感じがする。
「久我くんは絵、描かないの」
「描けない」
「設営は得意そうだけど」
「測って切って組むやつはできる。センスが要るやつはできない」
「センスって言うほど私はうまくない」
「うまいと思う」
また言う。
さらっと言う。
「うまいと思う」って言うとき、久我の声はいつもと全然変わらない。感情のない声で「うまいと思う」と言う。だから余計に、本当に思ってるんだなとわかる。
「……ありがとう」
「ここ、この花、実物見て描いた?」
「写真。向日葵、今の時期そんなに咲いてないから」
「きれいに描けてる。立体感がある」
「久我くん、絵に詳しいの?」
「詳しくない。でもきれいなものはわかる」
なんかもう、全部がキュンポイントだ。
「……久我くんってさ」
「うん」
「普段そういうこと言わないじゃん」
「そういうこと?」
「きれいとか、うまいとか」
久我が少し考えた。
「言う相手がいなかっただけ」
「私には言うの?」
「言いやすい」
「なんで」
「なんでだろ」
答えになってない。でもなぜか嬉しかった。
「私も、久我くんと話しやすい」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。久我が視線を向けてきた。
「そう?」
「そう。最初は一言で終わらせてくる人だと思ってたけど」
「今も一言で終わらせてる」
「終わらせてないよ、今。ちゃんと話してる」
「……そうだな」
久我が、久しぶりに笑った。口角が少し上がっただけの、小さな笑い方。でも私はそれを見るたびに、心臓が一回余計に打つ。
「久我くん、たまに笑うじゃん」
「たまに?」
「いつも無表情だから。笑うとちょっとびっくりする」
「俺、そんなに無表情か」
「うん」
「自覚なかった」
「でも笑うとかっこいい」
言ってから、死ぬかと思った。
何を言った私は。
久我が一回止まった。
完全に止まった。
そしてゆっくりこっちを見た。
「……今、なんて言った?」
「な、なんも言ってない」
「言った」
「言ってない!」
「聞こえた」
「聞こえてない!!」
「笑うとかっこいい、って言った」
「言ってない!!!!」
「声でかい。廊下に響く」
「……っ」
私は看板の方を向いた。向いて、ひたすら看板の向日葵を見た。私が描いた向日葵。どうでもいいんだよ今向日葵じゃなくて。
久我が少し黙った。
そして言った。
「……ありがとう」
また小声だった。
向日葵を見たまま、振り返れなかった。
顔が、絶対に赤いから。
*
文化祭当日。
クラスの喫茶店は盛況で、私も接客係で動き回っていた。エプロンをつけて、メニューを持って、注文を取って。忙しかったけど楽しかった。
久我は設営した空間を直したり、不足した備品を補充したりしていた。
昼過ぎに少し人が減ったタイミングで、久我が「休憩」と小声で言って、裏の廊下に出た。私も交代で休憩に出て、そこに久我がいた。
「疲れた?」と聞いた。
「少し。篠原は?」
「私も少し」
廊下の窓から外が見えた。校庭でいろいろな出し物をやっていて、人が多かった。
「久我くん、設営きれいだったよ」
「そうか」
「テーブルとか椅子の間隔、ちょうどよくて動きやすかった。測って切って組むやつが得意って言ってたもんね」
「覚えてた?」
「うん」
「……篠原って、いろいろ覚えてるな」
「え、そうかな」
「俺が言ったこと、けっこう覚えてる」
言われて初めて意識した。
確かに覚えている。久我が言ったことは、だいたい全部。
「……好きな人の言葉は覚えてるんじゃないですかね」
言ってから、口を押さえた。
何を言った。今何を言った。
久我が完全に止まった。
今日二回目の「完全に止まる」だ。
「……今、なんて言った?」
「……聞こえなかった」
「聞こえた」
「……空耳」
「俺の耳は正常だ」
「……風の音では」
「風は吹いてない、廊下の中だから」
ひとつひとつ潰してくる。
私は窓の外の校庭を見ながら、「もういいや」と思った。
「……好きな人の言葉は覚えてるって、言いました」
「うん」
「……それは、つまり」
「つまり?」
「久我くんのことが……その、ちょっと好き、みたいな感じで、あるかも、しれない、という」
語尾が消えた。
久我が何も言わなかった。
五秒くらい、何も言わなかった。
私は窓の外を見たまま、心臓の音を聞いていた。廊下の向こうから、文化祭の賑やかな音が聞こえた。
久我が、ゆっくり口を開いた。
「ちょっと?」
え。
「ちょっと好き、って言った?」
「……はい」
「ちょっと、が気になる」
「き、気になるとは」
「ちょっとじゃなくて、けっこう好き、とかじゃないの」
何を言うんだ。
何を言うんだこの人は。
「……ちょっとよりは多いかもしれない」
「どのくらい」
「どのくらいって」
「毎日?」
「……毎日」
「隣の席になってから?」
「……なってから」
久我がまた黙った。
私もう死ぬかもしれない。廊下で。文化祭の日に。
「篠原」
「なに」
「顔、こっち向けて」
「向けたくない」
「なんで」
「顔が赤いから」
「見たい」
「見せたくない」
「篠原」
「なに」
「こっち向けないなら、こっちから行く」
久我が一歩近づいた。私は窓の外を向いたまま、身動きが取れなかった。
久我が隣に立った。
二人で窓の外の校庭を見ている形になった。
「俺も、毎日だ」
小声で言った。
「え」
「隣の席になってから、ずっと」
振り向けなかった。振り向いたら、たぶん顔が赤いのが全部バレる。でも振り向きたかった。
「……久我くん」
「なに」
「今、何を言った?」
「俺も毎日、と言った」
「それって」
「篠原と同じ意味で」
「つまり」
「つまり、俺も、ちょっとよりけっこう多めに、好きだよ」
廊下に声が漏れそうになった。こらえた。こらえながら、ゆっくり久我の方を向いた。
久我が、こちらを見ていた。
眼鏡の奥の、静かな目が、今日は静かじゃなかった。
少し、赤かった。
「……久我くんって、顔赤くなるんだ」
「なる」
「知らなかった」
「篠原の前では初めて」
また死ぬかと思った。
「……私も赤い?」
「赤い」
「見ないで」
「見てる」
「見ないで!」
「かわいい」
七月のノートの「かわいい」が、今日は声で言われた。
あのときより五百倍、直撃した。
「……もう無理」
「何が」
「久我くんのそういうとこが、全部ずるい」
「ずるくない」
「ずるい。かわいいとかきれいとか笑うとかっこいいとか、あっさり言うじゃん」
「篠原が先に言った」
「私は事故みたいなもんだよ!!」
声が出た。また声が出た。
久我が今度こそ笑った。さっきより大きく。声がほんの少し漏れるくらい。
久我の笑い声を聞いたのは初めてだった。
聞いた瞬間に「もっと聞きたい」と思った。
「……笑った」
「笑った」
「初めて笑い声聞いた」
「そうか」
「かわいい」
「俺が?」
「言い返してみた」
久我が少し固まって、また笑った。今度はちゃんと声が出た。
廊下に久我の笑い声が小さく響いた。
「……篠原」
「なに」
「文化祭、終わったら一緒に帰りたい」
「帰っていいよ」
「帰っていい?」
「うん」
「じゃあ終わったら正門前で待ってる」
「わかった」
久我が廊下の方へ歩き出した。
数歩いったところで、立ち止まって振り向いた。
「さっき言いそびれたけど」
「なに」
「エプロン、似合ってる」
言いっぱなしで、そのまま歩いていった。
私はしばらく廊下で立ち尽くした。
エプロン、似合ってる。
それだけ言って、そのまま行った。
告白なのかそうじゃないのかよくわからない会話だったけど、少なくとも私の心臓は、今日一番の音を立てていた。
*
文化祭が終わった。
後片付けを終えて、正門前に行ったら久我がいた。
エプロンははずして、制服に戻っていた。人混みの中で、一人で立っていた。
「待った?」
「少し」
「ごめん、後片付けに手間取って」
「いい」
二人で歩き始めた。
今日の昼に廊下で話した内容を、お互いわかっている。その状態で隣を歩いている。
なんか、距離が今日はいつもと違う気がした。いつもは少し開いているのに、今日は少し縮まっている。どちらがどちらに近づいたのかはわからない。
「久我くん、文化祭どうだった?」
「楽しかった」
「珍しい」
「何が」
「久我くんが楽しかったって言うのが」
「楽しかったら楽しかったと言う」
「でも普段そんな言わないから」
「……篠原と話す時間が多かったから、楽しかった」
足が少し止まりそうになった。こらえた。歩き続けた。
「……それ、はっきり言っていいの」
「言っちゃいけなかった?」
「よくはないけど、嬉しいからいい」
久我が少し笑った。
「篠原って、正直だな」
「嬉しいものは嬉しいって言う」
「それでいい」
「久我くんは?」
「俺は?」
「私と話す時間、本当に楽しかった?」
「楽しかった。本当に」
「ノートのやりとりも?」
「それが一番」
「なんで」
久我が少し考えた。
「篠原が紙に書くときの方が、正直なことを書く気がして」
「え」
「声で言うより、書くほうが本音が出るだろ」
考えたことなかったけど、言われてみると正しい気がした。声だと恥ずかしくて言えないことが、紙に書くなら書ける。
「……久我くんもそう?」
「そう」
「久我くんがノートに書いてたことも、本音だった?」
「全部」
「全部、か」
「うん」
七月の「かわいい」が脳内でリフレインした。「笑うとかわいいな」も「かわいかった」も。全部本音だったって言った。
「……久我くん」
「なに」
「ノートの話、全部本音って言ったけど」
「言った」
「七月のあれも?」
「あれ?」
「……『笑うとかわいいな』ってやつ」
「本音」
さらっと言われた。
さらっと言うな。
「最後に小さく書いてた『かわいかった』も?」
「本音」
「雨の日に『篠原が濡れるほうが嫌だから』も?」
「本音」
「全部本音なの」
「全部」
私は少し前を向いた。口元がどうしても緩んでしまって、それを久我に見られたくなかった。
「……久我くんってさ、私といるとき、だいぶキュンキュンさせてくるよね」
言ってから、「キュンキュンって何」と思った。でも事実なのでしょうがない。
久我が止まった。
「キュンキュン」
「……言葉のあやです」
「俺がキュンキュンさせてるの?」
「させてる」
「意図してなかった」
「意図しなくてもそうなる」
「それは、どういう意味で受け取ればいい?」
立ち止まって振り向いたら、久我が真剣な顔でこちらを見ていた。
冗談っぽく言ったのに、真剣に聞いてくる。
「……好きな人にそういうこと言われたら、キュンキュンするって話」
「好きな人に、ってことは」
「そう」
「俺が好きな人、ってことか」
「そう」
「ちょっとよりけっこう多めで」
「……けっこう多めで」
久我がゆっくり息を吐いた。
「……篠原、もう一回確認していい」
「なに」
「俺のことが好き?」
「好きです」
「今も?」
「今も」
「文化祭が終わった後も?」
「終わった後も好きです」
「じゃあ明日も?」
「明日も好きだと思います、たぶん」
「たぶん?」
「……たぶんじゃなくて確実に」
久我が、今日一番の笑顔を見せた。
「俺も確実に、だ」
「……久我くん」
「なに」
「それ、告白ですか」
「そうだよ」
さらっと言った。
また、さらっと。
「……え、あっさりしてる」
「あっさりしてるか?」
「してる」
「じゃあもっとちゃんと言う」
久我が私の方を向いた。道の端で、街灯が一本だけ点いていた。夕方の空が、オレンジから紫に変わりかけていた。
「篠原ひな」
「はい」
「隣の席になった最初の日から、ずっと気になってた。話したいと思ってた。ノートに書いてたことは全部本音だった。かわいいと思ってた。毎日。ずっと」
止まれなくなった。目の奥が熱くなった。
「だから、付き合ってほしい」
言い終えて、久我が少しだけ、耳を赤くした。
さっきまで涼しい顔で全部言ってたのに、最後の「付き合ってほしい」のところで、耳が赤くなった。
そこが一番、キュンとした。
「……久我くん」
「なに」
「耳、赤い」
「……うるさい」
「初めて見た」
「見るな」
「かわいい」
「うるさい」
私は笑ってしまった。
「付き合います」
久我が、また笑った。
今日、何回笑ったんだろう。三ヶ月で三回くらいしか見なかった笑顔を、今日は何回も見た。
こんなに笑う人だったんだ、と思った。
——私の前では、ちゃんと笑う人だったんだ。
「篠原」
「なに」
「明日、また隣に座っていい?」
「席変わってないから当たり前じゃん」
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「当たり前に隣にいるとか、そういうんじゃなくて。篠原の隣に、俺がいていいか、っていう意味で聞いた」
また、みぞおちがじんってした。
「……いていい。ずっといて」
「ずっと?」
「ずっと」
久我がまた笑った。
「じゃあいる」
二人で歩き出した。
今日の帰り道は、傘じゃなくて夕暮れが並んでいた。距離は、文化祭の前よりずっと縮まっていた。
しばらく歩いて、久我が言った。
「一個だけ聞いていい」
「なに」
「さっき言ってたキュンキュン」
「……はい」
「俺は今、かなりキュンキュンしてるんだけど」
私は笑った。
ちゃんと笑った。
久我が横で「笑うとやっぱりかわいい」と言った。
また笑った。
笑いながら、目の端に少し涙が出た。
なんで泣いてるんだろう。嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でもわからなかった。
「……泣いてる?」と久我が言った。
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない、笑いすぎただけ」
「そうか」
久我が少し間を置いて、言った。
「かわいい」
また泣きそうになった。
「もうそれ反則」
「何が反則」
「そのタイミングで言うのが」
「じゃあいつ言えばいい」
「いつでも反則」
「じゃあ反則し続ける」
私はまた笑った。
夕暮れの帰り道を、二人で歩いた。
ノートのやりとりで始まった何かが、今日ちゃんと形になった。
明日からも隣の席で、ノートに書き合うだろうと思った。でも今日からは内容が変わる。
くだらない話だけじゃなくて、もう少しだけ、ちゃんとした話も書ける。
ねえ好きだよ、くらいのことも。
*
翌日、数学の授業中。
久我がノートの端に書いた。
「昨日のこと、夢じゃないよな」
私はこらえきれずに笑った。声は出なかった。でも肩が揺れた。
久我が横目で見た。
私はノートに書いた。
「夢じゃないよ」
久我が見た。少し間を置いて、書いた。
「よかった」
私もまた書いた。
「私も昨日のこと、全部本音だったよ」
久我が見た。今度は少し長く見た。
そして書いた。
「知ってた」
「知ってたんかい!!」
声が出た。
今日も声が出た。
先生が「篠原さん?」と言った。クラスが一瞬静かになった。
「す、すみません! なんでもないです!!」
頭を下げた。先生が苦笑いして授業を続けた。
久我が小さく「声出すな」と言った。
私はノートに書いた。
「久我くんのせいで」
久我が書いた。
「ごめん」
さらっと書いた。
でもその横に、また小さく書いてあった。
「かわいかった」
また笑った。
今度は声が出ないように、ちゃんと。
隣で久我が、小さく笑っていた。
気づいたら、毎日笑う人になっていた。
完




