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琥珀の色に浸りゆく

作者: titor
掲載日:2026/02/05

記憶というものは、時として琥珀に似ているとは思いませんか。流れ去るはずだった時間を一滴の樹脂の中に閉じ込め、腐敗から遠ざけ、永遠に美しいまま保存してしまう。けれど、その透き通った黄金色の中にあるものは、果たして「生」と呼べるのでしょうか。


 人は誰しも、立ち止まりたいと願う瞬間を持っています。痛みのない場所、老いない場所、喪失のない場所。もし、そんな甘美な隠れ家への扉が、ふとした路地の裏側に開いていたとしたら。あなたはそこを通り過ぎることができるでしょうか。


 この物語は、ある冬の日、止まった時間の中に迷い込み、そして再び凍てつく風の中へ踏み出そうとした一人の記録です。


 ページをめくるあなたの指先にも、少しだけ珈琲の香りが漂いますように。

 その街の空気は、いつも少しだけ湿った古い紙の匂いがした。


 二両編成のローカル列車が、軋んだブレーキ音を残して去っていく。久遠くおんが十数年ぶりに降り立った駅のホームは、驚くほど何も変わっていなかった。錆びついたホーロー看板、ベンチの隅に遺棄された誰のものともつれないビニール傘、そして改札口で欠伸を噛み殺している老駅員。すべてが、まるで透明な樹脂で固められたかのように、あの日から時を止めている。


「変わらない、か」


 白い息と共に吐き出した言葉は、冬の午後の光の中に溶けて消えた。彼がこの街を去ったのは、二十歳の夏だった。あの日、あんなにも眩しく、残酷なほど青かった空は、今は重たい鉛色の雲に覆われ、静かに雪の予感を含んでいる。


 久遠はコートのポケットの中で、指先が強張るほどに一通の手紙を握りしめた。上質な封筒は、何度も読み返したせいで端が毛羽立っている。差出人の名前はない。ただ、見覚えのある、線が細くそれでいて芯の強い筆致で、一行だけ記されていた。


『時計塔の裏で、琥珀色の時間を見つけました』


 それは、かつての恋人——結衣ゆいの書く文字だと直感的に分かった。東京という巨大な遠心分離機のような都市で、久遠は摩耗していた。中堅の広告代理店での仕事、希薄な人間関係、数字と納期に追われる日々。四十歳を目前にし、鏡に映る自分の顔が、色のない灰色の泥のように見え始めた頃、この手紙は届いた。それは手招きだった。あるいは、溺れかけた人間に垂らされた一本の蜘蛛の糸だったのかもしれない。


 久遠は改札を抜け、駅前の商店街を歩き出した。シャッターの降りた店が目立つ通りには、人の気配がない。自分の足音だけが、乾いた音を立てて静寂に吸い込まれていく。彼は、失われた時間の一部を取り戻すために、あるいは永遠に葬り去るために、心臓破りの坂道を登り始めた。


 坂を登り切った先にある公園は、冬枯れの木々が痩せた指のように空を指していた。その中心に、街の象徴である古い時計塔が鎮座している。文字盤の塗装は剥げ落ち、長針は六時を、短針は四時を指したまま微動だにしない。その姿は、機能不全に陥った機械というよりは、時間の呪縛から解き放たれた墓標のように見えた。


 手紙の導きに従い、時計塔の裏手に回る。そこには、記憶にない細い路地が口を開けていた。湿った石畳の先、蔦に覆われた煉瓦造りの建物が一軒だけ建っている。小さな真鍮の看板には、飾り文字で『琥珀』とだけ刻まれていた。


 久遠は躊躇いながらも、冷え切ったドアノブに手を掛けた。カラン、コロン。乾いた鐘の音が、水底のような静けさを揺らした。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から響いた声に、久遠は心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。店内に漂うのは、深く焙煎された珈琲の香りと、古い家具特有の甘い匂い。その向こう側、逆光の中に立つ女性のシルエット。


「……結衣、なのか?」


 彼女がゆっくりと顔を上げる。久遠の呼吸が止まった。そこにいたのは、年相応に歳を重ねた女性ではなかった。透き通るような白い肌、少し色素の薄い茶色の瞳、肩で切りそろえられた黒髪。彼女は、二十歳のままだった。目尻の小じわひとつなく、十数年前の夏、彼が最後に見た姿のまま、そこでネルドリップのポットを握っていた。


「遅かったわね、久遠君。コーヒー、少し煮詰まってしまったわ」


 彼女は驚く風でもなく、まるで彼がちょっと煙草を買いに出て戻ってきたかのような口調で言った。  カウンターの上には、湯気の消えた二つのカップが並んでいる。


「どうして……君は、変わっていないんだ?」


 久遠はふらつく足取りでカウンター席に座り込んだ。近くで見れば見るほど、その異様さは際立った。彼女の肌の質感、まつ毛の長さ、身に纏う空気。すべてが鮮度を保ったまま保存されている。対して自分は、白髪の混じり始めた髪と、疲労の染み付いた肌を晒している。


「ここはね、忘れ物預かり所のような場所なの」


 結衣は質問には答えず、穏やかに微笑んだ。

「みんな、大事なものをこの街に置いていく。夢とか、後悔とか、言えなかった言葉とか。私はそれを拾い集めて、この琥珀色の液体の中に閉じ込めているのよ」


 彼女の視線が、カウンターの隅に置かれた二眼レフカメラに向けられた。かつて彼女が愛用していたローライフレックス。彼女はいつも、ファインダーを覗くだけで、決してシャッターを切らなかった。『記憶はね、形にして残さないと、ただの光の屑になっちゃう。でも、フィルムに焼いてしまうと、それは過去になってしまうの』あの頃の彼女の言葉が、不意に蘇る。


「君は、ずっとここにいたのか? あの夏から、一歩も外に出ずに」

「ええ。外の世界は流れが速すぎるもの。ここなら、何も失わなくて済むわ」


 差し出されたコーヒーに口をつける。温かいはずの液体は、喉を通ると不思議なほど冷たく、そして泥のように重かった。舌に残る酸味は、甘美な記憶の味ではなく、どこか腐敗の手前にある果実を思わせた。


「久遠君、あなたは疲れているのよ」


 結衣の声が、甘い麻酔のように鼓膜を撫でる。

「東京なんて行かなければよかったのよ。あんな場所、魂をすり減らすだけだわ。……ねえ、これを見て」


 彼女はカウンターの下から、装飾的な銀枠の手鏡を取り出した。鏡面は水銀が腐食し、黒いしみが浮いている。久遠は恐る恐る、その濁った水面を覗き込んだ。


「……これは」


 鏡の中に映っていたのは、疲れ果てた中年の男ではなかった。そこには、二十歳の自分がいた。希望と傲慢さを瞳に宿し、まだ何者でもなかった頃の、透き通るような青年。だが、何かが決定的に違っていた。鏡の中の青年は、瞬きひとつしていない。呼吸もしていない。まるで精巧に作られた蝋人形のように硬直している。


 さらに目を凝らすと、青年の背後には、巨大な鉄の歯車が映り込んでいた。赤錆に覆われた歯車が、青年の肩に、首筋に、肋骨に食い込むようにして絡みつき、完全に停止している。


「それが、あなたの真実」


 結衣が鏡の縁を指でなぞる。

「あなたは東京へ行き、仕事をし、歳を取ったつもりでいた。でもね、本質的な部分は、あの日から一秒たりとも進んでいないの。傷つくことを恐れて、あの時の感情、あの時の未熟さをそのまま真空パックして、背中に括り付けて歩いていた」


 否定したかった。必死に生きてきたはずだ。歯を食いしばって働いてきたはずだ。だが、鏡の中の青年は、虚ろな目で久遠を見つめ返してくる。それは、成長ではなく、ただの「摩耗」を繰り返してきた自分自身の魂の似姿だった。


「琥珀の中の虫はね、死んでいるけれど、永遠に美しいままでしょう?」


 結衣の手が伸びてきて、久遠の手の甲に触れた。その指先は氷のように冷たかった。

「人間だって同じよ。流れを止めれば、永遠を手に入れられる。……このまま、ここにいればいいわ。私がずっと、あなたを磨いてあげる」


 外では雪が降り始めていた。窓ガラスが無音で白く塗りつぶされていく。この店は、世界から切り離された子宮だ。ここで頷けば、きっと楽になれる。痛みも、将来への不安も、老いの恐怖も、すべてこの琥珀色の空間に溶かしてしまえる。


 久遠の意識が、とろりとした微睡みの中へ沈んでいきそうになる。琥珀の色に浸りゆく。それは死に限りなく近い、安らぎだった。


 ふと、視界の端で自分の手が動いた。珈琲カップを掴むその手は、節くれ立ち、ささくれができ、爪の形もいびつだった。二十歳の頃のような白さはない。薄汚れた、中年の手だ。だが、手首の内側では、血管がドクドクと脈打っていた。


「……嫌だ」


 喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「久遠君?」

「僕は……標本にはなりたくない」


 久遠は椅子の背を掴み、立ち上がった。ガタリ、と木の床が大きな音を立てる。その音は、静止した水面に投げ込まれた石のように、店内の完ぺきな静寂を引き裂いた。


「どうして? そこには苦しみしかないのに」

結衣の顔から微笑みが消えた。それは悲しみとも、憐れみともつかない表情だった。


「錆びついているなら、油をさせばいい。油がないなら、血でも流して無理やりに回すさ」


 久遠は結衣を直視した。彼女は美しい。あまりにも美しく、そして悲しいほどに偽物だった。彼女は久遠自身の「変わりたくない」という願望が見せている幻影なのかもしれない。


「痛いわよ」

結衣は静かに告げた。

「凍りついた神経に血を通わせるのが、どれほど痛いことか。あなたは忘れている」


「ああ、忘れていたよ。だから思い出すんだ」


 久遠はコートの襟を合わせ、ポケットの中の手紙を握りつぶした。もう、この手紙に縋る必要はない。


「ありがとう、結衣。コーヒー、苦かったよ。……目が覚めるほどに」


 彼は背を向け、出口へと歩き出した。一歩踏み出すたびに、身体が鉛のように重く感じる。この空間の引力が、彼を引き留めようとしているのだ。それでも彼は足を止めなかった。


 真鍮のドアノブを掴む。手のひらに伝わる金属の冷たさが、現実へのスイッチだった。


「さようなら」


 誰に向けたかわからない別れの言葉を残し、久遠はドアを開け放った。


 瞬間、暴力的なまでの冷気が吹き込んできた。雪混じりの突風が頬を打ち、髪をかき乱し、店内に漂っていた甘い芳香を一瞬で吹き飛ばした。背後でバタンと重い扉が閉まる音がした。それは、ひとつの世界が終わった音だった。


 久遠は路上に立ち尽くし、大きく息を吸い込んだ。凍えるような空気が肺を刺し、内側から焼けるような痛みが走る。咳き込みそうになりながら、それでも彼は呼吸を繰り返した。


 ギチリ。


 背中のどこかで、硬い音がしたような気がした。それは十数年もの間、固着していた歯車が、悲鳴を上げて一歯分だけ動いた音だったのかもしれない。痛みはあった。身体の芯がきしむような、鈍く、重い痛みだ。けれど、それは彼が標本ではなく、生きた人間として「今」を刻み始めた確かな証だった。


 久遠は雪の降り積もる坂道を見下ろした。真っ白な雪の上に、最初の一歩を踏み出す。ギュッ、と新雪が鳴く。  その足跡はすぐに降り続く雪に埋もれて消えるだろう。だが、自分の足で歩いたという熱だけは、誰にも奪えない事実として彼の身体に残る。


 止まったままの時計塔を背に、久遠は歩き始めた。灰色の空の向こう、厚い雲の切れ間から、微かに淡い光が射し込もうとしていた。


もはや陳腐なテーマかもしれませんが、「もしもあの時」という言葉を、私たちは人生で何度飲み込んできたのでしょうか。


 過ぎ去った時間は、遠ざかるほどに不純物が濾過され、美しく透き通っていきます。今の痛みを忘れて、その甘やかな光の中にただ浸っていたい。そんな弱さが、私の中にも、そしてきっとあなたの中にも潜んでいます。


 冷たい風が吹く現実よりも、温かい停滞を選びたくなる夜がある。だからこそ、私たち人類は、琥珀という存在に魅了されてきたのかもしれません。


 それでも、この物語の最後で鳴った「ギチリ」という錆びついた音を、不快なノイズではなく、生きていくための愛おしい鼓動として受け取っていただけたなら。


それが明日への一歩になるか、今日に留まるか、

珈琲に苦みと共に、琥珀色に浸りながら向き合いませんか。

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