8.【夜の港湾地区】
港からの潮風が、錆びたクレーンを揺らしていた。
人気のない倉庫街。街灯のほとんどが割られ、頼りない月明かりだけが足元を照らしている。 俺は倉庫の屋根の上に伏せ、双眼鏡でターゲットの潜伏先を監視していた。
『第三倉庫』。 情報通りなら、ここに木島がいるはずだ。
時刻は深夜二時。
周囲に人の気配はない。波の音と、遠くの道路を走るトラックの走行音が聞こえるだけだ。 俺はインカムのスイッチを入れた。
「こちらクロノス。現着しました」 『状況は?』
父さんの声ではなく、オペレーターの声だ。普段父さんは現場の指揮までは執らない。それが少しだけ気を楽にさせた。
「クリアです。警備の配置も見当たりません。……不用心すぎますね」 『罠の可能性もある。慎重に進め』 「了解」
俺はワイヤーを射出し、音もなく地面へと降り立った。
倉庫の入り口は錆びた南京錠で閉ざされている。だが、裏口のドアノブが微かに壊されているのを見逃さなかった。 ここから入ったのか。 俺はピッキングツールを取り出し、数秒で鍵を開錠する。
重い鉄扉を、軋ませないようにゆっくりと開く。 中は真っ暗闇だ。
暗視装置をゴーグルにセットする。視界が緑色のモノクロームに染まり、倉庫内の輪郭が浮かび上がった。
積み上げられた木箱。放置されたフォークリフト。 その奥、事務所として使われていたであろうプレハブ小屋から、微かな明かりが漏れていた。
いる。
俺は呼吸を整え、拳銃を構えた。 足音を殺し、プレハブ小屋へと接近する。 窓ガラス越しに中を覗く。
男が一人、デスクに向かっていた。 痩せた背中。白衣の上に汚れたジャンパーを羽織っている。机の上にはノートパソコンと、散乱した書類の山。
木島だ。資料の写真と一致する。
彼は何かを必死にタイピングしていた。その様子は、データを売ろうとしている悪党というよりは、何かに追いつめられ、助けを求めている遭難者のように見えた。
(……やるしかない)
俺は覚悟を決め、ドアに手をかけた。 突入と同時に制圧する。ゴム弾を撃ち込み、意識を奪ってからデータを回収する。それが一番スムーズだ。
心の中でカウントダウンを始める。 三。 二。 一。
バンッ!
俺はドアを蹴破り、銃口を突きつけた。
「動くな! 組織の者だ!」
木島が弾かれたように振り返る。 その顔に浮かんだのは、恐怖ではなかった。 安堵と、そして深い絶望が入り混じった、奇妙な笑みだった。
「……来たか」
木島は両手を挙げながら、静かに言った。
「待っていたよ、天野宗一の息子」
俺の心臓が跳ねた。 なぜ、俺が息子だと知っている? 俺の存在は組織内でも極秘のはずだ。
「パソコンから離れろ。抵抗すれば撃つ」
「撃ちたければ撃て。データはもう、十分だ」
木島は挑発するようにパソコン画面を指差した。
「だが、その前に少し話をしないか? ……お前の母親について」
引き金にかけた指が凍りついた。 今、こいつはなんて言った?
「……母さん?」
「ああ。お前は知らされていないだろうな。お前の母親が、本当はどうなったのかを」
木島の目が、緑色の暗視スコープ越しに俺を射抜く。
「死んだと思っているんだろう? だが、もし生きているとしたら……どうする?」
罠だ。 父さんの言っていた通りだ。こいつは嘘つきの裏切り者だ。俺を惑わせようとしているだけだ。
そう思うのに、俺の体は動かなかった。
母さんが、生きている? あり得ない。だって父さんは、母さんの遺体を見たと言っていた。お墓だってある。
でも。 なぜか、俺の直感が告げていた。 この男の言葉は、嘘ではないかもしれない、と。
「……デタラメを言うな」
俺の声は震えていた。
「デタラメかどうか、これを聞けばわかる」
木島はキーボードのエンターキーを叩いた。 スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりの音声データだった。
――フフフ、フフーン……
それは、歌だった。 女性の声による、静かで優しいハミング。
聞いたことがある。 この独特な節回し。雨の日に、窓辺で誰かが歌っていた記憶。
俺の頭の中で、封印されていた何かが軋んだ。 激しい頭痛が走り、俺はその場にうずくまりそうになった。
視界がぐにゃりと歪む。 時計の秒針が、またカチリと音を立てて止まる気配がした。




