6.【冷たい食卓、凍った会話】
玄関ホールは、美術館のように静まり返っていた。
磨き上げられた大理石の床。壁に飾られた抽象画。間接照明が作り出す陰影。 生活感というものが欠落している。靴箱の上には埃一つなく、スリッパはミリ単位で整列されている。
「ただいま戻りました」
俺の声が、虚しく反響して消えた。 返事はない。使用人もいない。父さんは秘密保持のために、家政婦すら雇わない主義だ。この広い家に住んでいるのは、父さんと俺の二人だけ。
俺は自分の部屋へ荷物を置きに行くこともせず、そのまま一階奥にある書斎へと向かった。
父さんはそこにいるはずだ。 重厚なマホガニーの扉の前に立つ。 ノックを三回。
「……入れ」
許可を得て、扉を開ける。
書斎の中は、古い洋書とコーヒーの香りが充満していた。 壁一面の本棚には、世界各国の歴史書や哲学書、そして心理学の専門書がびっしりと並んでいる。
部屋の中央、巨大な執務机の向こうに、父さんは座っていた。
天野宗一。 白髪交じりの髪をオールバックにし、色の濃いサングラスをかけ、仕立ての良いスーツを着こなす紳士。 部屋の照明は落とされ、デスクライトの明かりだけが彼の手元を照らしている。
手元のタブレット端末から視線を上げず、彼は言った。
「早かったな」
「学校の近くだったので」
俺は直立不動で答える。
「進路面談はどうだった」
予期せぬ問いに、俺は一瞬言葉に詰まった。父さんが俺の学校行事に関心を示すことなど、今まで一度もなかったからだ。
「……はい。進路について、少し」
「ふん。くだらん」
父さんは鼻で笑い、ようやく顔を上げた。
「学校教育など、凡人を量産するためのシステムに過ぎん。お前がそこで何を学ぼうと、我々の崇高な使命の前には塵ほどの価値もない」
「……はい」
「だが、カモフラージュとしては機能しているようだな。教師や友人は、お前の正体に気づいているか?」
「いいえ。ただの大人しい生徒だと思われています」
「結構。それがお前の唯一の取り柄だ。影に徹しろ。誰の記憶にも残るな」
父さんは立ち上がり、窓際へと歩いた。 ブラインドの隙間から、夕闇に沈む街を見下ろす。その背中は大きく、そしてどこまでも遠い。
「新しい仕事だ、駆」
父さんの声のトーンが、一段低くなった。
「ターゲットの名は、木島。かつて組織に所属していた研究員だ」 「研究員……ですか?」
怪物が相手ではないのか。俺は少し驚いた。
「ああ。奴は私の慈悲を裏切り、組織の機密データを持ち出して逃亡した。それだけでなく、そのデータを外部の人間に売り渡そうとしている」
父さんは振り返り、氷のような視線を俺に突き刺した。
「そのデータが公になれば、我々の活動に支障が出る。世界を守るための『必要悪』が、大衆の誤解によって断罪されることになるのだ」
「それは……阻止しなければ」
「そうだ。木島は現在、港湾地区の古い倉庫街に潜伏しているとの情報が入った。処理班は別の案件で出払っている。お前が行け」
俺はごくりと喉を鳴らした。
対人任務。 怪物相手なら躊躇なく武器を振るえる。だが、相手が人間となると、どうしても指が鈍る瞬間がある。
「……殺すのですか」
「データの回収が最優先だ」
父さんは淡々と言った。
「だが、抵抗するようなら排除しろ。裏切り者に情けは無用だ。……できるな?」
試されている。 ここで出来ませんと言えば、俺はまた失望される。「やはりお前には無理か」と、冷たい視線で見下されるだろう。
それだけは嫌だった。
「……はい。やります」
「よろしい。出発は二時間後だ。装備を整えておけ」
「わかりました」
一礼して部屋を出ようとした時、父さんが不意に声をかけてきた。
「駆」 「はい」 「その時計」
父さんの視線が、俺の左手首に向けられていた。
「……またズレているぞ」
え、と思い手首を見る。 いつの間にか、また二分ほど遅れていた。学校を出た時に直したはずなのに。
「あ……すみません。すぐ直します」
「よく壊れる時計だ。買い替えたらどうだ」
「いえ、気に入っているので」
父さんは興味なさそうに「そうか」とだけ言い、再びタブレットに視線を落とした。
扉を閉める瞬間、父さんが小さく呟いた言葉が、俺の耳に残った。
「……壊れているのは時計の方か、そ――」
その続きは、厚い扉によって遮断された。




