4.【硝子の部屋】
放課後。
チャイムの音が、宣告のように響いた。 生徒たちが部活や塾へと散っていく中、俺は重い足取りで進路指導室へと向かう。
ドアノブに手をかける。ひやりとした金属の感触。 深呼吸を一つして、ノックをした。
「失礼します」
「おう、入れ」
中に入ると、担任の谷口がパイプ椅子に座り、分厚いファイルをめくっていた。初老の、くたびれたスーツを着た教師だ。
俺は対面の椅子に座る。 机の上には、俺の成績表と、白紙に近い進路調査票が置かれている。
「天野。お前、成績はずっとトップクラスだ。模試の判定も悪くない」
谷口は眼鏡の位置を直しながら、俺を見た。
「だが、志望校の欄が空欄だ。もう十月だぞ。そろそろ具体的に絞らないと間に合わん」
「……すみません。まだ、迷っていて」
「迷ってる? 贅沢な悩みだな」
谷口は呆れたように鼻を鳴らした。
「お前なら、どこの大学だって狙える。物理が得意なんだから、工学部や理学部はどうだ? それとも、親御さんの意向があるのか?」
まただ。親。
「……父は、自分の会社に入ればいいと言っています」
嘘ではない。ただ、その会社の業務内容が、一般常識とかけ離れているだけだ。
「貿易会社か。まあ、それも一つの道だがな」
谷口は少し声を潜め、探るような目で俺を見た。
「天野。お前、学校楽しいか?」
不意を突かれた質問だった。
「……え?」
「いやな、お前は優等生だ。問題も起こさん。友達ともそれなりにやっているように見える。だがな」
谷口は指先で机をトントンと叩いた。
「どこか、ここにいないような顔をしている時がある。まるで、何か別の世界を見ているような」
ドキリとした。
この教師は、ただの凡庸な大人だと思っていた。だが、長年多くの生徒を見てきた直感のようなものが、俺の被っている仮面の亀裂を捉えたのかもしれない。
「……そんなこと、ありませんよ」
俺は精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「ただ、ちょっと考え事が多い性格なだけです」
「そうか。ならいいんだが」
谷口は疑念を完全には晴らしていないようだったが、それ以上踏み込むのは教師の領分ではないと判断したらしい。
「とにかく、親御さんとよく話し合え。お前の人生だ。親の言いなりじゃなく、お前自身が何をしたいか、それが一番大事なんだぞ」
お前自身が、何をしたいか。 その言葉が、呪いのように胸に突き刺さった。
俺がしたいこと。 そんなもの、考えたこともなかった。
物心ついた時から、父さんの背中を追うことだけが全てだった。父さんに褒められること、認められること。それが俺の存在意義だった。
もし、父さんがいなくなったら? 組織がなくなったら? 俺には何が残る?
空っぽだ。 この進路調査票の空欄と同じ。天野駆という人間の中身は、空っぽなんだ。
「……はい。話し合ってみます」
俺は逃げるように席を立った。
「失礼しました」
ドアを閉める。廊下の冷たい空気が、火照った頬に触れる。 ポケットの中のスマートフォンが震えた。
着信画面を見るまでもない。父さんだ。 俺の日常《ごっこ遊び》は終わりだ。ここからは、あの血生臭い夜の世界が待っている。
硝子のように脆く、透明な俺の未来。 それを守るためではなく、粉々に砕くために、俺は電話に出た。
「……はい、父さん。今、学校を出ます」




