40.【影の暗殺者】
光のトンネルを抜けると、そこは冷たい雨の中だった。
二十年ほど前の、ある地方都市の路地裏。 アスファルトを叩く雨音と、遠くで響く車の走行音。 世界は色あせて見える。まるで古いフィルム映画の中に迷い込んだようだ。
俺の体は、透き通っていた。 足元から少しずつ、光の粒子となって崩れ始めている。
時間がない。 俺という存在を、世界が異物として排除しようとしているのだ。
路地の奥から、声が聞こえた。
「……逃げても無駄だ。君の遺伝子は、私こそが有効活用できる」
若き日の、天野宗一の声。 まだあどけなさが残るほど若いが、その声に含まれる粘着質な狂気は、未来の彼と変わらない。
俺はふらつく足で、角を曲がった。
そこに、彼らはいた。 雨に濡れたコンクリートの壁に背を預け、怯えている女性。 若き日の母、月見里奏。
そして、彼女に手を伸ばそうとしている、白衣姿の男。
「嫌……来ないで!」
母さんが叫ぶ。 その目には涙が溜まっている。
この瞬間だ。 このあと、父さんは能力を使って母さんの記憶を改竄し、恋人の存在を消し去り、自分を愛するように仕向ける。
すべての悲劇の始まり。特異点。
俺は、最後の力を振り絞って前に出た。
「――そこまでだ」
声が出たのかどうかもわからない。 だが、二人は同時に俺の方を向いた。
突然現れた、血まみれで半透明の侵入者。 母さんは悲鳴を上げて口元を覆った。
だが、父さん――若き日の宗一は違った。
彼は、俺を見た瞬間、目を見開いて硬直した。 恐怖ではない。 驚愕と、そして歓喜。
「……その、姿は」
宗一は震える手でサングラスの位置を直した。 天才的な頭脳を持つ彼には、一瞬で理解できてしまったのだろう。
目の前にいる「異物」が、時空の理を超越して現れた存在であること。 そして、その顔立ちが、自分と目の前の女性の特徴を色濃く受け継いでいること。
「まさか……未来の、息子か?」
俺は答えなかった。 答える必要もない。
俺はただ、右手を伸ばした。 指先が光となって崩れていく。もう、拳を握ることさえできない。
だが、それで十分だ。 今の俺は、存在そのものが「時間を支配する概念」と化している。
俺の手は、抵抗なく宗一の胸をすり抜けた。 物理的な接触はない。 だが、俺の意識は確かに捉えた。
彼の胸の奥で脈打つ、生命の時計《心臓》を。
(――止まれ)
俺は、その一点だけに干渉した。 殺意ではない。ただ、終わらせるという慈悲。
天野宗一という男の時間を、ここで永遠に停止させる。
ドクン、と。 宗一の心臓が最期の拍動を打ち、そして凍りついた。
キィン。
世界が止まったような静寂。 宗一の顔から、急速に血の気が引いていく。
激痛も、苦悶もない。 ただ、生命維持の電源を唐突に切られた機械のように、彼の瞳から生気が失われていく。
「……は、ハハッ」
宗一は、自分の胸を押さえ、膝から崩れ落ちながら笑った。 死の恐怖など微塵も感じていないようだった。
「そうか……。私の理論は、正しかったのか」
彼は恍惚とした表情で、俺を見つめた。
「時間を超え、因果すら書き換える神の力! お前がここにいること自体が、私の研究の成功証明だ」
狂っている。
自分を殺しに来た未来からの刺客を前にして、自分の研究の正しさを喜んでいる。
だが、それでいい。 あんたは満足して死ね。 その代わり、未来永劫、あんたの野望が叶うことはない。
「……あぁ、美しい」
宗一は最期にそう呟き、満足げな笑みを浮かべたまま、前のめりに倒れた。 水たまりに顔を沈め、二度と動かなくなる。
心不全。 誰の目にも、ただの突然死として映るだろう。
「……あの、あなたは……?」
若き日の母さんが、恐る恐る問いかけてくる。
彼女には、俺が誰なのかわからない。 当然だ。俺はまだ生まれてもいないし、これから生まれることもないのだから。
俺は、精一杯の笑顔を作った。 泣くな。笑え。 これが、母さんに見せる最後の顔だ。
「……通りすがりの、魔法使いだよ」
キザな台詞だ。 でも、今の俺にはそれが精一杯だった。
「もう大丈夫。悪いやつはいなくなった」
「え……?」
「あなたは幸せになれる。好きな人と結ばれて、たくさんの花に囲まれて、光の中で生きていける」
俺の体は、もう腰から下が消えていた。 視界が白く滲む。 意識が世界に溶けていく。
「だから……忘れて」
俺は、消えゆく手で、母さんの頭を撫でてあげたかった。 だが、その手は触れることなく、光の粒子となってすり抜けた。
「君が私を忘れても、私が君を覚えているから」
それは、いつか母さんが俺に言ってくれるはずだった言葉。 あるいは、俺が母さんに言いたかった言葉。
「……さようなら、母さん」
光が弾けた。
俺の意識は、温かな白光の中に溶け、そして無へと還った。
天野刹那という少年は、この世界から消滅した。 彼が流した涙も、血も、想いも。
誰の記憶にも残ることなく、優しい雨の中に消えていった。




