39.【最期】
「……嘆くことはない」
不意に、掠れた声が耳に響いた。俺はハッとして振り返る。
コントロールルームの瓦礫の中から、血まみれの手が伸びていた。
瀕死の重傷を負い、動けないはずの父・天野宗一が、上半身だけを引きずりながら、ガラスの破片の上を這ってきていた。
その執念に、俺は息を呑む。
「父さん……まだ」
「壊れたのなら、作り直せばいい。……時計の針を戻すように」
父は、虚ろな母を見ても眉一つ動かさず、ただ俺だけを見ていた。
その瞳は、死の間際だというのに、狂気的な探究心でギラギラと輝いていた。
俺への憎しみも、敗北の悔しさもない。
あるのは、自分の理論が証明されることへの、純粋すぎる渇望だけ。
「お前は『時間』を止めた。ならば、その理を逆流させることも可能だ」
「……何を言っている」
「……まだ気づかないのか? お前の能力の本質は『停止』などという些末なものではない……」
父は口の端から血を垂らしながら、悪魔のように笑った。
「……『支配』だ。お前は時間を止めていたのではない。時間を支配していたのだ……」
「支配……だと?……」
「……川の流れを完全に支配できる者は、その流れを堰き止めることも、逆流させることもできる。時間は不可逆ではない。時間を統べる王であるお前にとっては、過去も未来も、ただ移動可能な座標に過ぎないのだからな」
俺は拳を握りしめた。こいつは、まだ俺を実験材料にするつもりか。
俺が母さんのために苦しんでいるこの状況さえも、データの一つとして見ているのか。
「……だが、世界という巨大な奔流を逆行させるには、莫大なエネルギーが必要だ」
父は続ける。
「……過去に戻り、私という元凶を排除する。そうすれば彼女の人生は救われるだろう。だが、それは同時に――『お前が生まれる』という未来を消すことだ」
俺は息を呑んだ。
「……原因(私)が消えれば、結果(お前)も消える。命を燃料にするなどという生易しい話ではない。お前は、最初からこの世に存在しなかったことになる。誰の記憶にも残らず、歴史の狭間に消え失せる。完全なる存在の抹消だ」
「……存在の、消滅か」
「……そうだ。選べ、刹那」
父は、血に濡れた指を突きつけ、俺に二つの未来を提示した。
「……このまま、私の壊した母親を介護し、薄暗い部屋で一生を終えるか。それとも、過去へ飛び、お前自身の存在を消し去って、彼女に光あふれる人生を返すか」
究極の二択。
自分の命を守るか、母の幸せを取るか。
父は試しているのだ。自分が作り上げた「最高傑作」が、自己犠牲という人間性の極致において機能するかどうかを。
最期の最期まで、この男は俺の「創造主」であり続けようとしている。
俺は母さんを見た。
母さんは、俺たちの会話など聞こえていないかのように、窓のない壁を見つめてハミングしている。
俺がいなくなれば、誰が彼女の面倒を見る? いや、違う。
俺がいなければ――そもそも、彼女が壊れることはなかったんだ。 父さんに出会わず、俺を産まなければ、彼女は「天野奏」ではなく、本来の彼女として幸せになれる。
答えは、最初から決まっていた。
「……あんたの実験のためじゃない」
俺は涙を拭い、立ち上がった。父を見下ろす。
不思議と、もう怒りはなかった。あるのは静かな決意と、哀れみだけ。
「母さんのためだ。母さんが笑ってくれるなら、僕の命なんて安いもんだ」
「……フッ、そうか」
父は満足げに目を細め、力尽きたように床に突っ伏した。
「行け。……そして証明してみせろ。私の研究が、神の領域に届いていたことを」
俺は母さんに向き直った。そっと、その手を握る。
痩せ細って、骨と皮だけになった手。
右手の甲には、あの火傷の痕が痛々しく残っている。俺がつけてしまった傷。俺と母さんを繋ぐ、たった一つの証。
俺は自分の頬を、その傷跡に寄せた。温かい。涙が出るほど温かい。
この温もりも、もう二度と感じることはできない。
俺が過去を変えれば、母さんは俺のことを忘れるだろう。いや、忘れることさえできない。そもそも「産んだ」という事実さえなくなるのだから。
天野刹那という人間は、最初からこの世にいなかったことになる。
怖いか? と自問する。
不思議と、恐怖はなかった。
あるのは、母さんの未来が光に満ちたものになるという、確信めいた喜びだけ。
日向のような笑顔で、愛する人と手を取り合い、花に囲まれて生きる母さん。そこにはもう、狂った実験も、怪物の咆哮も、俺という悲しい鎖もない。
それでいい。それがいい。
俺の人生は、今日、この瞬間のためにあったんだ。
あなたを守るために生まれて、あなたを幸せにするために消える。
なんて素敵な人生だろう。
「ありがとう、母さん」
俺は、母さんの目を見つめた。彼女は不思議そうに首を傾げている。
俺が誰かもわかっていない。これから何が起きるかも知らない。
それでも、俺にはわかる。
彼女の魂の奥底には、いつだって俺への愛があったことを。
「……大好きだよ」
俺は母さんの手を離した。そして、目を閉じる。
意識を深く、深く沈めていく。「停止」のさらに奥。時間の流れの源流へ。
心の奥底にある、すべての感情を燃やす。 愛しさも、悲しみも、後悔も、俺の存在すべてを薪にして。 全てを力に変えて、時間の壁を殴りつける。
戻れ。 戻れ。 全ての始まりへ。
(――時間逆行)
俺の体から、眩い光が溢れ出した。 世界が白く染まる。
光の彼方で、父の最期の高笑いが聞こえた気がした。




