3.【教室という名の空箱】
教室の引き戸を開けた瞬間、目に見えない熱気と騒音が、壁となって俺に押し寄せてきた。
笑い声、机を引きずる音、教科書をめくる乾いた音。
そこはもう一つの「戦場」だった。 ただし、ここには肉を裂く爪も、鼓膜を破る爆音もない。飛び交っているのは、値踏みするような視線と、場に馴染むことを強要する同調圧力だけだ。
俺は息を止め、水底に潜るような気持ちでその喧騒の中を歩いた。
窓際の一番後ろ。そこが俺の指定席だ。 鞄を置き、椅子に座る。ひんやりとしたパイプ椅子の感触だけが、俺の輪郭を確かめさせてくれる。
チャイムが鳴り、弛緩していた空気が一変する。
二限目は古文だ。 白髪交じりの老教師が、黒板にチョークを叩きつけながら、千年前の歌の意味を熱弁している。チョークの粉が舞い、陽の光の中でキラキラと光っているのが見えた。
『世の中は なにか常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる』
教師の枯れた声が響く。
「いいか、これは無常を歌ったものだ。昨日深い淵だった場所が、今日は浅瀬に変わってしまう。世の中には変わらないものなどない、という嘆きだな」
無常。変わり続ける世の中。
俺は頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺めた。 グラウンドでは、体育の授業で生徒たちが走っている。彼らは汗を流し、笑い合い、昨日とは違う今日を生き、今日とは違う明日へ向かっているのだろう。
だが、俺はどうだ? 俺の時間は、止まっている気がした。
昨日の夜から、いや、もっとずっと前から。母さんが死んだあの日から、俺の時計だけが、何か目に見えない鎖で過去に繋ぎ止められているような感覚。
世界は川のように流れていくのに、俺だけが底に沈んだ石のように動かない。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は再び弛緩し、喧騒が戻ってきた。 いつものように一人で屋上へ向かおうと席を立つ。
その時、近くの席で弁当を広げていた女子生徒たちの、甲高いひそひそ話が耳に入った。
「ねえ、Xで拡散されてた火事、見た?」 「見た見た! トレンド入ってたやつでしょ? 昨日の夜、C地区の廃工場だっけ」 「動画見たけど凄かったよー。なんかガス爆発だったらしいね」 「怖いわー。近くに住んでる人、大丈夫だったのかな」
ガス爆発。
その単語を聞いた瞬間、俺の足がピタリと止まった。
昨夜、俺が血反吐を吐きながら戦ったあの場所。異形の怪物が暴れ、閃光弾が炸裂し、断末魔が響き渡ったあの地獄。 それが、組織の隠蔽工作によって、ただの「不幸な事故」に書き換えられている。
スマホの画面越しに消費される「エンタメとしての恐怖」。 彼女たちにとって、それは退屈な日常を彩るちょっとしたスパイスでしかない。
俺が命がけで怪物を倒した痕跡は、「ガス爆発」という便利な言葉一つで上書きされ、次のトレンドワードが現れれば、波に洗われる砂の城のように人々の記憶から消えていく。
誰も真実を知らない。 俺が昨夜、どんな思いであの引き金を引いたのかを。
俺は無意識に右手の甲を摩った。そこには、昨夜の戦闘でついた小さな擦り傷がある。 ズキリ、とした痛みが走る。
この痛みは本物だ。けれど、彼女たちには「どこかでぶつけた傷」にしか見えないだろう。
それが正しいのだと、頭ではわかっている。一般人を恐怖から遠ざけることこそが、組織の、そして父さんの正義なのだから。
けれど、胸の奥で黒い澱のような感情が渦巻くのを止められなかった。
(俺たちは、何を守っているんだ?) (こいつらの、この能天気な笑顔を守るために、俺はまた今夜も泥水をすすり、血を流すのか?) (何も知らないくせに。平和ボケした顔で笑って……)
そこまで考え、俺はハッとして強く首を振った。
なんて醜い傲慢さだ。
俺は選ばれた人間じゃない。特別な力も、才能もない落ちこぼれだ。 父さんに認められるためには、こうして影の中で生き、使い捨てられるしかないんだ。選べる立場じゃない。
彼女たちを妬む資格すらない。
ここにいてはいけない。 俺の中の黒い感情が、教室の空気に混ざり込んで汚してしまう前に。
俺は逃げるように教室を出た。背後で続く笑い声が、ひどく遠く、そして冷たく響いていた。




