37.【残された時間】
ふと、瞬きをしたような感覚だった。
意識が途切れていた時間は、体感ではほんの一瞬。深い眠りの底から、誰かに肩を揺すり起こされたように、唐突に現実へと引き戻された。
「……あ、れ?」
俺は立ち尽くしていた。
視界には、硝子張りの檻と、その中で薄れていく白いガスが見える。 足元には、握りつぶされたプラスチックの残骸が散らばっていた。神経ガスのリモコンだ。
記憶が曖昧だ。 父さんの目を見た瞬間、意識が闇に塗りつぶされたはずだった。
それなのに、なぜ俺は立っている? なぜ生きている?
ゆっくりと振り返る。 そこには、俺が知っている「絶対的な支配者」の姿はなかった。
コントロールルームの壁際に、ボロ雑巾のような塊が転がっていた。
天野宗一。
高級なスーツは裂け、体は不自然な方向にねじ曲がっている。口からは泡混じりの血を吐き出し、痙攣していた。
瀕死だ。 誰がやった?
この部屋には俺とあいつしかいない。 俺がやったのか。意識がない間に。
自分の手を見る。 拳が赤く腫れ上がり、皮膚が裂けている。 痛みはない。いや、痛みを感じる機能さえも麻痺していたのかもしれない。
俺の中の怪物が、俺の代わりに断罪を執行したのだ。
俺は父の元へ歩み寄った。 かつてあれほど巨大に見えた背中は、今や小さく、惨めな肉塊に過ぎない。
父の虚ろな目が、俺を捉えた。
「……あ、う……」
何かを言おうとしている。 命乞いか。呪詛か。 俺は屈み込み、耳を寄せた。
「……殺、せ……」
掠れた声。 それは懇願だった。 痛みから逃れるためではない。
「……お前の手で……私を終わらせろ……。それが、最高傑作の……義務だ……」
最期まで。 この男は最期まで、俺を自分の「作品」として扱い、自分のシナリオ通りに幕を下ろそうとしている。
俺に殺されることすら、彼の歪んだプライドを満たす儀式なのだ。 親としての情愛など、最初から一欠片もなかった。あるのは、狂気的なまでの自己愛だけ。
俺は胸の奥で、冷たい炎が燃え尽きるのを感じた。
怒りも、憎しみも、もう湧いてこない。 ただ、底知れぬ空虚さと、哀れみだけがあった。
「……断る」
俺は短く告げ、立ち上がった。 父の目が、驚愕と絶望に見開かれる。
「俺は、あんたの作品じゃない。あんたの物語を完成させてやる義理もない」
「ま、待て……! 殺せ……! 私を見ろ……!」
「さようなら、天野宗一。……一人で、孤独に朽ち果てろ」
俺は踵を返した。 背後で、父の絶叫とも嗚咽ともつかない声が響く。
だが、俺はもう振り返らなかった。
彼に与える最大の罰は、死ではない。「無視」だ。 彼の存在を、彼の野望を、俺の人生から完全に切り離すことだ。彼はもう、俺の父でも、倒すべき敵ですらない。ただの路傍の石だ。
俺は部屋の中央、巨大な硝子の檻へと歩み寄った。
神経ガスの噴出は止まっている。換気システムが作動し、白い霧は薄らいでいた。 その向こうに、ベッドの上でうずくまる人影が見える。
母さん。
俺は硝子の壁に手を触れた。 冷たく、分厚い隔絶。 もう、邪魔なものは何もない。
(時間停止)
音のない世界で、俺は硝子の一点に拳を当てた。 力を込める必要はない。ただ、破壊の意志を伝えるように。
一発、二発。
コンコンとノックするように、拳を打ち付ける。 破壊のエネルギーを、この一点に蓄積させる。
この壁を壊せば、俺たちは自由になれる。13年間の時を超えて、ようやく手が届く。
(解除)
パリーン!!
盛大な破砕音と共に、強化ガラスが粉々に砕け散った。
破片がダイヤモンドダストのようにキラキラと舞い落ちる。降り注ぐ光の雨の中、俺はゆっくりと足を踏み出した。 ガラスを踏み砕く音が、新しい時間の始まりを告げる鐘のように響く。
無機質な消毒液の臭いの中に、微かに、懐かしい匂いが混じっていた。 記憶の中にある、日向の匂い。
ベッドの上の女性が、ビクリと体を震わせて顔を上げた。
痩せ細り、やつれた顔。 それでも、俺にとっては世界で一番美しい人。
「……母さん」
俺は震える声で呼びかけた。 13年分の想いを込めて。
彼女の瞳が、俺を映す。 その瞳に、どんな色が浮かぶのか。恐怖か、それとも忘却か。
心臓が潰れそうなほどの不安を抱えながら、俺は祈るような気持ちで、彼女の前に膝をついた。




