36.【崩落する創造主】
『標的確認。優先排除対象』
灰色の静寂の中、怪物はゆらりと動き出した。 感情のない瞳で宗一を見据えたまま、その懐へと滑り込む。 空気抵抗ゼロの空間を、水流のように滑らかに移動するその姿は、物理法則から解き放たれた幽霊のようだ。
(く、る……ッ!)
宗一は叫ぼうとした。だが、声帯は震えない。 逃げようとした。だが、筋肉は石のように固まっている。
「意識がある」ということが、これほどの地獄だとは知らなかった。 迫りくる死の足音を、ただ指をくわえて見ていることしかできない。
瞬きすら許されない瞳に、息子の拳が迫る。 無防備な腹部。
彼は拳を握った。予備動作はない。最短距離で、最大の質量を叩き込む。
ドスッ。
鳩尾に拳がめり込む。 本来なら肉が波打ち、衝撃波が抜けるはずだが、この世界では「結果」が保留される。 宗一の体は石像のように微動だにしない。
痛みはない。 だが、「殴られた」という事実と、体内に流し込まれた膨大なエネルギーの質量だけが、生々しい異物感として脳に伝わる。
(やめろ……!)
一発では終わらない。 二発。三発。十発。
機械のようなピストン運動。 肋骨が砕ける感触。内臓が潰れる感触。 宗一の脳内だけで、幻痛が駆け巡る。
やめてくれ。私の体の中に、爆弾を埋め込むのはやめてくれ。 思考の中で懇願しても、目の前の機械人形には届かない。
彼は表情一つ変えず、ただ淡々と「破壊」を積み重ねていく。 五十発。百発。
宗一の腹部は、解放されれば背中側へ突き抜けるほどのエネルギーを内包し、圧縮された臨界点に達している。
だが、まだ足りない。 この敵は、視線による干渉能力を持っている。
『視覚機能の破壊』を推奨。
彼は攻撃の対象を変えた。 宗一の顔面。 見開かれたその両目に、指を突き立てる。
(ひ、ぃぃぃぃぃッ!?)
宗一の思考が、恐怖で白く染まる。
眼球を破壊。視神経を切断。 血は出ない。悲鳴もない。ただ、乾いた破壊の手触りと、視界が物理的に閉ざされる暗闇だけが訪れる。
私の目が。私の世界が。 潰されていく。
仕上げだ。
彼は宗一の襟首を掴み、その体を宙に放り投げた。 空中で静止する宗一。 彼はその背後に回り込み、強烈な回し蹴りを脊椎に叩き込んだ。
中枢神経の断絶。行動機能の完全停止。
『処理完了』。
彼は着地し、何もない虚空に向かって指を鳴らす構えをとった。 そこには、達成感も、復讐の喜びもない。 ただ、プログラムが終了したことを告げる、無機質な動作があるだけだった。
(――解除)
ドゴォォォォォォンッ!!
時間が動き出した瞬間、世界が悲鳴を上げた。
「ガッ……!?」
天野宗一の意識は、蓄積された数千の衝撃によって断ち切られた。 何かを言いかけようとした。その次の瞬間、自分の体が空中にあり、全身が爆発したような激痛に包まれていた。
「ぐ、あ、ガハッ……!」
口から大量の鮮血と内臓の破片を吐き出す。
何が起きた? わからない。思考が追いつかない。
腹がない。内臓がぐちゃぐちゃに潰されている感覚。 目が見えない。暗闇だ。両目が焼けるように熱い。 手足が動かない。首から下の感覚が消失している。
宗一の体はボールのように吹き飛び、壁に激突した。 ベチャリ、と濡れた音がして、彼は床に崩れ落ちた。
「な、なんだ……これは……」
宗一は床に這いつくばり、痙攣した。 見えない目で、気配を探る。
刹那は? あいつはどこだ? さっきまで目の前に突っ立っていたはずだ。 私が瞬きをする間に、何をした? いや、瞬きさえしていないはずだ。
コツ、コツ、コツ。
足音が近づいてくる。 規則正しい、機械のような足音。
恐怖。 宗一の人生において、他者に与えるものだったはずの感情が、今、彼自身の心臓を鷲掴みにしていた。
「ま、待て……刹那、私だ……父さんだぞ……」
命乞い。 プライドもかなぐり捨て、宗一は懇願した。 だが、返事はなかった。
ドンッ。
腹部に衝撃。蹴られたのだ。 宗一の体は仰向けに転がされた。 見えない視界の中に、冷たい気配が覆いかぶさる。
「やめろ、やめてくれ! 私が悪かった、謝る! お前を認める! お前は最高傑作だ!」
宗一は叫んだ。 能力を使おうにも、目が見えない。言葉による暗示をかけようにも、相手に「聞く耳」がなければ意味がない。
今の刹那には、言葉が通じない。 宗一が望んだ通り、彼は「自我のない兵器」になったのだから。
皮肉な因果。 宗一は、自らが作り上げた最高傑作によって、ゴミのように処理されようとしていた。
刹那の手が、宗一の首を掴んだ。 万力のような力。 頚椎が軋む。
「ひ、ぐ……ッ!」
宗一は必死に抵抗しようとしたが、指一本動かない。 意識が遠のく。
死ぬ。 私が、この私が、こんな道具ごときに殺されるのか? 世界の王になるはずだった私が?
刹那の指が食い込む。 宗一の喉から、ヒューという音が漏れる。
その時。
カシャン、という硬質な音が響いた。 何かが、宗一の懐からこぼれ落ちて床に当たった音。
それと同時に、刹那の手がピタリと止まった。
宗一は薄れゆく意識の中で、その音を聞いた。 それは、宗一が隠し持っていた、あのリモコンだった。 神経ガスの制御装置。
刹那の気配が動いた。 首を絞める手が離れる。 彼は宗一への興味を失ったかのように、リモコンへと歩み寄った。
『優先順位変更:保護対象への脅威を排除』
刹那はリモコンを拾い上げ、握りつぶした。
バキッ。
電子回路が破壊され、ガスの噴出が停止する音が、遠くから聞こえた。
助かったのか? 宗一は安堵し、浅い呼吸を繰り返した。 今のうちに逃げなければ。這ってでも。
だが、体はピクリとも動かない。脊髄をやられている。
刹那は戻ってこなかった。 彼は硝子窓の方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、宗一は理解した。 殺されなかったのではない。 「もう脅威ではない」と判断され、捨てられたのだ。
生きたままの残骸として。
「あ、あぁ……」
絶望と屈辱で、宗一は涙を流した。 それは彼が息子に与え続けてきたものを、倍にして返された瞬間だった。




