35.【塗り潰される色】
世界が反転した。
上下も左右もない、漆黒の泥沼の中に放り込まれたような感覚。 指先の感覚がない。心臓の音が聞こえない。
ただ、脳髄に直接響く父の声だけが、絶対的な神の託宣のように響き渡っていた。
『……哀れだな、刹那』
どこからともなく、父の顔が浮かび上がる。 巨大な、空を覆い尽くすような父の顔。 俺は、その掌の上で震える小さな蟻だった。
『お前は苦しんでいる。真実を知ってしまったからだ。母親が実験体であり、自分が作られた存在であり、兄弟を殺して生きてきたという罪悪感。……重かろう? 辛かろう?』
「……黙、れ……」
反論しようとするが、声が出ない。 思考がまとまらない。 「怒り」を思い出そうとすると、霧がかかったように霞んでいく。
『楽にしてやろう。親の慈悲だ』
父の指先が、俺の頭に触れた気がした。
その瞬間、脳内でバチバチと火花が散った。 記憶が、燃やされていく。
さっき見た、怪物の死骸の映像。 兄弟たちのデータ。 母さんが実験されているログ。
それらが、燃えカスとなって消えていく。
『これは必要ないノイズだ。……お前の母親は、13年前に強盗に殺された。悲しい事故だった』
「ちが、う……母さんは、生き、て……」
『死んだのだよ。お前の目の前で。お前のせいで』
ズブリ。 脳に太い杭を打ち込まれたような衝撃。 既成事実が上書きされる。
母さんが硝子の檻の中で歌っていた姿が、遠ざかる。代わりに、血の海に沈む母さんの映像が、鮮明な「真実」として焼き付けられていく。
「あ……あぁ……」
そうだっけ? 母さんは、死んだんだっけ? じゃあ、俺がさっき見たのは何だ? 幻覚か?
わからなくなる。境界線が溶ける。
『お前には才能がない。だが、努力家で、従順な良い子だ』
肯定の言葉。 それは、俺がずっと父さんに言われたかった言葉だった。 甘い毒のように、心に染み渡っていく。
『私の言うことを聞いていればいい。何も考えなくていい。私が世界の正義であり、お前はその手足となればいいのだ』
抵抗する気力が削がれていく。 そうだ。父さんは偉大だ。父さんに逆らうなんて、間違っている。 俺は道具だ。道具が意思を持ってはいけない。
(……だめだ)
心の奥底で、小さな種火が燻る。
母さん。 母さんの、あのハミング。 火傷の痕。
それだけは、忘れちゃいけない。それまで忘れたら、俺は本当に俺じゃなくなる。
「俺は……道具じゃ……ない……っ!」
俺は必死に、消えかける記憶の残滓を掴もうとした。 暗闇の中で、母さんの手を握ろうとあがく。
『しぶといな。……だが、無駄だ』
父の巨大な手が、俺の「種火」を握りつぶした。
ジュッ。
音がして、俺の中の熱が消えた。 怒りが消えた。 悲しみが消えた。 母さんへの愛しささえも、白く塗りつぶされていく。
『母』という概念が、ただの『記号』に変わる。 『父』という存在が、絶対的な『主人』に変わる。 『自分』という個が、無機質な『機能』に変わる。
視界が真っ白になる。
ああ、楽だ。 何も考えなくていい。 苦しくない。痛くない。
これが、父さんの言う「安らぎ」なのか。
(……ごめん、母さん)
最後の思考が、泡のように弾けて消えた。 俺は、深い眠りに落ちていく。 もう二度と、目覚めることのない眠りへ。
――天野刹那は、死んだ。
現実世界。 セクター4の最奥部。
膝をついていた刹那の体が、糸が切れたように崩れ落ちた。 目は開いている。だが、その瞳孔は開ききり、光への反応を失っている。完全なる廃人の目だ。
「……終わったか」
天野宗一は、荒い息を吐きながら額の汗を拭った。
強敵だった。 まさか、息子相手にここまでの切り札――視線による全力の精神破壊を使うことになるとは思わなかった。
だが、勝った。 目の前に転がっているのは、もはや反逆の意志を持たない、空っぽの肉人形だ。
「手間をかけさせおって。……だが、これで完成だ」
宗一は満足げに笑い、倒れている刹那を見下ろした。 この少年の中身は、もう宗一が記述したプログラムで埋め尽くされている。 起き上がれば、彼は忠実な下僕として、宗一の靴を舐めるだろう。
「立て、刹那。そして母を殺せ。それが最初の任務だ」
宗一は命令した。 硝子の檻の中では、神経ガスが充満し、奏が苦しげに喉を掻きむしっている。
とどめを刺せ。過去との決別だ。
倒れていた刹那の指が、ピクリと動いた。 ゆっくりと、その体が起き上がる。 ふらつくこともなく。 まるで重力を無視するかのような、不気味なほどスムーズな動作で。
「いいぞ。聞こえているようだな」
宗一は頷いた。 洗脳は完璧だ。自我は消滅し、命令を聞くだけの受信機となっている。
刹那が顔を上げた。 その瞳を見た瞬間、宗一の背筋に、氷のような悪寒が走った。
「……あ?」
目が、合わない。
刹那は宗一の方を向いている。だが、宗一を見ていない。 その瞳は、深淵のような虚無の色をしていた。
洗脳された者の「虚ろさ」ではない。 そこには、人間としての「存在」そのものがなかった。
刹那の唇が、微かに動いた。 命令への返答ではない。 それは、意識を失う直前に脳裏に焼き付いていた、最期の残響。
「……と、まれ」
キィィィィィィィン――――――。
世界が、軋んだ。 これまでの時間停止とは、質の違う音。 世界そのものが悲鳴を上げるような、断末魔の響き。
宗一の視界から、色が消えた。 音が消えた。 空気が凍りついた。
(なんだ……? 私の命令は……?)
宗一は口を開こうとした。 だが、動かない。 声が出ない。指一本動かせない。
思考だけが、冷たい檻の中に閉じ込められている。
時間が止まっている。 いや、これは「停止」などという生易しいものではない。
「死」だ。
世界そのものが、仮死状態に陥っている。 その死に絶えた世界の中で。
意識を失ったはずの刹那だけが、ゆらりと歩き出した。
脳のリミッターである「意識」が消滅したことで。 最強の力が、何の制御もなく垂れ流され始めたのだ。
終わりのない、永遠の停止。
怪物は、完成した。 ただし、創造主の願いとは、最悪の形で。




