32.【夢遊病の処刑人】
深い、深い水の底に沈んでいくような感覚だった。
痛みも、恐怖も、焦燥も、すべてが遠ざかっていく。 指先の感覚がなくなり、心臓の音が遠雷のように遠のく。
母さんの呼ぶ声が聞こえた気がした。でも、振り返ることはできない。 俺の意識は、ぷつりと途切れた。
――そこからは、俺の知らない時間だ。
灰色の世界。 音のない真空の牢獄。
本来なら、意識ある者がこの空間に長く留まれば、脳が情報処理の矛盾に耐えきれず焼き切れてしまう。停止した光子、振動しない空気分子、凍りついた因果律。それらは人間の脳が処理できるように設計されていない。
だが、今の「彼」には意識がなかった。 自我というノイズが消えた脳は、ただ一つの命令を遂行するためだけの、冷徹な演算装置へと変貌していた。
『敵性存在の排除』。 『生存への最適解を導出。実行する』
ゆらり、と。
意識を失った少年の体が動いた。 糸の切れたマリオネットが、見えない糸で再び吊り上げられたかのような、不自然で滑らかな挙動。重力を忘れたかのように、音もなく立ち上がる。
瞳は開いているが、そこには光がない。焦点はどこにも合わず、虚空を見つめている。 脳内には痛みも恐怖もない。あるのは、眼前の障害物をいかに効率的に撤去するかという、無機質なアルゴリズムだけだ。
彼はゆっくりと歩き出した。 空気抵抗すら存在しない世界を、水中のように泳ぐ。
目の前には、時が止まったまま凝固した『Sample-Alpha』の巨体がある。 振り下ろされかけた剛腕。飛び散る唾液の一滴までが、空中で宝石のように静止している。その瞳には、獲物を狩る残虐な喜びが焼き付いたまま凍りついていた。
彼はその懐へ、無防備に、しかし最短距離で侵入した。
躊躇がない。 恐怖がない。
生き物特有の「溜め」や「予備動作」が一切ない。水が低いところへ流れるように、彼は最適解を選び続ける。
彼は無造作に、Alphaが握りしめていた巨大な拳の前に自分の体を滑り込ませた。 そして、Alphaの足元に転がっていた鉄骨の破片を拾い上げる。 かつて天井の一部だったであろう、鋭利な破断面を持つH鋼。重さ数十キロはある瓦礫だ。
だが、彼の鍛え上げられた筋力は、それを発泡スチロールのように軽々と持ち上げた。
ドスッ。
鈍い音が、彼の骨伝導を通して響く。 彼は鉄骨の尖端を、Alphaの喉元――装甲皮膚の隙間にある、わずかな柔らかい肉へ、深々と突き立てた。
時間は止まっているため、肉は裂けず、血も噴き出さない。 鋼鉄の皮膚は、侵入者を拒絶するように硬直している。
だが、彼は構わず力を込めた。
一撃。二撃。三撃。
杭を打つように、無表情のまま、機械のような正確さで鉄骨を打ち込み続ける。 反作用はない。打撃の衝撃すらも、この世界では保留される。
莫大な運動エネルギーだけが、「一点」に蓄積されていく。因果のダムが決壊するその時を待って、圧縮されていく。
脅威レベル低下を確認。次へ移行。
次は『Sample-Beta』だ。 彼はAlphaから離れ、背後から飛びかかろうとして静止しているBetaの元へ歩み寄る。
Betaは空中に浮いている。四肢を大きく広げ、獲物に食らいつこうとする捕食者のポーズで固定されている。その爪は、本来ならあと数センチで少年の背中を引き裂いていたはずだ。
彼はBetaの長く太い尻尾を掴んだ。 そして、強引に体の向きを変える。
座標を書き換える。
質量保存の法則など無視するかのように、彼は巨体を軽々と振り回した。まるで、気に入らない家具の配置を直すかのように。
Betaの口腔――鋭い牙の並ぶ顎を、Alphaが振り下ろしている拳の落下地点へと、あつらえるように配置した。
パズルのピースが嵌まる。完璧な死の構図。
準備完了。
彼は二体の怪物の間から、幽霊のように音もなく退避した。 安全圏まで離れると、彼は何もない虚空に向かって、ぼんやりと立ち尽くした。
役割を終えた道具のように。 そして、本能のままにスイッチを切った。
(――解除)
ドォォォォォォンッ!!
時間が動き出した瞬間、圧縮された因果が一気に炸裂した。
まずはAlpha。 喉元に蓄積された数十発分の打撃エネルギーが、風船が割れるように爆発し、太い首が内側から破裂した。
「グ、アァァァッ!?」
断末魔の咆哮。 制御を失ったAlphaの巨体が、前のめりに倒れ込む。 その剛腕が、慣性の法則と重力に従って、全力で振り下ろされた。
その先には、配置されたBetaがいた。
グシャァッ!
嫌な破砕音。 Alphaの鉄拳が、Betaの口腔に深々と突き刺さり、後頭部まで貫通した。 脳天を砕かれたBetaが痙攣する。
同士討ち。
二体の怪物は絡まり合ったまま、弾丸のように吹き飛び、研究所の壁に激突した。 分厚いコンクリート壁が蜘蛛の巣状にひび割れ、粉塵が舞う。
ドサリ、と肉塊が崩れ落ちる音がして、それきり動かなくなった。
静寂が戻る。 圧倒的な暴力の嵐が過ぎ去った後、そこには満身創痍の少年だけが、虚ろな目で立っていた。




