31.【壊れゆく歯車】
「グルゥゥゥ……アァッ!!」
鼓膜を食い破るような咆哮と共に、黒い巨体が躍りかかってきた。
『Sample-Alpha』。 父が最高傑作と呼ぶ、戦闘用に調整された実験体だ。
全身を覆う黒い皮膚は、鋼鉄のような光沢を放っている。丸太のように太い腕が、空気を引き裂く音を立てて振り下ろされた。 単純だが、それゆえに回避困難な、純粋な暴力の塊。
俺は反射的に動こうとしたが、足がもつれた。
限界だった。
ここに来るまでの連戦、そして意識的な時間停止の連続使用で、俺の脳と体はすでにボロ雑巾のように擦り切れている。 視界の端が黒く塗りつぶされ、肺が酸素を求めて喘いでいる。
避けきれない。 直撃すれば、俺の体などトマトのように潰れて弾け飛ぶだろう。
死ぬ。 脳が「死」を認識した瞬間、理性を飛び越えて防衛本能が作動した。
(止まれ……ッ!)
キィン。
世界が一瞬だけ、コマ落ちしたように静止する。 〇・五秒。 脳への負荷がかからないギリギリの領域。
俺はその刹那の隙に、軋む体を無理やりねじり、致命傷となる軌道から半歩だけズレた。
(解除)
ドォン!
爪が床を粉砕し、コンクリート片が散弾のように飛び散る。 直撃は避けた。だが、着弾の衝撃波だけで体を持っていかれ、俺は壁に叩きつけられた。
「がはッ……!」
胃液と血が混ざったものを吐き出す。 背骨がミシミシと悲鳴を上げた。
視界が激しく明滅する。テレビの砂嵐のようなノイズが走り、平衡感覚が消失する。 立っていられない。膝が笑うどころか、感覚がない。
そこへ、もう一体――『Sample-Beta』が迫る。
Alphaが「剛」なら、こいつは「速」だ。四つん這いで壁を蹴り、残像を残すほどの速度で俺の死角へと回り込んでくる。
こいつらは、俺が今まで相手にしてきた「失敗作」とは違う。動きに迷いがない。殺すことだけに特化して調整された、生体兵器としての完成度。
「どうした、刹那。もう終わりか?」
頭上のコントロールルームから、父の冷ややかな声が降ってくる。 見上げれば、彼はワイングラスを傾けながら、この一方的な殺戮劇を楽しんでいた。
「期待外れだな。やはり、出来損ないの母体から生まれた個体は、耐久性に難があるか」
耐久性。 俺の命の灯火が消えかけているのを、彼はただの「製品の欠陥」としてしか見ていない。
「立て、戦え。母の前で無様な死に様を晒すな」
父の言葉に呼応するように、二体の怪物が左右から挟み撃ちの体勢をとる。 獣臭い呼気が、俺の顔にかかる。
逃げ場はない。 時間を止めるか?
いや、無理だ。脳が焼けるような警告を発している。頭蓋骨の中で何かが焼き切れ、プスプスと煙を上げているような幻臭がする。 今の状態で、こいつらを倒せるだけの時間――数秒単位の停止を行えば、怪物を倒す前に俺の脳がショートして死ぬ。
かといって、このままでは物理的に殺される。
詰みだ。
俺は血に濡れた床に膝をついたまま、薄れゆく意識の中で、ガラスの向こうの母さんを見た。
母さんは、まだ歌っていた。 目の前で息子が殺されそうになっているのに、気づきもせず、壁に向かってハミングを続けている。
――フフフ、フフーン……。
その姿が、あまりにも哀れで。 そして、どうしようもなく愛おしかった。
あんなに近くにいるのに、ガラス一枚が、数億光年の距離のように遠い。
(ごめん、母さん……)
助けられなかった。 俺は結局、父さんの言う通り、才能のない失敗作だったのかもしれない。 ただの高校生が、世界を支配する悪魔に勝てるはずがなかったんだ。
Alphaが爪を振り上げる。 Betaが牙を剥く。
死が迫る。 怖い、と思う感情さえ、もう湧いてこなかった。
ただ、疲れた。
脳が熱い。頭蓋骨の中で溶岩が煮えたぎっているようだ。思考が泥のように重く、まとまらない。 もう、楽になりたい。眠ってしまいたい。
プツン。
俺の中で、何かが切れる音がした。 それは、意識を現実に繋ぎ止めていた、最後の理性という糸だったかもしれない。
視界が暗転する。 思考が闇に溶けていく。 体の力が抜け、俺は重力に従って崩れ落ち――
いや。 崩れ落ちなかった。
意識が消えた、その瞬間。 脳を苛んでいた激痛が、嘘のようにフッと消え失せた。
「自分」というノイズが消えたことで、俺の肉体は、ただの「器」へと還る。 痛みも、恐怖も、父への憎しみさえも消えた、完全なる無。
カチリ。
深淵の底で、誰かがスイッチを入れた。
世界から音が消える。色が消える。光が消える。
俺が止めようとしたのではない。 「俺」がいなくなったから、抑え込まれていた力が、決壊したダムのように溢れ出したのだ。
絶対的な静寂。
灰色の世界で、意識を失った少年だけが、糸の切れたマリオネットのように、ゆらりと立ち尽くしていた。




