30.【硝子の檻】
分厚い鋼鉄の扉をこじ開けた瞬間、俺の鼻腔を突いたのは、徹底的に濾過された無臭の空気だった。
背後には、破壊されたタレットと瓦礫の山。硝煙と粉塵が舞う地獄のような通路。 だが、扉の向こう側――『セクター4』の内部は、まるで時間が止まっているかのように静謐で、清浄だった。
そこは、巨大なドーム状の空間だった。 天井は高く、無影灯の白い光が部屋の隅々までを容赦なく照らし出している。 壁一面に埋め込まれた計測機器。絶えず流れるバイタルデータの数値。蜘蛛の巣のように張り巡らされたケーブルの束。
それらすべてが、部屋の中央にある「一点」に向かって収束していた。
巨大な強化ガラスで仕切られた、完全隔離室。 その中心に、彼女はいた。
「……母、さん?」
俺の喉から、空気の漏れるような音がこぼれた。 自分の足音を引きずりながら、ガラス壁へと近づく。 近づくたびに、心臓が凍りついていくのがわかった。
部屋の中には、簡素なパイプベッドが一つ。 そこに、白い拘束衣を着せられた女性が、膝を抱えてうずくまっていた。
伸び放題の髪は白髪が混じり、枯れ草のようにパサついている。露出した腕や首筋は、骨の形が浮き出るほどに痩せ細っていた。 俺の記憶の中にある、ふっくらとして温かかった母の面影は、そこにはなかった。 あるのは、使い古され、壊れるまで搾取された「部品」の残骸だけ。
「……あ、う……」
俺がガラスに手をつくと、彼女がビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。 目が合った。
その瞬間、俺の胸に突き刺さっていた最後の希望の欠片が、音を立てて砕け散った。
その瞳には、何も映っていなかった。 かつて俺に向けられていた、慈愛に満ちた光。悪戯っぽい笑み。俺の成長を喜んでくれた知性の輝き。 それらすべてが消失し、深く濁った泥水のような色が、ただ虚空を彷徨っている。
彼女は俺を見ている。 だが、俺を「息子」として認識していない。 いや、そもそも目の前にいるのが「人間」であることさえ理解できていないようだった。
「……あめ。……あめ、ふってる?」
彼女の唇が動き、乾いた声が漏れた。 俺は息を呑んだ。 地下深くのこの部屋に、雨など降っているはずがない。 だが、彼女の耳には聞こえているのだ。壁のスピーカーから流される、環境音(人工的な雨音)が。 それは、研究員たちが彼女の「反応」を引き出すためだけに流している、パブロフの鐘だ。
彼女は体をゆらゆらと揺らし始めた。 壊れたメトロノームのように、不規則なリズムで。 そして、歌い出した。
――フフフ、フフーン……。
あのハミングだ。 木島のデータにあった、あの子守唄。 だが、目の前で聞くその声は、データよりも遥かに空虚で、残酷だった。
そこには「愛」がない。 誰かを寝かしつけようとする意志もない。 ただ、脳の奥底に焼き付いた「条件反射」として、意味もわからず音を紡いでいるだけ。
「母さん……俺だ。刹那だ」
俺はガラスを拳で叩いた。血まみれの手形がつく。
「わかるだろ? 迎えに来たんだ。もう大丈夫だ、ここから出よう!」
叫んでも、彼女の反応は鈍かった。 叩いた音に怯え、小さく悲鳴を上げてベッドの隅へ縮こまるだけ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。いいこにします……。だから、いたいのは、いや……」
幼児退行。 その言葉が脳裏をよぎる。 彼女はもう、大人の女性としての自我を失い、恐怖に怯える子供のような精神状態にまで退行させられていたのだ。 父さんによる度重なる記憶操作と、終わりのない人体実験の果てに。
「…………ッ!!」
俺は額をガラスに押し当てた。 涙が出なかった。 涙などという生ぬるい液体は、体内の猛火によって瞬時に蒸発してしまった。
代わりに、胃の底からどす黒いマグマが噴き上がり、全身の血管を駆け巡る。
殺す。 殺してやる。
その時だった。 頭上から、拍手の音が降ってきた。
パチ、パチ、パチ、パチ。
乾いた、嘲るような音が、静寂なドームに反響する。 俺は弾かれたように振り返り、上を見上げた。 ドームの上層部分、ガラス張りのコントロールルームから、一人の男がこちらを見下ろしていた。
天野宗一。 仕立ての良いスーツに身を包み、変わらずサングラスをかけたその男は、まるで動物園の飼育員が凶暴な獣を観察するかのような態度で、優雅に手すりに寄りかかっていた。
「感動の再会だな、刹那」
マイクを通した声が、部屋全体に響き渡る。
「どうだ? 13年ぶりに見る母親の姿は。……美しいだろう?」
「……どこがだ」
俺は低い声で呻いた。喉から血の味がする。
「母さんを……よくもこんな姿に……!」
「何を怒っている? 彼女は幸せなんだぞ」
宗一は悪びれる様子もなく、肩をすくめた。
「余計な知性も、苦悩する自我も取り払ってやった。彼女に残っているのは、雨音を聞いて歌うという、原始的な快楽だけだ。悩みも苦しみもない、無垢な存在へと還してやったのだ。感謝こそされ、恨まれる筋合いはない」
「ふざけるなッ!!」
俺はホルスターから拳銃を抜き、コントロールルームへ向けて発砲した。 ターンッ! 銃声が響く。だが、弾丸は防弾ガラスに弾かれ、虚しく火花を散らすだけだった。 宗一は微動だにしない。
「野蛮だな。やはり失敗作と交じると、品性が下がる」
彼は溜息をつき、指をパチンと鳴らした。
ゴゴゴゴゴ……。 重低音と共に、部屋の左右の壁が開いた。 そこから現れたのは、二体の巨大な影。 今まで俺が戦ってきた怪物よりも一回り大きく、全身が黒い装甲板のような皮膚で覆われた異形。 その首輪には、『Sample-Alpha』『Sample-Beta』というタグが光っていた。
「紹介しよう。最高傑作の『実験体』たちだ」
宗一の言葉に、俺は身構えた。
「市街地に放流していた失敗作とは違う。戦闘用に調整を施し、私の命令に絶対服従するようプログラムされた、完璧な生体兵器だよ」
怪物たちが喉を鳴らし、涎を垂らす。 その瞳には知性の欠片もなく、ただ殺戮への飢えだけが渦巻いていた。 今まで戦ってきた奴らとは、纏っている空気が違う。 純粋な暴力の塊。
「さあ、始めようか。最後の性能テストだ」
宗一が腕を広げ、宣告した。
「殺せ。……そして証明してみせろ。どちらが優れた道具であるかを」
怪物たちが咆哮を上げた。 鼓膜を破るような絶叫。 俺は奥歯が砕けるほど噛み締め、拳銃を構え直す。
体は限界だ。視界は霞み、立っているのがやっとだ。 だが、後ろには母さんがいる。 この硝子の檻だけは、死んでも守らなければならない。
(やるぞ、刹那)
俺は己の中の獣に呼びかける。 これが最後の戦いだ。 俺の命を、全部燃やし尽くしてでも。 この狂った実験を、終わらせてやる。




