29.【拒絶する回廊】
地下五階への階段を降りきると、不意に空気の質が変わった。
上層階に漂っていたカビ臭さも、実験動物たちの排泄物や血の臭いもしない。完全な無菌室のような、冷たく乾いた空調の風だけが肌を刺す。 その清浄さが、かえってここで行われていることの異常さを際立たせていた。
目の前に広がるのは、装飾の一切ない、一本の長い直線通路。 その突き当たり、五十メートル先に、巨大な鋼鉄の扉が鎮座していた。
『Sector 4 - Special Isolation《特別隔離区画》』。
あそこだ。あそこに母さんがいる。
俺が通路へ一歩踏み出した、その瞬間だった。
ウィィィン……。
重苦しい駆動音と共に、通路の両壁がスライドして開いた。 現れたのは、無機質なカメラレンズと、多銃身の回転機関砲――ガトリング・タレット。
その数、左右合わせて十基以上。
警告音も、降伏勧告もない。 父さんは、俺を生かして捕らえる気など微塵もないのだ。ここから先へ進もうとする者は、肉片になるまで挽き潰して洗浄する。そういう明確な意志を感じさせる「殺意の壁」。
ヒュンヒュンヒュン……!
タレットの回転音が唸りを上げ、死の旋律を奏で始める。 毎分三千発の金属の嵐が、この狭い通路を隙間なく埋め尽くそうとしていた。
逃げ場はない。防御も不可能。 無能力者の「駆」ならば、認識する間もなく蜂の巣にされ、ここで死んでいた。
だが。
「……遅い」
俺は回転する銃身を見据えたまま、世界を切り離した。
(止まれ、刹那ッ!!)
キィィィン……。
脳髄を貫く高い耳鳴りと共に、世界から色彩が消え、灰色の静寂が訪れる。
タレットから吐き出された最初のマズルフラッシュが、美しい蓮の花のように空中で凝固した。 銃口を飛び出した数発の弾丸は、ライフリングの回転を残したまま、俺の鼻先数メートルのところで静止している。
俺は走り出した。
重い。 空気が粘着質な液体に変わったかのように、俺の手足にまとわりつく。
静止した弾丸の横をすり抜ける。 一歩進むごとに、心臓が悲鳴を上げる。脳の血管が膨張し、内側から破裂しそうだ。視界の端がチカチカと明滅し、ノイズが走る。
痛い。苦しい。熱い。
世界を止めるということは、世界の物理法則《理》をたった一人で背負うことだ。 その反動が、すべて俺の神経を焼き尽くしにかかる。
五十メートル。
遠い。永遠のように遠い。 空中に固定された「死の線(弾道)」を、縫うようにして進む。 もしここで集中が途切れれば、俺の体は停止した弾丸に自ら突っ込み、穴だらけになるだろう。
三十メートル。
鼻から血が吹き出す。拭う暇はない。 意識が飛びそうになるのを、奥歯が砕けるほど噛み締めて繋ぎ止める。
十メートル。
鋼鉄の扉が目の前に迫る。 右側には電子ロックの制御盤がある。ハッキングしている時間も、パスワードを入力する余力もない。
俺は腰のホルスターから拳銃を抜き、凍りついた制御盤に銃口を押し当てた。 ゼロ距離射撃。
トリガーを引く。撃鉄が落ちる感触。 本来なら発射されるはずの弾丸は、薬室の中で爆発のエネルギーを蓄えたまま止まっている。
限界だ。 俺は扉の前に体を滑り込ませ、肺の中の空気をすべて吐き出した。
(解除)
ドガガガガガガッ!!
時間が動き出した瞬間、背後で凄まじい轟音が炸裂した。
何千発もの銃弾が、誰もいない空間を一斉に切り裂き、コンクリートの床を粉砕する。 舞い上がる粉塵。跳弾の火花。
同時に、俺の目の前で銃声が弾け、制御盤が火花を吹いてショートした。
プシューッ……。
油圧シリンダーが空気を抜く音。 ロックを失った分厚い鋼鉄の扉が、わずかに開く。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
俺はその場に膝をつき、胃液を吐き出した。
両目から、耳から、血が垂れる。脳が揺れている。 頭が割れそうだ。全身の細胞が壊死したかのように重い。
だが、生きてる。
振り返れば、通路は瓦礫の山と化していた。あの死の雨の中を、俺は一発も喰らわずに通り抜けたのだ。
体は代償でボロボロだ。あと一回能力を使えば、脳が焼き切れて死ぬかもしれない。 それでも、俺は父さんの拒絶をねじ伏せた。
震える足に力を込め、壁に手をついて立ち上がる。 扉の隙間に指をかけ、こじ開ける。
その先にあるのは、俺がずっと求めていた答えだ。




