2.【異世界への通学】
玄関を出ると、世界は鮮やかな色彩に溢れていた。
十月の澄んだ空。街路樹の色づき始めた葉。登校中の小学生たちの黄色い帽子。 そのすべてが、俺にはガラスの向こう側の景色のように感じられる。 触れられない。混ざり合えない。
俺は制服のポケットに手を突っ込み、少し猫背気味に歩く。 ブレザーの下、脇腹に巻いたテーピングが擦れて痛む。この痛みだけが、俺を現実に繋ぎ止めている唯一のアンカーだ。
駅のホームは、通勤通学のラッシュでごった返していた。 満員電車に揺られながら、周囲の会話が鼓膜を叩く。
「昨日のドラマ見た? マジ泣けたんだけど」 「次の模試、ヤバくない? 全然勉強してねーし」 「スタバの新作、今日飲み行こうよ」
平和だ。 あまりにも平和すぎて、吐き気がする。
彼らは知らない。自分たちが笑って話しているこの日常の皮一枚下で、どんな怪物が蠢いているのかを。昨夜、俺がどんな思いで、あの肉塊と対峙していたのかを。
知らなくていい。父さんは言った。 『大衆は無知なままでいい。知ることは恐怖だ。我々が恐怖を引き受けるのだ』と。
その言葉は正しい。 だが、時々どうしようもなく叫び出したくなる衝動に駆られる。
俺を見ろ。俺を知ってくれ。俺はここにいる。 お前たちのために、血を流している俺がここにいるんだと。
「――おい、駆!」
背後から肩を叩かれ、俺はビクリと身をすくめた。 反射的に肘打ちを入れそうになるのを、寸前で抑え込む。
振り返ると、クラスメイトの陽介が立っていた。 屈託のない笑顔。サッカー部のエースで、クラスの人気者。俺とは正反対の人間だ。
「お、おはよう、陽介」
「なんだよ、すげぇビビり方だな。幽霊でも見たか?」
陽介はケラケラと笑いながら、俺の背中をバシバシと叩く。 ちょうど痣の上だ。
激痛が走る。脂汗が滲む。だが、俺は表情筋を総動員して、ぎこちない笑みを浮かべた。
「……考え事をしてたんだ。いきなり叩くなよ」
「悪い悪い。で、お前、進路調査票書いたか? 今日の放課後だろ、お前の面談」
「ああ……まあね」
「お前、成績いいんだからどこでも行けるだろ。国立狙いか? それとも親父さんの仕事継ぐとか?」
親父さんの仕事。
陽介の言葉に、心臓が嫌な音を立てた。 表向き、父さんは貿易会社の社長ということになっている。海外を飛び回り、希少な美術品や骨董品を扱うビジネスマン。
だが、俺が継ぐのはそんな優雅な仕事じゃない。 血と泥にまみれ、歴史の闇に葬られる掃除屋だ。
「……まだ、決めてないよ」
「ふーん。まあ、駆ならなんとかなるっしょ。俺なんか、サッカー推薦取れなかったら詰むわー」
陽介の明るい声が、遠くで響いているように聞こえた。 なんとかなる。
彼らにとっての未来は、無限の可能性が広がる白いキャンバスなのだろう。 だが、俺にとっての未来は、一本の細く暗いトンネルだ。




