28.【サングラスの男】
その時、不意に端末の画面が切り替わった。
俺が操作したのではない。外部からの強制的な割り込みだ。 ノイズが走り、残酷な真実を映し出していたデータの羅列が消える。
代わりにモニターに映し出されたのは、優雅で、そして反吐が出るほど見慣れた光景だった。
セクター4の最深部と思われる、無機質な白い部屋。 その中央に置かれた革張りの椅子に、一人の男が座っていた。
天野宗一。
父さんは、片手に赤ワインの注がれたグラスを持ち、まるでオペラでも鑑賞するかのように、薄く笑っていた。
『……見たようだな、刹那』
スピーカーから響く、重厚で粘着質な声。 それは俺の鼓膜を震わせ、脳の奥にある恐怖の中枢を直接撫で回すような不快な響きを持っていた。
『どうだ? 自分の人生が、偶然や愛などという不確定なものではなく、緻密に計算され、設計された芸術作品だと知った気分は』
芸術作品。
母さんの人生を壊し、俺の心を弄び、兄弟たちを怪物に変えて殺し合わせる。その地獄絵図を、この男は芸術と呼ぶのか。
「……殺す」
俺はモニターに向かって、低い声で唸った。 叫びはしない。激情は通り越し、心臓が凍りつくような冷徹な殺意だけが残っていた。
「あんたは狂ってる。人間じゃない。絶対に生かしておかない」 『フッ。威勢だけはいいな。……だが、お前に私が殺せるか?』
宗一はワイングラスをサイドテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。 カメラに顔を近づける。画面越しでも伝わってくる圧倒的な威圧感。
彼は室内だというのに、色の濃いサングラスをかけていた。
そういえば、と思い出す。 俺は父さんの素顔を――その「目」を、まともに見たことがない。
家での食事の時でさえ、彼は決してサングラスを外さなかった。光を眩しがっているわけでもないのに、頑なに視線を隠していた。
『お前は昔から、私の目を見て話すのが苦手だったな』
宗一が、サングラスの奥から俺を覗き込むように、意味深に呟く。
『躾が必要かもしれん。「親の目を見て話せ」とな』
ザザッ、と激しいノイズが走り、モニターがブラックアウトした。 通信が切れた。
静寂が戻った部屋で、俺は今の言葉を反芻する。
目を見て話せ。 記憶操作。 そして、決して外さないサングラス。
……まさか。 バラバラだったピースが、俺の脳内で一つの仮説へと組み上がる。
父さんの能力『記憶操作(精神干渉)』。 あれほど強力な力が、無条件で発動できるはずがない。対象の脳に侵入し、信号を書き換えるには、何らかの「接続パス」が必要なはずだ。
それが、もし「視線」だとしたら?
サングラスは、自身の能力を無差別に発散させないための拘束具、あるいは視線を隠して奇襲するための武器だとしたら?
「……『目』だ」
俺は確信に近い推論を口にした。
奴の能力の発動条件は、「対象と視線を合わせるアイコンタクト」だ。 視神経を通じて脳へ侵入コードを送る、視覚媒介型の催眠。それが父さんの能力の正体だ。
だとしたら、勝機はある。 俺には「時間」がある。
俺は脳内で、対抗策のシミュレーションを超高速で展開した。
「見る」という行為の物理的な正体は何か? それは、対象物に反射した「光」が、眼球の網膜に届き、電気信号に変換されて脳に送られるプロセスだ。
つまり、光が届かなければ、人は物を見ることができない。
では、時間が止まった世界ではどうなる?
時間は「速度」の分母だ。時間がゼロになれば、あらゆる速度は存在できなくなる。 たとえ、光速であってもだ。
俺が時間を止めた瞬間、空間を飛び交う光の粒子もまた、その場に縫い留められて静止する。
光が動かない世界。 それは即ち、新たな視覚情報が一切伝達されない「暗闇の牢獄」と同じだ。
止まった時の中で、父さんが俺を見ようとしても、父さんの網膜には新しい光が届かない。俺の姿を認識することすらできない。
認識できなければ、視線は通じない。 視線が通じなければ、記憶操作の能力も届かない。
「……勝てる」
俺の能力は、父さんの能力に対する完全なアンチテーゼだ。
父さんが支配できるのは「動いている時間の中の認識」だけ。 俺が支配する「止まった時間」の中では、視線など無意味なガラス玉に過ぎない。
恐怖は消えた。 あるのは、獲物を追い詰める狩人の冷静さと、燃え上がるような闘志だけ。
「待ってろ、母さん」
俺は亀裂の入った端末に背を向けた。 そして、地下五階へと続く最後の重い扉の前に立つ。
「そして待ってろ、天野宗一。……あんたの作った最高傑作が、あんたのシナリオを粉々に叩き壊しに行ってやる」
俺は電子ロックを解除し、扉を蹴り開けた。
その先には、広大な闇と、囚われた母、そして待ち受ける元凶がいる。 俺は光の届かない灰色の世界を纏い、最後の戦場へと足を踏み入れた。




