26.【母の秘密】
その部屋は、巨大なサーバー室のようだった。
空調の低い唸り声だけが響く無機質な空間。壁一面のモニターには、複雑な家系図のようなホログラムと、絶えず流れる数値の滝が投影されている。
俺は中央のメイン端末に飛びつき、木島から託されたパスワード――俺の真名『SETSUNA』を打ち込んだ。 まだ見るべきデータがある。なぜ、母さんが選ばれたのか。なぜ、俺が生まれたのか。
画面に『母体データ:天野(旧姓・月見里) 奏』というファイルが表示された。 添付されたプロファイルには、こう記されていた。
『保有能力:局所保存』 概要:接触した有機物・無機物の劣化、および変化を遅延・停止させる異能。エントロピーの増大に逆らい、対象の「現在」を固定する性質を持つ。
保存……。
俺の脳裏に、古い記憶が蘇る。庭の花壇。母さんが触れた花だけが、季節が過ぎても枯れずに咲き誇っていた光景。「母さんのお花は魔法だね」と笑う俺に、母さんは「秘密よ」と悪戯っぽく微笑んでいた。
あれは、ただのガーデニングの才能なんかじゃなかった。能力だったのか。
記述は続く。ここからが、父の研究の核心――狂気の論理だった。
『仮説』 天野宗一の持つ”記憶操作”と、母体の持つ”局所保存”の交配は、既存の能力体系を超越した**”事象への干渉権限”**を発現させる。
俺は息を呑んで、その下に記された実証データを追った。そこには、俺という人間が設計された「設計図」が書かれていた。
『理論解析』 父体・宗一の「記憶操作」の本質は、他者の脳内信号への**”侵入”と”書き換え”**である。 これは対象のシステムに対し、自身の意図した情報を強制的に上書きする、極めて攻撃的な「改変力」だ。
一方、母体・奏の「局所保存」は、触れた物の状態を維持するだけの受動的な力に過ぎない。
この二つの因子を掛け合わせると、どうなるか。 母体の持つ「状態を固定する(止める)」という性質に、父体の持つ「対象の理をねじ伏せる」という強制力が付与される。
俺は画面に食い入るように文字を追った。
『結論』 母体由来の「保存」能力は、父体由来の「改変力」によって爆発的に進化する。 それは「触れた物を守る」という受動的な壁ではない。
世界という巨大なシステムに対し、「止まれ(保存せよ)」という命令を強制的に書き込んで実行させる、絶対的な支配権へと変貌する。
すなわち、次世代種《刹那》の保有する”時間停止”とは、物理法則へのハッキングである。
吐き気がした。
父さんは、母さんを愛して結婚したんじゃない。 自分の「改変力」と、母さんの「止める力」を混ぜ合わせれば、世界を止められると考えた。
ただそれだけのために、母さんを選び、俺を作った。 俺は、愛の結晶なんかじゃない。品種改良によって作られた、実験動物だ。
さらに、その下に『能力発現記録:20XX年・X月X日』という動画ファイルへのリンクがあった。 サムネイルには、5歳の俺と、リビングで倒れている母さんが映っている。
俺は震える指で再生ボタンを押した。
映像は、父さんが事前に仕掛けた隠しカメラの映像だった。
強盗役の男が、母さんにナイフを振り上げている。 母さんは俺を逃がそうと、俺の前に立ちはだかり、両手を広げて男を制止しようとしている。
幼い俺は腰を抜かし、少し離れた場所で泣き叫ぶことしかできない。
「やめて! 母さんをいじめないで!」
男がナイフを振り下ろす。銀色の刃が、母さんの肩口に迫る。 その瞬間。 幼い俺が、絶叫と共に手を伸ばした。
『――置いていかないで!!』
その叫びは、「助けて」ではなかった。
今までの幸せな時間を終わらせたくない。母さんを失いたくない。 その強烈な**”保存”への渇望が、父から受け継いだ”書き換え”の本能**をトリガーし、世界の理をハッキングした。
ブツン。
映像の中でノイズが走り、画面がフリーズしたかのように止まった。
いや、違う。故障じゃない。 振り下ろされるナイフも、恐怖に歪む母さんの表情も、机から落ちかけた花瓶から飛び散る水滴も。
すべてが物理法則を無視して、空中で完全静止していた。 世界でただ一人、幼い俺だけが動いていた。
これが、最初の発現。 無意識の「時間停止」。
だが、次の瞬間、悲劇が起きた。
幼い俺は、止まった世界の中で、凶刃の前に立つ母さんを助けようと、無我夢中で駆け出した。 その足が、テーブルの上に置かれた電気ポットのコードに引っかかった。
ポットが宙を舞う。
だが、時間は止まっている。 ポットは空中で逆さまになったまま静止し、蓋が外れ、中の熱湯がこぼれ出る寸前で固まっていた。 その真下に、母さんがいた。
何も知らない俺が、母さんの腰に抱きついた瞬間。 俺の安心感が、能力の解除トリガーとなった。
ドォン!!
時間が動き出した瞬間、先送りされていた物理現象が一斉に牙を剥いた。 頭上で逆さまになっていたポットから、沸騰した熱湯が滝のように落下したのだ。
直撃だった。 母さんの右手に、煮えたぎる湯がかかる。
「きゃあああっ!」
母さんの悲鳴。赤くただれる右手。 映像の中の俺は、自分のしたことがわからず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
画面の下に、冷酷な分析ログが流れる。
『観察ログ』 能力の威力は絶大だが、制御不能。 停止時間内での被検体の行動(コードへの接触)が、解除後に物理的な事故を誘発。 結果として、被検体は「自らの不注意で母親を傷つける」という事態を招いた。
『追記』 この事故は好都合である。 母親への攻撃という事実は、被検体に強烈なトラウマ《罪悪感》を植え付けた。 この罪悪感こそが、能力を無意識下に封印する、**最強の安全装置**となる。
「……あぁ」
俺は口元を手で覆った。
思い出した。 俺だ。 父さんが雇った強盗じゃない。
俺が、俺の不注意が、母さんを傷つけたんだ。 俺が時間を止めて動き回ったせいで、母さんは大火傷を負ったんだ。
父さんはそれを利用した。「お前のせいだ」とは言わず、記憶を消すことで、「守れなかった無力な自分」という偽りのトラウマにすり替えた。
だが、俺の魂は覚えていた。 俺が能力を使えば、大切な人が傷つく。
だから俺は、無意識のうちに能力を拒絶し、才能がないと思い込むことで、自分自身を縛り付けていたのだ。
父さんの記憶操作だけじゃない。 俺自身が、「もう二度と母さんを傷つけたくない」と願い、その力を封印していたんだ。




