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母が俺を忘れても ~無能と蔑まれた少年は、静止した時の中で最強へ覚醒する~  作者: おーあい


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22.【地獄の標本】

 重厚な扉の向こう側は、まるで世界の色をすべて漂白したような空間だった。


 内部は、冷たい病院のような消毒液の臭いが充満している。 だが、それは清潔さを意味する匂いではない。腐敗や血の臭いを、化学薬品で無理やり塗りつぶしたような、鼻の奥がツンと痛む人工的な悪臭だ。


 延々と続く長い廊下。 等間隔に並ぶ無機質な白いドア。


 人の気配はない。あるのは、天井のダクトから吐き出される空調の低い駆動音だけ。 ヴォォォン……という重低音が、巨大な生物の体内を歩いているような錯覚を起こさせる。


 俺は木島のデータにあった地図を頭に描きながら、地下へと進んだ。


 階段を一段降りるたびに、空気が冷たく、重く澱んでいくのがわかる。まるで、現世から切り離された冥府の底へと潜っていくようだ。


 地下二階。 突き当たりにある観音開きの扉には、無機質なフォントでこう記されていた。


『被検体管理区画《Specimen Management Sector》』


 俺は息を止め、そのドアを押し開けた。


 その瞬間、俺はこみ上げる嘔吐感を堪えるのに必死になった。 消毒液の臭いでも隠しきれない、濃厚な絶望の臭気。排泄物と、乾いた血と、人間の脂が酸化したような臭いが熱風となって俺の顔を撫でた。


 そこは、ガラス張りの独房が左右にずらりと並ぶ回廊だった。


 動物園の展示室のようだ、と直感した。 だが、中にいるのは動物ではない。


「人」だった。 かつて人間としての尊厳を持ち、誰かの家族であり、誰かの友人であったはずの者たち。


 だが、今の彼らは、父による**「記憶の凌辱」**を受け、人の形をした別のナニカに変わり果てていた。


 すぐ右手の部屋。 一人の男が、壁に向かってひたすら頭を打ち付け、爪で床を掻きむしっていた。


「やめろ、やめろ、俺だ、開けてくれ、熱い、熱い!」


 男は絶叫していた。爪はとうに剥がれ落ち、額からは血が噴き出している。それでも彼は止まらない。 ガラス面のモニターには、冷酷な実験内容が表示されていた。


『No.104:火災による家族焼失の記憶(架空)を移植』 大脳辺縁系への直接干渉により、”家族を助けられなかった瞬間”を1/2倍速で連続再生中。現在248周目。


 架空の記憶……?


 俺は息を呑んだ。 この男は、実際には起きてもいない「家族が焼け死ぬ光景」を、父の能力によって脳に植え付けられ、それを現実だと信じ込まされたまま、終わらない地獄を何百回も繰り返させられているのか。


 精神的過負荷ストレスによる能力覚醒を誘発するために。


 左手の部屋からは、虚ろな笑い声が聞こえた。 若い女が、自分の腕を赤子のように抱きかかえ、あやしている。だが、その腕には何もない。


 彼女の目は白濁し、焦点が合っていない。


『No.108:”我が子を自らの手で殺める記憶”を上書き保存』 自我の崩壊と引き換えに、防御系能力の兆候アリ。継続して精神崩壊プロセスを進行させる。


 彼女は、自分が子供を殺したと思い込まされている。 その罪悪感と絶望で心を壊され、現実逃避のために「まだ子供は生きている」という妄想の中に逃げ込んだ成れの果てだ。


 さらに奥には、ピクリとも動かない老人がいた。


『No.112:記憶容量の限界実験』 一万年分の”虚無”の体感時間を一瞬で脳へ圧縮転送。廃人化。本日24時に廃棄予定。


 廃棄。サンプル。実験体。


 そこには「人間」に対する言葉など一つもなかった。スーパーマーケットで肉の鮮度を管理するかのような、徹底した事務的な記述。


 街で行方不明になり、家族が必死に捜索願を出している人々が、ここではただの「脳みその耐久テスト」の道具として消費されている。


「父さん……あんた、人間じゃない」


 俺の喉から、乾いた音が漏れた。 震える拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、血が滲む痛みだけが、俺の理性を繋ぎ止めていた。


 これが、父さんの守りたかった世界か? 世界を守る? 正義?


 ふざけるな。 他人の脳みそを弄くり回して、地獄を見せ続けて、こんな悲劇の上に成り立つ平和に、何の意味があるんだ。


 俺が今まで「父さんの役に立ちたい」と願い、命がけで戦ってきた日々は、こんな悪魔の所業を隠すための蓋でしかなかったのか。 俺も同罪だ。俺はこの地獄の番犬だったんだ。


 目頭が熱くなる。だが、泣いている場合じゃない。 この奥に、母さんがいる。


 もし母さんが、この実験の犠牲になっていたら。 もし、終わらない悪夢の中を彷徨わされていたら。


 俺の中の何かが、どす黒く変質していくのを感じた。 それはもう、正義感なんて綺麗なものじゃない。


 純粋で、冷酷な殺意。


 この施設を、組織を、そして父さんを、一つ残らず消し去らなければならないという、義務に近い復讐心。


 俺は吐き気を飲み込み、地獄の回廊をさらに奥へと進んだ。 足音は立てない。だが、俺の心臓は怒りで早鐘を打ち、全身の血液が沸騰するような音を立てていた。


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