21.【雨の研究所】
夜明け前。 空はまだ、墨を流したような深い群青色に沈んでいる。
ワイパーが追いつかないほどの豪雨が、フロントガラスを叩き続けていた。 俺は組織のセダンを、研究所から数キロ離れた獣道の入り口に乗り捨てた。これ以上近づけば、地中に埋設された車両検知センサーに引っかかる。
車のドアを開けると、冷たい湿気と腐葉土の匂いが肺を満たした。 泥濘に足を取られながら、俺は鬱蒼とした森の中を進んだ。
雨は止む気配を見せない。 だが、この悪天候は好都合だ。雨音は足音を消し、視界の悪さは警備の目を曇らせる。
三十分ほど歩いた先、木々の切れ間から、その異様な巨体が姿を現した。
天野製薬・第三研究所。
人里離れた山間部にひっそりと佇むその施設は、巨大なコンクリートの墓標のように見えた。 窓は一つもなく、外界を完全に拒絶する無機質な灰色の箱。
表向きは「老朽化のため閉鎖中」とされているが、それは真っ赤な嘘だ。 高さ三メートルの有刺鉄線付きフェンスには、『高圧電流・立入禁止』の警告表示が掲げられ、等間隔に配置された監視カメラの赤いLEDが、闇の中で不気味に瞬いている。
老朽化した廃墟に、最新鋭のセキュリティなど必要ない。ここに守るべき「何か」がある証拠だ。
俺は泥にまみれながら茂みに伏せ、単眼鏡を取り出して施設を観察した。
ここだ。ここに、すべてがある。 母さんが、父さんのついた巨大な嘘が、そして俺の奪われた過去が。
正面突破は自殺行為だ。 正門には重武装の警備兵が二人。詰所の中にも数人の反応がある。彼らはただの警備員じゃない。組織が飼っている手練れの実働部隊だ。まともにやり合えば、銃声で増援を呼ばれ、蜂の巣にされる。
(……能力を使えば、正面から突破できるか?)
俺は自問し、即座に否定した。
否だ。大賀教官との戦いで知った。意識的に時間を止める行為は、脳と肉体に凄まじい負荷をかける。 たかが入り口の番犬相手に、虎の子の切り札を切るわけにはいかない。
この奥には、もっと凶悪な防衛システムや、父さんが待ち構えているはずだ。体力と精神力は、一滴たりとも無駄にはできない。
俺は「刹那」という能力者である前に、組織に鍛え上げられた「道具使い」だ。 まずは、知恵と技術、そして最小限の能力で攻略する。
俺はフェンス沿いに移動し、警備の死角を探った。 カメラの首振り周期、センサーの検知範囲。
二つのカメラの視界が重ならない「空白」の瞬間は、計算上わずか〇・五秒。 人間の反射神経では、その隙間を縫ってフェンスを越えることは不可能だ。
だが、今の俺にならできる。 「不可能」を「可能」にするためだけに、俺は世界を騙す。
(止まれ)
キィィィン……。
脳髄を震わせる耳鳴りと共に、世界から「音」が消えた。 空中で静止した雨粒が、水晶のカーテンとなって俺の視界を埋め尽くす。
警備兵の欠伸も、吐き出された白い息も、風に揺れる木々も、すべてが凍りついた灰色の静寂。
俺は、その隙間へ体を滑り込ませた。
走る必要さえない。俺は冷静に、停止したセンサーの検知ラインをまたぎ、フェンスの有刺鉄線の隙間に絶縁フックを掛けた。
電流も、光も、時間停止の中ではその意味をなさない。 俺は音もなくフェンスを乗り越え、内側のコンクリート地面へと着地する。 所要時間、体感で一秒未満。脳への負荷は感じない。
これならいける。
(解除)
ドォン!
音が戻る。世界が再始動する。 激しい雨音が鼓膜を打ち、カメラのモーター音が再開する。レンズが俺のいた場所を通り過ぎるが、そこにはもう誰もいない。
警備兵は何事もなかったかのように口を閉じ、カメラは誰もいないフェンスを映し続けている。
「……よし」
俺はすでに施設の内側、搬入口にあるコンテナの影に身を潜めていた。 呼吸は乱れていない。鼻血も出ていない。
最小限の力で、最大の障害を越えた。これが、俺の戦い方だ。
俺は搬入口の電子ロックにハッキングツールを接続した。 画面に幾何学模様のような暗号コードが走る。組織で叩き込まれた技術が、皮肉にも今、父さんの城を攻略するための武器になっている。
カチッ。
電子音が小さく鳴り、ロックのランプが緑へと変わった。 重い鉄扉が音もなく開く。
俺は荒い息を一つ整え、未知の深淵へと足を踏み入れた。




