20.【覚醒の代償】
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!」
俺はその場に膝をついた。
激しい目眩と吐き気が、波のように押し寄せる。視界がぐるぐると回り、世界が歪んで見えた。 鼻からツーっと温かいものが流れ落ちる。手の甲で拭うと、雨水に混じって赤黒い血が広がった。
(……これが、代償か)
俺は震える手で血を拭った。脳の奥が焼け付くように熱い。
今まで、戦闘後に時計が数分遅れることはあっても、こんな風に肉体が悲鳴を上げるような反動はなかった。なぜだ?
すぐに仮説が浮かぶ。
今までの俺は、無意識に「一瞬」だけを切り取っていたんだ。 銃弾が迫る0.1秒。刃が届く0.1秒。
その極小の「点」を、戦闘中に何百回も積み重ねていただけだ。瞬きをするような感覚で時間を止めていたから、脳への負担は分散され、自覚症状もなかった。
だが、今の俺は違った。
数秒間、意識的に世界をこじ開けて、その停止した状態を「維持」し続けた。
時間を止めること自体よりも、止まった世界を「維持」し続けることの方が、桁違いに脳を焼くのだ。 流れる川を素手で堰き止めるような、圧倒的な圧力が精神にかかる。
たった数秒の連続使用でこれだ。もし十秒、二十秒と止め続けようとすれば、俺の脳は負荷に耐えきれず、焼き切れて死ぬだろう。
(……使いこなすには、コツがいるな)
だが、今はこれでいい。生き残ったという事実だけが、俺の正しさを証明している。
俺はよろめく足で立ち上がり、気絶している大賀に近づいた。
彼は泥水の中でピクリとも動かないが、胸は上下している。息はある。肋骨の二、三本は折れたかもしれないが、あの頑丈な人だ、命に別状はないはずだ。
俺は彼の腰から、予備のマガジンと、組織の車両キーを抜き取った。
バイクでは目立つし、長距離移動には不向きだ。それに、今のボロボロの体調で雨の中を走るのは自殺行為に等しい。
「……教官。あなたの教え通り、知恵と道具を使いましたよ」
俺は静かに告げた。激しい雨音が、俺の声をかき消していく。
「俺自身の『能力』という、最高の道具を。……さようなら」
俺は路地裏を出た。
近くに停められていた、組織の黒塗りのセダンに乗り込む。 ドアを閉めると、雨音が遠くなり、密室の静寂が戻ってきた。高級車の革の匂いが、鉄錆と血の匂いを上書きする。
エンジンをかける。暖房の風が、冷え切った体を少しだけ温める。 目的地は、天野製薬・第三研究所。
ダッシュボードのデジタル時計を見る。
『04:10』。
俺のスマホの表示よりも、また一分ほど遅れている。 だが、俺はもうリューズを回してそれを直そうとはしなかった。
このズレは、故障じゃない。俺が「刹那」として生きた証だ。 世界の理に抗い、時間を奪い取って勝利した証だ。
俺はアクセルを踏み込んだ。
雨のハイウェイを、夜明けに向かって疾走する。 母さんの待つ場所へ。 そして、俺の全てを奪った父さんの待つ場所へ。




