19.【灰色の世界】
キィィィン……。
脳髄を直接震わせるような高い耳鳴りが響き、唐突に世界から「音」が消えた。 鼓膜を叩いていた激しい雨音が、プツリと断線したように止む。 風の唸りも、遠くの街の喧騒も消え失せた。
俺の心臓の鼓動さえも、どこか遠い別の次元へ行ってしまったかのような、絶対的な静寂。
俺は恐る恐る目を開けた。
目の前に、大賀のナイフの切っ先がある。俺の喉元の皮膚まで、あと数ミリ。 だが、止まっている。
大賀の鬼気迫る形相も、額から飛び散る汗の粒も、空中に舞う無数の雨粒も。 すべてが、精巧な蝋細工のジオラマのように、その場に縫い留められていた。
色はなかった。 世界はモノクローム《灰色》の静寂に沈んでいた。
灰色の空、灰色の雨、灰色の路地。光の屈折さえも停止した世界。 その中で、俺だけが、色彩と体温を保ったまま存在している。まるで、静止画の中に迷い込んだ異物のように。
「……できた」
自分の声だけが、頭蓋骨に直接響く。
これが、時間停止。 父さんが恐れ、俺から奪った、本当の力。
だが、感動に浸る暇はなかった。 直後、強烈な負荷が俺を襲った。
心臓が焼けつくように熱い。血液が沸騰しそうだ。脳が万力で締め付けられるような圧迫感。視界の端がチカチカと明滅し、ノイズが走る。
世界を止めるということは、世界の法則《理》をたった一人でねじ曲げるということだ。その反動が、全て俺の肉体にのしかかる。
長くは保たない。本能がそう告げている。一秒? 二秒? それが限界だ。
俺は泥水の中から体を起こした。 水飛沫は上がらない。泥水もまた、流体としての性質を失い、硝子のように固まっているからだ。空気が粘り気を帯び、動くだけで体力を削り取られる。
止まった大賀を見る。 俺を殺そうとした師匠。その目は、獲物を仕留める喜びに満ちている。
俺に戦う術を教えてくれた恩人。だが今は、父の手先。 ナイフを奪ってその首を掻き切れば、それで終わりだ。音もなく、痛みもなく、彼は死ぬ。父さんなら迷わずそうするだろう。
俺の手がナイフに伸びかける。 だが、俺は歯を食いしばり、その手を止めた。
「……俺は、父さんとは違う」
殺しはしない。だが、その牙は折らせてもらう。
俺は大賀の懐に入り込んだ。 彼の持っている二本のナイフを、指先で弾き飛ばす。ナイフは宙を舞うこともなく、その場に浮遊したまま静止する。
そして、がら空きになったボディへ、腰の回転を乗せた渾身の拳を叩き込んだ。
ドスッ。
インパクトの瞬間、奇妙な手応えがあった。 肉の柔らかさがない。まるで巨大な岩盤を殴ったような硬さ。時間が止まっているから、衝撃が伝播せず、変形もしないのだ。
だが、物理法則は死んでいない。時間が動き出せば、ここに蓄積された運動エネルギーが、一気に解放されるはずだ。
限界が来る。 視界の端から、灰色の世界にピキピキとひび割れが入っていく。ガラスが割れるような幻聴が脳内に響く。
俺はバックステップで距離を取った。 肺の中の空気をすべて吐き出し、世界との接続を戻す。
「解除」
ドォォォン!!
爆音と共に、世界が再生された。 轟音のような雨音が、ドッと雪崩れ込んでくる。
同時に、蓄積された衝撃が炸裂した。
大賀の体がくの字に折れ、弾丸のように後方へ吹き飛んだ。
「ガハッ……!?」
彼は何が起きたのか理解できないまま、数メートル後ろのゴミ集積所に突っ込み、アルミ缶の山を派手に崩して沈黙した。




