1.【鈍色の朝】
セットしたスマートフォンのアラームが鳴るよりも先に、俺は目を覚ました。 体内時計が正確に時を告げているのではない。生存本能が、安らぎを拒絶しているのだ。
午前六時三十分。 カーテンの隙間から差し込む朝日は、白く濁って見えた。まるで水槽の底から水面を見上げているような、頼りない光。
意識が覚醒すると同時に、全身を鈍く、重い痛みが駆け巡った。 筋肉が軋み、骨が悲鳴を上げる。
昨夜、C地区の廃工場で遭遇した怪物との死闘の代償だ。 奴の鋭利な爪が空を切った時の風圧、コンクリートの壁に叩きつけられた衝撃、そして鼻腔に残る鉄錆と腐肉の臭い。それらが昨日のことではなく、つい数秒前の出来事のように蘇る。
鏡を見なくてもわかる。 制服の下、背中や脇腹には、赤紫色の痣が地図のように広がっているはずだ。肋骨あたりが痛む。だが、病院に行くわけにはいかない。 この傷の理由は、誰にも説明できないからだ。
俺は重力に逆らうようにして、鉛のように重い体をベッドから起こした。 深く、長く息を吐く。肺の奥から、昨夜吸い込んだ硝煙と獣の臭いがする気がして、不快感に顔をしかめた。
部屋の空気は、ひどく冷え切っている。 暖房が効いていないからではない。生活の匂いが欠落しているからだ。
殺風景な六畳間。あるのは必要最低限の家具――机とベッド、そして本棚だけ。 壁にはアイドルのポスターの一枚も貼っていない。本棚には参考書と、父さんから課題として与えられた専門書が並ぶだけで、漫画や雑誌の類は見当たらない。高校生らしい趣味の道具や、友人との写真はどこにもない。
代わりに、部屋の隅には無骨なガンロッカーと、メンテナンス用の工具箱が鎮座している。 オイルと金属の冷たい匂い。 これが、俺の世界のすべてだ。
ふらつく足取りで洗面所へ向かう。 洗面台の鏡に映った自分の顔は、幽霊のように顔色が悪かった。 肌は血の気を失い、目の下には濃い隈がへばりついている。瞳は澱んでいて、光を反射しない。
十八歳。 青春を謳歌し、未来に希望を抱くべき年齢の顔ではない。まるで、何か大事なものを少しずつ削り取られながら生き長らえている、死に損ないの老人のような目だ。
「……ひどい面だ」
自嘲気味に呟き、蛇口を捻る。 水流の音が静寂を破る。両手で掬った冷たい水で顔を洗うと、皮膚が引き締まり、いくらかマシな気分になった気がした。
ここからは「切り替え」の時間だ。 俺は「組織の道具」としての自分を脱ぎ捨て、「平凡な高校生・天野駆」という皮を被る。
父さんが用意した、完璧な偽装。 クラスメイトも、教師も、誰も想像しないだろう。あのおとなしい優等生が、夜な夜な人知れず怪物と殺し合いをし、泥と血にまみれているなんて。
着替えを済ませ、一階のリビングに降りると、そこには深海のような静寂が満ちていた。 広すぎるリビングダイニング。モデルルームのように整頓された家具。埃一つないフローリング。 そこには、家族の団欒などという温かいものは存在しない。
広いダイニングテーブルの端に、ラップのかかった一人分の朝食と、一枚のメモが置かれている。 俺はメモを手に取った。 走り書きではない。定規で引いたような、整然とした筆跡。
『今夜は遅くなる。例の件、準備をしておくように』
おはよう、の一言もない。体調を気遣う言葉もない。 ただの業務連絡。 それが、この家における「父と子」の会話のすべてだった。
俺はメモをくしゃりと握りつぶし、ゴミ箱へ放り投げた。 冷めたトーストを口に運ぶ。味はしなかった。
父さんは忙しい。この街を、世界を影から守るために奔走している。 わかっている。わかっているけれど、朝の食卓で一度くらい、「おはよう」と言葉を交わしてみたかった。
そんな甘えた思考が頭をもたげるたび、俺は昨夜の自分の無様さを思い出す。 才能がない俺には、そんな資格はないのだと。




