18.【無才の足掻き】
大賀が、濡れたアスファルトを強く踏みしめた。 ドォン、と腹に響く重低音と共に、大柄な体が砲弾のように射出される。
速い。 人間離れした速度だ。降りしきる雨のカーテンを無理やりこじ開け、瞬きするよりも早く俺の目の前へと肉薄してくる。 その姿は、獲物を狩る老練な狼そのものだった。
正面からやり合えば、三秒で殺される。
俺は反射的にバックステップで距離を取りながら、左手をタクティカルベストのポーチへ走らせた。指先が冷たい金属のリングに触れる。 閃光弾だ。
「喰らえッ!」
ピンを抜き、大賀の足元へ投げつける。
カッ!
路地裏の闇が一瞬で消し飛び、視界を焼き尽くす白光が炸裂した。 普通の人間なら、これで視神経を焼かれ、平衡感覚を失ってうずくまるはずだ。
だが――大賀は止まらない。
彼は閃光が炸裂するコンマ一秒前に瞼を閉じ、走る速度を緩めず、雨音に紛れた俺の「足音」と「衣擦れの音」だけを頼りに突っ込んできたのだ。
「甘い!」
光の残滓を切り裂き、銀色の閃光が走った。 コンバットナイフの刃だ。
俺はとっさに左腕を上げ、特殊合金製のガントレットでそれを受け止める。
ガギィィンッ!
耳障りな金属音が響き、散った火花が雨に濡れた頬を焦がす。
重い。 まるで鉄柱で殴られたような衝撃が骨まで浸透し、左腕の感覚が一瞬で消し飛んだ。 だが、攻撃は終わらない。
二撃目、三撃目。
左右のナイフが、生き物のように俺の急所を狙って食らいついてくる。 呼吸をする隙さえない。ナイフの軌道が見えない。俺は防戦一方だった。
(くそっ、やっぱり強い……!)
歯を食いしばりながら、俺はどうにか致命傷だけを避ける。 だが、大賀は俺の動きの癖を、思考のパターンを、呼吸の間合いさえも知り尽くしている。
俺が右に避けようとすれば、すでにそこに刃が置かれている。 俺が反撃しようと重心を落とせば、即座に膝で牽制される。
まるで数秒先の未来を予知されているかのような、絶対的な閉塞感。 これが、俺に戦い方を教えてくれた師匠の壁だ。
「どうした、道具を使え! 知恵を絞れ!」
大賀の罵声が飛ぶ。それは失望の色を含んでいた。
「お前には才能がない! だから誰よりも考え、誰よりも卑怯になれと教えたはずだ!」
言葉と共に、重い前蹴りが俺のガードを突き破り、鳩尾に深々と突き刺さった。
「がっ……、ぁ……!」
肺の中の空気が強制的に吐き出される。 俺の体は枯れ葉のように吹き飛び、泥水の中へと無様に転がった。
背中を地面に打ち付けた衝撃で、視界が明滅する。 口の中に、泥と鉄の味が広がった。 冷たい雨が、容赦なく俺の顔を叩く。起き上がろうとするが、手足に力が入らない。
圧倒的な実力差。
今まで俺が戦えていたのは、相手が理性のない怪物だったからだ。力任せに暴れるだけの獣相手なら、罠や小細工でどうにでもなった。 だが、理性を持ち、技術を極め、殺し合いの何たるかを知り尽くした達人相手には、付け焼き刃の小細工など通じない。
大賀がゆっくりと歩み寄ってくる。 その姿が、雨に濡れて歪んで見える。
「立てないか。……なら、終わりだ」
彼は俺を見下ろし、悲しげに、しかし冷徹に告げた。
「無才なお前が生き残るには、組織に縋るしかないんだ。なぜそれがわからん! 父という庇護者がいなければ、お前はただの無力な子供なんだぞ!」
大賀が逆手に持ったナイフを高く振り上げた。 狙いは俺の喉元。 その切っ先が、雨粒を弾いて鈍く煌めいた。
死ぬ。 そう直感した瞬間、俺の脳裏に、走馬灯のように先ほどの光景が蘇った。
ネットカフェの薄暗い個室。 モニターに映し出された、父の書いたドキュメント。
『被検体名:天野 刹那』 『時間停止(Time Stop)を発現させる』
そうだ。 俺は無能じゃない。 俺は道具使いの「駆」じゃない。
(俺には、力が……ある)
死にかけた時、世界がスローモーションに見えた、あの奇妙な浮遊感。 あれは脳の錯覚じゃなかった。死への恐怖が見せた幻でもなかった。
俺が、止めていたんだ。 無意識のうちに、世界から時間を奪い取っていたんだ。
ナイフが振り下ろされる。 その軌道が、目に見える。
怖いか? いや、違う。 今は恐怖よりも、確信が俺の体を満たしていた。
なら、今度は意図的にやるんだ。 運に頼るな。偶然にすがるな。 俺自身の意志で、この理不尽な世界をねじ伏せろ。
心臓が焼けつくほど熱くなる。 脳の血管が膨張し、神経の一本一本が悲鳴を上げる。
イメージしろ。 雨音を消せ。風を凪がせろ。 流れる秒針を、俺の指で押さえつけるんだ。
止まれ。 止まれッ!
俺は迫りくる白銀の刃を見据え、魂の底から叫んだ。
「――止まれ、刹那!!」




