15.【ハミングと座標】
膨大なリストをスクロールしていく手が、不意に止まった。
画面を埋め尽くす無機質な英数字とIDの羅列。その海の中で、異質な輝きを放つファイル名が俺の視線を捉えたからだ。
リストの末尾、他の実験データとは隔離されるように、ポツンと一つだけ保存されている音声ファイル。
ファイル名は『Original_Humming.wav』。
心臓がドクリと跳ねた。 木島が死の直前に聞かせてくれた、あのハミングだ。
俺は備え付けのヘッドフォンを手に取った。安っぽい合皮のイヤーパッドは冷たく、微かに他人の整髪料の匂いが染み付いている。 それを耳に当て、震える人差し指で再生ボタンをクリックした。
ザザッ……というホワイトノイズが数秒。 その向こうから、あの優しい声が流れてきた。
――フフフ、フフーン……
頭痛はしなかった。木島のオフィスで聞いた時のような、脳を直接殴られるような衝撃はない。
代わりに、胸の奥がギュッと締め付けられるような、切なく、どうしようもない懐かしさが込み上げてくる。 それは、記憶の底に沈んでいた「色彩」を呼び覚ます音だった。
俺はゆっくりと目を閉じた。
ネットカフェの薄暗い天井が消え、瞼の裏に鮮やかな映像が浮かび上がる。
それは雨の日じゃない。 暖かな陽光が差し込む、晴れた日の午後だ。
開け放たれた窓から風が入り、レースのカーテンが柔らかく膨らんでいる。空気中を舞う埃さえも、光を受けて金粉のように輝いている。
母さんが窓辺で洗濯物を畳んでいる。 逆光で顔の表情までは見えない。けれど、その手つきはどこまでも丁寧で、優しく動いている。洗い立てのリネンの匂いと、日向の匂い。
母さんが歌い出す。このハミングを。 独特なリズム。少し音程の外れた、けれど世界で一番安心できる旋律。
それは幼い俺にとって、あらゆる悪夢を遠ざける魔法の結界だった。
目を開ける。 現実が戻ってくる。薄汚れたモニターと、ブースを仕切る合板の壁。
俺は大きく息を吐き出し、音声ファイルのプロパティ画面に視線を落とした。 次の瞬間、俺は息を呑んだ。
そこには、俺の美しい記憶を根底から覆す、決定的な矛盾が刻まれていた。
『作成日:20XX年10月5日』
何度も瞬きをして、見直した。 日付は合っている。母さんが死んだとされる日だ。
だが、年がおかしい。 俺の記憶にある「母さんの死んだ年」よりも、数字が一つ多い。
一年後だ。
これは、母さんが死んで葬儀が行われた、その一年後に作成されたファイルだ。
背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。 死人が歌を録音できるはずがない。幽霊の声でなければ。
だとすれば、答えは一つしかない。 木島の言った通りだ。
母さんは、生きている。死んでなどいなかった。
さらに、備考欄に短い英数字の羅列があった。
『N34.69_E135.50_Sector4』
座標だ。 俺はすぐにブラウザを開き、地図検索にその数値を打ち込んだ。エンターキーを叩く音が、静かな個室に響く。
ロード中の円が回り、地図が表示される。 赤いピンが刺さった場所は、隣県の深い山間部だった。
『天野製薬・第三研究所』。
その名前を見た瞬間、俺の奥歯がギリと鳴った。
父さんの会社が所有する施設だ。だが、俺は一度も行ったことがない。 幼い頃、父さんに「あそこは何?」と尋ねた時、彼は興味なさそうに答えた。「老朽化して閉鎖された廃墟だ。近づくと崩れる危険がある」と。
嘘だ。 廃墟の座標が、機密データの中に記録されているはずがない。
「ここか……」
画面上の赤いピンを指でなぞる。
ここに母さんがいる。 そしておそらく、父さんがひた隠しにする真実も、俺の失われた記憶も、すべてこのコンクリートの壁の向こうにある。
座標の下に、もう一行、メッセージのようなものが隠されていた。 それは木島が、あるいはこのデータを管理していた誰かが残した、最後の導きだった。
『Password hint: The stopped second《止まった秒針》』




