13.【逃亡者の夜】
十月の雨は、世界の輪郭を溶かすように、執拗に降り続いていた。
アスファルトを叩く雨音が、俺の思考を遮断しようとするノイズのように響く。 俺はバイクを飛ばしていた。行き先など決まっていない。ただ、背後にある「日常」という名の虚構から、少しでも遠くへ逃れたかった。
アクセルを回す手首が、寒さと緊張で強張っている。 ヘルメットのシールドを無数の雨粒が叩きつけ、街灯の光を乱反射させて視界を歪める。流れていく街の景色は、まるで出来損ないの走馬灯のように色の尾を引いていた。
心臓の鼓動が、エンジンの振動と共鳴して早鐘を打っている。 ドクン、ドクンと脈打つたびに、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
左胸のタクティカルベスト、その隠しポケットに入れた小さなUSBメモリ。
重さにして数グラムもないはずのそのプラスチック片が、今はまるで臨界点に達した核燃料のように熱を帯び、俺の肋骨を内側からじりじりと焼いていた。
『お前が信じている世界は、本当に正しいのか?』
木島の言葉が、ヘルメットの中で反響する雨音に混じって、何度もリフレインする。
俺はずっと信じてきた。 父さんは世界を影から守る正義の騎士であり、俺はその剣として生きるのだと。俺には特別な才能がないから、誰よりも努力して、傷だらけになって、そうやって父さんの役に立つことでしか生きる価値がないのだと。
だが、木島は言った。 それは「教え込まれた」ことではないのか、と。
もし、俺の信じてきた「正義」が、父さんの都合の良い「嘘」だったとしたら? 俺が狩ってきた怪物たちが、ただの害獣ではなく、父さんによって造られた犠牲者だったとしたら?
赤信号が、血のような色で目の前に立ちはだかった。
俺はハッとして急ブレーキをかける。濡れた路面で後輪がスリップし、車体が大きく右へ振られた。
「くっ……!」
反射的に足をついてどうにか転倒を防ぐ。 すぐ横を、大型トラックがけたたましいクラクションを鳴らしながら、水飛沫を上げて通り過ぎていった。風圧で体が煽られる。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
俺はヘルメットの中で荒い息を吐いた。シールドが自分の呼気で白く曇る。 ハンドルを握る手が震えている。雨の冷たさのせいじゃない。恐怖だ。
絶対的な支配者である父に背いた恐怖。
そして何より、自分の足元が崩れ去り、底なしの暗闇へと落ちていくような、根源的な不安。 自分が誰なのか、何のために生きているのか、その輪郭さえも雨に溶けて消えてしまいそうだ。
家に帰るわけにはいかない。
あの丘の上に建つ、美術館のように冷たく整然とした邸宅。あそこで、父さんのサングラス越しの眼光を見れば、俺はきっと動揺を隠しきれない。
木島があそこまで命懸けで守ろうとしたデータだ。もし父さんに見つかれば、没収されるだけでは済まない。俺の存在ごと消去されるかもしれない。
俺は、確かめなければならない。 父さんが何を隠しているのか。木島が命と引き換えに残した「矛盾」の正体を。
信号が青に変わる。
俺は進路を変えた。 郊外の自宅へ続く道ではなく、駅前の繁華街へ。ネオンが毒々しく煌めく、雑居ビルの狭間へ。
組織の監視網から逃れ、データを解析できる場所が必要だ。
数分後。 俺は、雑居ビルの四階にある古びたネットカフェ『サイバー・オアシス』の看板を見上げ、バイクのエンジンを切った。
雨音だけが、耳に残った。




