プロローグ 【遅れた秒針】
十月の冷たい雨が、廃工場のトタン屋根を叩いていた。 錆びついた鉄骨の匂いと、湿った埃の匂い。そこに、鼻を刺すような生臭い獣の体臭が混じっている。
俺は物陰に身を潜め、呼吸を極限まで浅くした。 心臓の音がやけにうるさい。肋骨を内側からノックするこの音だけで、居場所を悟られてしまいそうだった。
制服のブレザーの上から着込んだタクティカルベストが、雨と汗で重く張り付いている。 明日は三者面談だ、と場違いな思考が脳裏をかすめた。進路調査票にはまだ何も書いていない。担任の溜息と、教室の乾いた空気。そんな平和な日常が、今は酷く遠い世界の出来事に思える。
闇の奥から、濡れた雑巾を引きずるような足音が聞こえた。
「……ア、ァ……」
喉の奥で泡立つような唸り声。 来た。
俺は握りしめていた特殊警棒のグリップを確かめ、逆の手でポケットの中のスタングレネード(閃光手榴弾)に触れた。 ターゲットは、市街地に現れた「怪物」だ。
突如として街に現れ、人を襲う謎の怪物。父さんの組織は、これを駆除するために存在している。 本来なら、処理班と呼ばれる重武装の部隊が当たる相手だ。だが、今夜ここにいるのは俺一人しかいない。
『お前には才能がない。だから、誰よりも努力しろ。結果で示せ』
耳に装着したインカムからではなく、脳裏にこびりついた父の声が響く。 そうだ。俺には才能がない。
父さんは、この街を影から守る偉大な指導者だ。組織の幹部たちも、火を操り、影に潜む、選ばれた能力者たちだ。 けれど俺には、何もない。十八年間生きてきて、スプーン一つ曲げられた試しがない。
だから俺は、道具を使う。知恵を絞る。泥水をすすり、地べたを這いずり回ってでも、任務を遂行する。 そうしなければ、俺がこの世に存在する価値はなくなってしまうから。
足音が止まった。 廃工場の中央、天井の破れ目から差し込む月明かりの下に、その影が躍り出た。
四つん這いの巨体。膨れ上がった筋肉が皮膚を裂き、赤い繊維が剥き出しになっている。顔の半分は溶解したように崩れ、歪な牙が並ぶ口からは絶え間なく唾液が滴っていた。
目が合った。 爬虫類のような縦に割れた瞳孔が、獲物である俺を捉えて収縮する。その瞳の奥に、一瞬だけ、酷く怯えたような色が浮かんだ気がした。
(……なんだ?)
違和感を覚える暇もなく、怪物が床を蹴った。
「――ッ!」
思考より早く、体が動いた。 俺は物陰から飛び出すと同時に、ピンを抜いたスタングレネードを怪物の足元へ放った。
爆音。 そして、視界を焼き尽くすほどの閃光。
怪物が悲鳴を上げてたじろぐ。普通の生物なら鼓膜が破れ、三日は視力を失うほどの衝撃だ。だが、コイツらの回復力は異常だ。隙は数秒しかない。
俺は床を蹴った。コンクリートの冷たさが靴底を通して伝わってくる。 距離を一気に詰める。狙うのは、筋肉の鎧に覆われていない唯一の弱点、喉元の気管だ。
警棒を展開する。先端から青白いスパークが散った。
「落ちろぉぉッ!」
吼えるように叫び、全体重を乗せて警棒を突き出す。 だが。
「や、め……」
不意に、人の言葉のような音が耳を掠めた。 え?
思考が一瞬、空白になる。 その隙を、怪物は見逃さなかった。見えていないはずの腕を、滅茶苦茶に振り回したのだ。
本能による迎撃。丸太のような腕が、俺の胴体を薙ぎ払おうと迫る。 速い。予測していたより遥かに速い。
空中で体勢を変えることは不可能だ。このまま突っ込めば、警棒が届くよりも先に、俺の肋骨は粉砕され、内臓ごと壁に叩きつけられるだろう。
死ぬ。 その文字が、脳裏を埋め尽くした。
嫌だ…死にたくない。まだ、父さんに認めてもらっていない。まだ、何も成し遂げていない。
動けッ…
迫りくる剛腕の表面に浮いた血管の一本一本が、スローモーションのように見えた。 飛び散る汗の粒が、宝石のように空中で静止している錯覚。
走馬灯か。死ぬ間際、人間の脳は処理速度を極限まで上げて時間を引き延ばすという。これがそれか。
(動け、動け、動けッ!)
俺は歯が砕けるほど噛み締め、凍りついたような時間の中で、無理やり体を捻った。 あり得ない機動。物理法則を無視した回避。
怪物の爪が、俺の鼻先数ミリを通過していく。風圧すら感じない。まるで、世界そのものが停止し、俺だけがその隙間を滑り抜けたような、奇妙な浮遊感。
次の瞬間、俺の警棒は怪物の喉元に深々と突き刺さっていた。
ドォォォンッ!
遅れてやってきた衝撃音。 俺はスイッチを押し込み、最大電圧の電流を流し込んだ。
肉が焦げる不快な臭い。怪物は断末魔を上げることもできず、痙攣し、白目を剥いて崩れ落ちた。 巨大な肉塊が床に倒れ込み、廃工場全体を揺らす。
「はぁ……はぁ……ぐっ……」
俺は怪物の体から警棒を引き抜き、その場に膝をついた。 胃液がせり上がってくる。全身の筋肉が悲鳴を上げ、指先が小刻みに震えて止まらない。
「生きている…のか?…」
喉に手を当てる。脈拍は早鐘を打っているが、痛みはない。あの至近距離の攻撃を、どうやって躱したのか自分でも分からなかった。
「運が、良かっただけか……」
まただ。いつもこうだ。 ギリギリのところで、俺は何かに助けられて生き延びる。それを人は悪運と呼ぶのかもしれないが、俺にとっては自分の未熟さの証明でしかなかった。圧倒的な力でねじ伏せる才能がないから、運ごときに頼ることになる。
ふと、倒れた怪物の腕に視線が落ちた。 剛毛に覆われた手首に、何か光るものが埋まっている。泥と血にまみれているが、それは切れかけた銀色のチェーンのようにも見えた。
(……アクセサリー?)
こんな化け物が、なぜ。 さっきの声もそうだ。空耳だろうか。まるで人間が助けを乞うような声だった。 言いようのない悪寒が背筋を走る。俺は逃げるように視線を逸らし、左手首の腕時計を見た。
「……あ?」
俺は眉をひそめた。 液晶画面の数字は『23:19』を示している。
工場に突入する直前に時間を確認した時、たしか『23:08』だったはずだ。 索敵に時間をかけ、怪物と対峙し、攻防を繰り広げた。体感では、少なくとも十五分は経過している。息もこれだけ上がっているんだ。たった四分で終わるような戦いじゃなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点灯させる。 『23:24』
スマホの表示は、腕時計よりも五分進んでいた。
「……またかよ」
俺は深く溜息をついた。 この時計を買ったのは先月だ。まだ電池が切れるはずがない。それなのに、気づくとこうして数分、ひどい時は数十分も遅れていることがある。
「安物はこれだから駄目なんだ」
舌打ちをして、俺は腕時計のリューズを長押しし、時間をスマホの表示に合わせた。
『23:19』から『23:24』へ。
俺が死にかけていた、あの時間。 それがどこへ消えたのか、なぜ世界と俺の時計だけがズレるのか。その意味を深く考えるには、俺はあまりに疲れすぎていた。
ザザッ、とインカムにノイズが走った。 背筋が反射的に伸びる。冷え切っていた体に、緊張という名の熱が戻る。
『――聞こえるか』
抑揚のない、重厚な声。 父さんだ。
「はい。聞こえます」
震えそうになる声を必死に抑え、俺は答えた。
『反応が消えたな。終わったのか』 「はい。ターゲット、沈黙しました」 『そうか。……奴は、何か言っていたか?』
奇妙な質問だった。いつもならすぐに次の指示が出るのに。
「いえ、特には。ただの唸り声だけでした」
俺はとっさに、あの空耳のような声を飲み込んだ。報告するほどのことでもないと思ったし、何より、それを口にすることがなぜか怖かった。
『……そうか。ならいい』
父さんの声色が、ほんの少しだけ緩んだように聞こえた。
『処理班を向かわせる。お前はすぐに帰還しろ』 「あの、単独で倒せました。少しは、役に立てたでしょうか」
すがるように尋ねた俺に、父さんは冷たく言い放った。
『遅い。処理班の到着を待てと言ったはずだ。お前には才能がないのだから、無謀な真似はするな』 「……はい」
通信が切れる。プツン、という電子音が、世界から切り離されたような孤独を告げていた。
俺はスマホをしまい、雨漏りする天井を見上げた。 才能がない。無謀だ。遅い。 父さんの言葉は、いつだって正しい。俺は今日、運良く生き残っただけだ。
強くなりたい。 父さんの役に立つ、完璧な兵士になりたい。 そうすればいつか、父さんは俺を「息子」として見てくれるだろうか。今はただの「道具」として扱われているこの身を、抱きしめてくれるだろうか。
足元に転がる怪物の死骸。 その虚ろな目が、雨に打たれて濡れている。まるで、泣いているように見えた。




