飲まず食わずの男性
『えーっと。で、私の話をしてもいい? 私が、気になるものを見たっていう話ね。私も貴女と同じで、男の人を見たんだけど』
そういえば、そういうことを言っていた。私ばかり話していると、つい相手の話を忘れてしまいがちだから我ながら困ったものだ。
「うん。私も気になる、気になる。どんな人だったの? 怖い話なら、ちょっと先にトイレへ行っておきたいんだけど」
『怖くない、怖くない。でも、ある種、鬼気迫る話じゃないかな。まあ評価は貴女に任せるから。私も日曜日に、近所のステーキ屋で外食してたのよ。ランチタイムに、チキンステーキを食べるのが安くて美味しいのね。サラダバーも付けて、バイキング方式でフルーツやゼリーやパスタをお皿に取って食べて。ドリンクバーやジェラートバーも注文してさ。
ジェラートバーって知ってる? ドリンクバーには飲みものがあって、ジェラートバーはアイスクリームを冷蔵庫のケースから、好きなだけお皿に掬って食べられるの』
「うん、まあシステムはわかるよ」
『それで、ドリンクバーで野菜ジュースをコップに注いで。ジェラートバーでバニラとマンゴー味のアイスをお皿に盛って、席に戻ったのね。そしたら私の隣の席に、大きな男の人が座ってさ。一八〇センチ近くはあったかな。店員が注文を取りに来てね、なにを彼は頼んだと思う?』
「なにをって、それはまあ、三百グラムのステーキとかじゃない? 予算しだいだろうけど」
『そうね。そう思うわよね、身体が大きい男性なんだからさ。でも彼は違ったの。『サラダバーだけで』って言ったのよ。店員さんも変な顔をして、戻っていってさ。彼の席にはサラダバー用のお皿と、お水が置かれたんだけど。その男性さん、席から動かないのよ』
さぁ、変な話になってきた。バイキング方式の飲食店で、席から立たない男性。やっぱり怖いというか、怪談話なんじゃないのかしら。
「おかしいでしょ。なんでサラダバーで、料理を取りに行かないのよ。席で試験勉強でもしてるの?」
『してない、してない。彼は耳にイヤホンを付けて、なにか音楽を聴いて、小刻みに身体を動かしてるの。自分の中にイメージを持ってて、それだけを見て、外界からの誘惑を断ち切ってるような。そんな感じだったわ』
「……ありえないでしょ。そんなの焼肉屋で、のど飴だけを舐めて過ごすようなものじゃない。だって周囲からは、ステーキのいい匂いがしてるんでしょ? お腹が空いたからステーキ屋に来たんじゃないの? なにをしているのよ、いったい」
『なにをしているのか、実際のところはわからないんだけどね。私はチキンステーキを食べ終わって、アイスも平らげて。サラダバーで、ホイップクリームをお皿に取ってさ。それでドリンクバーで、ホットコーヒーをカップに注いで席へ戻ってね。スプーンでホイップクリームを一口、味わってからコーヒーを飲むのよ。美味しいから試してみて』
「あー、ウィンナーコーヒーとかあるよねー。コーヒーの上にクリームを浮かべる飲み方が。試したことはないけど」
『で、隣の席の彼は、なんにも食べないし飲まないの。水の一滴もよ? そのころになって、なんとなく私も、彼がなにをしてるのかわかってきたわ』
「さっぱりわからないわよ、私は。正解があるなら教えて、教えて」
お腹でも痛いのだろうか。それでも、具合が悪いのにわざわざステーキ屋に行く理由がわからない。もっと安いファミレス店は、いくらでもあるはずなのだ。
『私が考える正解はね。彼は減量をしているのよ。だから、なんにも食べないし飲まないの』
「……いや、意味がわかりませんけど。ダイエットしてるってこと? そんな人はステーキ屋から遠ざかるべきじゃないの」
お肉だけを食べるダイエット法でも実践中なのか。そんなわけでもなさそうだけど。だってサラダバーしか注文してないんでしょうよ彼は。
『違うわよ、ダイエットじゃなくて減量。たぶん彼は格闘技の選手なの。ボクシングかなにかじゃないかな、小刻みに身体を動かしてたのは、試合のイメージトレーニングをしてたんだと思う』
「……まだ意味がわからないんだけど。試合前で減量をしているボクサーが、ステーキ屋に寄ったっていうの? 水の一滴も飲めないくらい追い詰められてる人が? 一番、寄っちゃいけない場所じゃないの」
『理屈でいえば、そうなんだけどね。でも想像できない? たとえば日本チャンピオンに挑戦しようとしてるボクサーが、試合前に思うのよ。『俺がチャンピオンになったら、もっと裕福になって、大きなステーキを腹いっぱい食べるんだ』ってさ。ボクシングって、チャンピオンになるまではそんなにお金を稼げないみたいだし』
そうなの? そんなことあるぅ? ミュージシャン志望の子どもが楽器店の前で、店内のトランペットを見つめてるような状況なのだろうか。『僕も将来、ビッグになるんだ』とか思いながら。
「試合前で減量中のボクサーさんが、ステーキ屋に来てサラダバーを注文したのは、イメージトレーニングというか精神修行のため? もっと安いドリンクバーにしなかったのは、店員から冷やかしだと思われて嫌がられるのを避けるためと。そう言いたいの?」
『そういうことよ、たぶんね。根拠もあって、隣の席の彼は、メニューを熟読しだしたの。お酒とか、大きなステーキが載ってるメニューを。小説でも読むみたいに、じっくりと。でも注文はしないのよ。私も、いつまでも店にいるわけにいかないから、適当なところで帰ったけどね。彼はなんにも食べないまま、店を出たんじゃないかな。そう思うわね私は』




