猫と奴隷と太公望
それは深夜のことだった。
もうすぐ赤子が生まれると察し、何かあればすぐ駆けつけられるように俺は羊小屋の前で寝ていた。
羊の呻き声で目を覚ますと、空は雲に覆われているのか、月も星もほとんど見えなかった。
呻き声のする方へ目を向けたが、暗闇が広がり何も見えなかった。
暗闇の中、寝泊まりする小屋の中へ戻り、ルナを無理やりに起こすと、ルナは俺に蝋燭という便利な灯火を渡し、メイを起こしに行った。
俺はその蝋燭の小さな火種を小屋にあった松明に灯し、小屋全体を照らした。
妊娠した羊の周りには誰も近寄らず、ただ1匹、
横になりながら呻き声を上げていた。
もう既に破水していたのか、その周りが湿っていて、俺はとにかく近づいてその様子を見守った。
昔羊を飼っていた時は、こんな風に出産を見守るなんてことは、昼間くらいしか無かった。
そのせいなのか、時々命を落とす羊もいたが、それはそれで自然の摂理だと割り切っている節があった。
だが今は、メイに言われたこともあり、こうして眠いのも我慢して生命の誕生を見守った。
慌ただしい足音と共にルナとメイが駆けつけてくると、ふたりは母羊を励ますように「頑張れ」と声をかけながら、その出産を固唾を飲んで見守った。
2回目の破水が発生し、もうすぐ生まれるのではないかと、メイと顔を見合せて頷いた。
1度目の破水の時間は分からないが、難産にはならないと、そう油断していたかもしれない。
それからしばらくしても、中々赤子は出てこなかった。
母羊はずっともがき、いきむように呼吸していたが、子供の姿は現れない。
まさか中で死んでしまっているのではと、不安になった頃、ようやく体の一部が姿を現した。
「まずい⋯⋯」
だが出てきたのは、前足でも頭でもなく、後ろ足が1本だった。
これでは上手く出てこれないし、下手をしたら腹の中で死んでしまう恐れがある。
「これを」
俺は右手の松明を、両手を祈るように握りしめて額に汗を滴らせていたメイに手渡し、羊の親子の元に向かった。
母羊の顔は心なしか苦痛で歪み、息が随分と荒くなっていた。
そして子羊の方も、出てきた片足を震わせるだけで、それ以上出てくる様子がない。
「少し我慢しろよ」
親子に声をかけ、子羊の足を片手で持ち、もう片方の手を母羊の体内に少しだけ入れ、子羊の足を両手で掴んだ。
息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出しながら、慎重に、丁寧に足を引っ張る。
母羊は随分と苦しそうにしているが、もう少しの辛抱なのだ。
耐えてくれと願いながら赤子を引っ張り出すと、無事母の中から出てきて、藁の上でその小さな体を震わせた。
「よく頑張ったな」
母羊の腹を撫でながら、安堵の息を吐く。
昔何度か赤子を引っ張り出したが、今回は後ろ足からでてきただけで済んで良かった。
頭や前足が変な形で出てきたり、尻尾だけが出てきた時は随分苦労したというか、間に合わず命を落とした赤子もいた。
「ああ、よかった」
歓喜で声を震わせながら駆け寄るメイ。
その手にあったはずの松明はルナに渡され、そのルナは後ろで微笑みながらこちらを見ている。
「ありがとうございます望さん」
「いや、頑張ったのは彼女達だ。メイ、あとは頼んだ」
既に母羊は産まれたばかりの子の身体を舐めている。
とりあえずは一安心か、何かあっても俺もこれ以上は何も出来ない。
ぬるぬるとした手を洗うため、井戸まで行きたいが、明かりがないと井戸の場所が覚束無い。
「ルナ、手を洗いたいからついてきてくれ」
ルナの元へ向かうと、ルナは俺に笑顔を見せながら、小さな声で呟いた。
「あの子、望さんに感謝してますよ。ありがとうって言ってます」
「⋯⋯そういえば、動物と意思疎通できるって言ってたな⋯⋯ホントどうなってるんだ」
ちなみに、ルナに乗られるのが好きな変わり者はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。
「どうですか? 誰かから感謝されるのは」
ルナが首を傾げながら俺を見つめてくる。
その顔はあどけなさを残しながらも、どこか神秘的で、触れれば消えてしまいそうな儚さを感じさせた。
「別にどうということは無い」
「私の願いを叶えてくれれば、もっと大勢から感謝されますよ」
「それは大勢の羊か? それとも猫か?」
言いながらふと顔が綻んだ。
別に面白い訳ではなく、皮肉を込めて言ったのだが、何故か笑ってしまった。
「もう⋯⋯強情ですね」
ルナは呆れたように口角を上げながら、フッと微笑して、先導してくれるのか、先に小屋を出た。
白雲の背中に隠れていた満月が、いつの間にか地上をほのかに照らしている。
まるで新しい生命の誕生を寿ぐような光だ。
「月が⋯⋯綺麗だな」
「え?」
ふと俺が呟いた言葉に、前を歩くルナが足を止めた。
「そうですね。たしかに綺麗です」
空を見上げたルナは俺の言葉に納得したらしい。
人生とは、月の満ち欠けと同じく、満ちる時もあれば、辛く幸せが欠ける時もある。
今俺は満たされている。
平穏な生活があり、憎しみや悲しみといった感情が沸き起こることがない。
だがそんな幸福で満ち足りた時間は、長くは続かない。それを人よりも知っているという嫌な自信がある。
なにしろ、あの世界でこれくらいの年齢だった時は、幸福な時間なんて存在しなかったのだ。
「どうしたんですか? ぼーっとして」
振り向くとルナがその碧眼を大きく見開きながら、俺を見つめていた。
その双眸を見つめ返すと、もしかしたらルナのおかげで俺は今幸福なんじゃないかと、この風変わりな存在に感謝の念が湧き上がった。
────
新たな生命の誕生から、二十日ほど過ぎた。
赤子は今のところ元気に育ち、母親の乳を飲んでいる。
そういえば昔羊の乳を飲んだがあまり口に合わなかったなどと懐かしい記憶を呼び覚ましながら、俺は土をひたすら掘り起こしていた。
「んっ」
メイの所有する土地の一角で、以前は作物を育てていたのか、そこだけ草が生い茂っておらず、黒土が剥き出しになっていた。
それほど広さはないが、俺が来たことで自分達が食べる野菜くらい少しは自給しようとメイが言い出し、俺が畑を耕すこととなった。
農作業の経験はあまりない。
親や若い頃世話になった部族は一定の土地に定住しない遊牧民だったし、家を構えるようになってからは羊飼いをしていたので、誰かの畑を少し手伝った程度の記憶しかない。
それでも、その苦労は体が覚えていた。
とにかく、土を掘り起こすのに苦労した。
力いっぱい鍬を振り下ろしては、重く硬い土に阻まれたものだ。
「しかし、これは随分と楽だ。昔はあんなに苦労したのに⋯⋯」
だがそれは俺達の世界の文明がまだ未発達だったせいらしい。
今俺が持つ鍬は、鍬の先端が鉄で出来ており、振り下ろすだけで深く刃が突き刺さり、土を掘り起こしてくれる。
植えるのはカンショという紫色の皮をした芋で、芽が出たものを土の中に入れると、成長してさらに実をつけるらしい。
掘り起こした土の中に芋を埋めて土をかぶせてやれば、それで後は放っておけば何とかなるらしい。
それにしても腰が痛い。若返って腰痛から解放されたはずなのに、農作業をするとすぐ腰が痛くなってしまう。農家はすごい。
太陽がじりじりと体を焼くように照り付けてくる。
肌が色づくように、髪も幼少期のような色に戻らないかと、指でつまんでみたが、そもそも昔の髪色を覚えていなかった。
父や母や兄弟は樫の枝のような髪色をしていたから、俺もそれに似ていたのだろうか。
羊たちのことは、ルナが見守っていた。
あの娘はほとんど働かない穀潰しのようなものだが、なぜかメイは何もいないどころか、むしろ話し相手や交友相手として俺以上にルナを重宝している節がある。
幼馴染とはそういうものなのだろうか。小さい頃の友人は俺の家族が死んだとき、ともに死んだか逃げ出したかで以降再会することがなかったから俺にはわからない。
「さっさと消え失せろ! この人間の屑どもめ」
ルナたちを眺めていると、ふとどこからか人の怒号が聞こえた。
どうやら声は街のほうから聞こえてきたみたいだが、ここまで届くとはただ事ではなさそうだ。
「喧嘩でもしてるのか」
なぜか俺は羊をなでるルナに近づきながら尋ねた。
「さあ、ただ事ではなさそうですけども」
ルナの視線が街のほうにむけられ、神妙な面持ちで息をのんだ。
なんとなく聞いただけだが、もしかしたら何か心当たりがあるのだろうか。もしかしたら、今のは知り合いの声なのだろうか。
「すまんルナ。ちょっと様子を見てくる」
「え、ちょっと望さん」
ルナは俺を呼び止めるつもりだったかもしれないが、とにかく外に向かって走った。
心の中でメイに謝罪しながら、彼女がいる家のほうを見てみると、メイは玄関先に立って、町のほうを見つめていた。
街中、というより大通りだが、ずいぶんな人だかりができていた。
人だかりの中からは相変わらず罵詈雑言が響き、周りの人間もそれに反応して何者かを罵倒している。
「死ね屑どもが」
「息子を返せ!」
そんな悲嘆の声がこだまする。
いったい群衆の中には何がいて、何が行われているのか。強引に人をかき分けながら中に入っていくと、胸が締め付けられる思いがした。
中には、剣を売っていた店の店主がいて、ふたりの男に腕を抑えられながら、目の前の相手に向かって言葉にならない声で叫んでいる。
対して、罵詈雑言を浴びせられた相手は、黒い頭巾と着物で身を包み、白い歯を見せながら飄々と人を見下すような笑みを浮かべている。
何も俺は、その二人を見て胸が痛くなったわけではない。
そのふたりが対面しているだけなら、ただの喧嘩だ。どちらかが人殺しにでもならなきゃそれでいい。
俺はゆっくりと、頭巾の男の後ろに視線を逸らす。
そこには、黒い鎧を被った男が数人、腰に剣を差してほくそ笑むように店主を見ている。
さらにその後ろには、白いぼろきれをまとった裸足の男女が、手には枷をはめられ、足はみな銀色の縄でつながれた状態で、死んだ目をして立っている。
つながれた人数は十人ほどだろうか。みな死んだようなうつろな目をして、店主や周りの声なんて聞こえていないのか、それとも自分の行く末に絶望しているのか、ただ俯き、散らかった髪の毛で顔を隠している。
「奴隷か⋯⋯」
俺は無意識に、忌々しい記憶を呼び覚ましていた。
商の軍勢に襲われ、老若男女かまわず手を縛られ、足を縄で連環させられ、連れていかれる仲間たち。
その姿と今の彼らが寸分違わず重なる。
おそらく、頭巾の男とその後ろの武器を持った男たちは奴隷商人なのだろう。
それで人々が集まり、あの店主や周りの人間が怒り狂っている。
俺だってこの場に立っているだけで怒りで身を焦がしてしまいそうだ。
だが今の俺にはどうにもできないし、このままだ群衆の中から怪我人が出る恐れがある。
とくに、店主の男はこのままだとやつらの怒りを買って何をされるかわからない。
「俺の弟を返せ! 妹を返せ!」
店主の叫びが耳をつんざく。腕を抑え制止されながら、店主は嚙みつくような勢いで、前のめりになって男をにらみつけている。
その眼には若干の涙も見えるが、頭巾の男にはなにも響かないのか、相変わらず人を小ばかにするようにほくそ笑み続けている。
「なんだ。この中に身内がいるのか? なら売ってやろう。特別に安くしといてやるぞ」
頭巾の男が嘲笑するように言うと、その後ろの男たちも不快な笑い声を発した。
縛られた者たちや、店主の様子から見て、この中に彼の身内などいるはずもない。たとえいたとしても、この男は店主を侮辱する意図しかもっていない。
この奴隷商人を今ここで殺してやりたい。
だが何の武器も持っていないし、仲間もいない。
この群衆がやつらに襲い掛かりでもしたら、即座に加勢するのだあ、その様子もない。
相手が武器持ちだとしても、この人数なら一斉にかかればなんとかなるはずだ。だが誰もそれをしないということは、おそらく恐れているのは、この商人たちを葬った後に待つ報復だろう。
「う、うう⋯⋯返せ⋯⋯」
店主の体から力が抜け、するりと滑るようにその場にしゃがみ込み、目から雫をこぼした。
「はは、行くぞお前たち」
店主を見下ろした頭巾の男は男たちに指示すると、そのまま群衆の中を進みだした。
自然に、人の塊がばらけ、道ができる。
何事もなかったかのように過ぎ去るあの男たちは、本当に俺と同じ人間なのだろうか。
ひとりの捉えられた男が顔を上げると、偶然か必然か、目が合った。
その目は何も恨んではいなかった。ただ自分の運命を受け入れ、悲哀を滲ませながら、わずかに残った希望で俺に訴えかけているように思えた。
「助けてくれ」
そんな声が頭の中を反響していた。俺は、奴隷とされるであろう彼らの姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。